第20話 仕事と休憩
久しぶりの早起きで二度寝したくてたまらなかったが、スーツに袖を通した瞬間その気持ちは消え失せた。
この、強制的に背筋が伸びる服によって、私は初勤務の準備をする。
朝食は胃に良いと言われているしじみ汁を飲み、歯を磨いて髪を整える。
準備ができた。
時計を見ると、出発時間までに20分ほどの余裕があった。
焦っても仕方がないと、スマホでラジオアプリを起動して番組を聞くことにする。
朝は目がショボショボするので、テレビや動画よりもラジオの方が適していると、私は思っている。
10年以上前から活躍している芸人さんのお喋りに、時々クスッと笑いながら時を過ごす。
何だか幸せだ。
余裕を持って準備をしたからこその隙間時間。
キチンとしている自分へのご褒美のような時間。
そして、これからやるべきことがあるという安心感。
それらが、私の心を優しく包んでくれる。
大丈夫。
あの兄妹のおかげで成長した私は、きっと大丈夫だ。
さて。
そろそろ出るか。
「ん……ちなみ。もう行くのかい?」
寝室から、コウくんが目をこすりながら出てくる。
そうだ。この子のことを忘れてはいかけなかった。
いつも、私を引っ張ってくれる、この可愛い可愛いぬいぐるみに、私は言う。
「うん。いってきます」
「いってらっしゃい」
寝ぼけ眼で手をひらひらさせているコウくん。
彼が家で待っていてくれている。
じゃあ、無事に帰れるように頑張らなくちゃ。
私は、しっかりと前を向いて玄関を出た。
\
「おはようございます! 今日からお世話になります水野ちなみです! よろしくお願いします!」
まばらな拍手。
もっと、たくさんの人の前で挨拶するものだと思っていたが、午前8時の小説フロアには稲垣さんを含めた3人しかいなかった。
他にも社員はいるが、徹夜をしたため仮眠を取っていたり出張などで大半はいないらしい。
「はい。よろしくお願いします。じゃあ早速ですが、この資料の整理をお願いします」
私用に準備してくれたであろう机には、A4サイズの紙束が置かれていた。
「平井ドク先生の新作がホラーでして。それ故に都市伝説を調べていたのですが、こんな量になってしまいまして」
「なるほど。了解です!」
エモい雰囲気を出しまくってしまったが、私の新しい職場、「モナド出版」での立場はバイトである。
編集者と聞いて、作家さんと熱い打ち合わせするという場面を思い浮かぶ人は多いだろうが、バイトである私の仕事は主に雑用だ。
具体的には発送業務や原稿や資料のコピー、アンケートの整理など。まぁ、探せば山ほど仕事はある。
こういったデスクワークは苦手ではない。
(まずは、与えられた仕事をこなそう)
そう思った私は、集中モードに入った。
\
「……さん。水野さん」
そのモードが、稲垣さんの声によって解除された。
「あ。はい。あと少しでも終わります!」
「後で私も手伝おうと思っていたのですが……。もう、こんなに進んだのですか」
目を丸くする稲垣さん。
まぁ、確かにそれなりの量だったが、前職のムチャブリに比べたら大したことでもない。
それにしても、バイトの私なんかの仕事を手伝おうとしていたなんて、優しい人だなぁ。
「……なるほど。先生も気にいるはずだ」
「はい?」
声が小さくて聞こえなかった。
「あ。いえ。それより、もう12時なので食事を摂ってはと言いにきたのです」
おっと。もうそんな時間か。
久しぶりの集中モードで感覚が狂ってるな。
「え? 食事に時間を使って良いんですか? 私、仕事をしながらカロリーメイトでも齧ろうと思ってました」
「……水野さん」
稲垣さんは、スッと息を整えてから続ける。
「前職のシステムは、1回忘れましょう。仕事は休憩を挟んでするものです」
少し怖い顔になっているけど、怒っているわけではないことくらいは、私にも分かる。
「もし、私が特別優しいという感情を抱くのもやめた方がいい。私は普通のことを言っているだけです」
「……はい」
とりあえず、そう答えた。
でも、そうは言われても私の稲垣さんへの認識は変わらない。
少なくとも私にとっては、素晴らしい上司だから。
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