第10話 真田一花
1971年 日本、東京—————
茜木英は、病室の白い布団の中で目を閉じていたが、音もなく部屋に入ってきた人の気配に気づき、ゆっくりと瞼を開く———何となく「彼」が来る、その予感がしていたのだ。
ベッドの脇に静かに立つその人物を見上げると、そこにはあの時と全く変わらず、無表情でいて、どこか切なげな瞳を抱いた美しい青年がいる。
「ああ…本当に、一つも変わらない……走馬灯かと思いましたよ」
ふわりと口元を綻ばせ、目尻に皺を寄せる。どれだけ老いても、声がしわがれようとも、口を開けば軽い冗談を言う。そんな英らしさに、東城はふと笑みを溢した。
「何度も言ったでしょう、僕は吸血鬼なのだと」
「兄さんのように……美味しい珈琲を淹れる吸血鬼は、そうそういませんよ……」
その言葉に、東城は少し視線を逸らした。あの日、焼け野原で交わした30年前の約束を叶えられていなかったからだ。
祖国ルーマニアへ帰った後、父ヴラド3世は、戦後の欧州社会にて何かと自分に命令や任務を言い渡した。珈琲貿易にはもう興が冷めたらしく、自分をそばに置いて日本に帰らせんとしているのはわかっていた。しかし、それは半分言い訳にすぎず、実際彼は「巴珈琲喫茶店」が跡形もなく灰と消えたあの日から、ここに戻ってくる自信がなかったのだ、というのも、自分で薄々気づいていた。
それでも彼は、もうこの世を旅立とうとしているかつての弟弟子に最後の冗談を返すため、ここに来なければならなかったのだ。
「僕の淹れる珈琲は不味いと証明しますよ」
東城はそう言ってわざと不敵な笑みを見せながらも、持っていた袋から茶色の粉の詰まったガラス瓶を取り出す。
「おや、まさか……」
英はそれを見て目を丸くし、東城はふっと笑った。
「貴方が死ぬ前に、珈琲を淹れにきました」
東城は静かにそう言いながらも、先ほど看護師からいただいてきたマグカップの湯の中にサラサラとその粉を注ぎ入れ、軽くスプーンでかき混ぜる。
もちろん、東城はこの「インスタント・コーヒー」なるものの味を知らない。しかし、人間の言うような「美味しい珈琲」が、湯に粉を混ぜるだけで出来上がるとは到底思えない。それは長年、巴の横で彼の技を見、花を笑顔にするような「美味しい一杯」のために英と共に試行錯誤を繰り返した彼が一番よく知っている。
しかし、今は———それが漆黒の液体であることと、「珈琲」の名を冠していることこそが、この別れに必要な「一杯」だったのだ。
東城は老いて自由に起き上がることもできなくなった英をゆっくりと抱え起こした。湯の温度が熱すぎないか確認し、慎重にマグカップを近づけ、まるで薬を飲ませるように彼に飲ませてみる。
「兄さん、これは……」
一口、その漆黒の液体を啜った英は、一瞬息を呑んで目を丸くした。
「至極不味い…兄さんが淹れたものの中で、最悪の出来です」
英があまりにもはっきり言ったのに対し、東城は堪えられなくなって、くつくつと笑いながらも、マグカップを横の机に置く。
「兄さん、喫茶店を、開いてみてはいかがですか」
英はその老いた瞳に、どこか楽しげな輝きを滲ませて提案した。東城はそれを見ると、切なげに笑って首を振った。
「言ったではないですか、僕はもう———」
「あの頃を思い出すのが、怖いですか?」
そんな英の言葉に、東城はふと動きを止めて彼を見つめる。
「私が誘ったあの時、兄さんは首を振りました。何となくわかっておりました。兄さんは長生きですから、『思い出』が思い出になるのに、随分と時間がかかると言うことを」
英は、まるで自分の息子、そして孫を見つめるように青年を見つめた。彼は自分より若く見えて実ははるかに年上だというのに、今となっては彼にこの「冗談」を言わなければ気が済まないように思えた。
「しかし、喫茶店を開くなんて…ほんの冗談ですからね?本気にするほど…、兄さんは真面目ではないでしょう」
英は弱々しいながらも、にやりと微かに笑って東城を見た。
「……うまいことを言うな」
東城は、してやられたと言った表情でため息をつきながらも、どこか憎めない様子で英を見つめ返す。
英は知っていた。彼は誰より誠実で、真面目であることを。彼は数々の冗談を言ってきたが、兄弟子はその大半に戸惑い、呆れていた。何故なら、彼は冗談に対して冗談を返す術を知らないほど頭が固いからだ。
「おじいちゃん!」
と、突然子供の声がした。子供は病室の扉を開けて入るなり、英のそばへやってきてわっと彼に抱きつく。
「おじいちゃん、元気?ねえ、これからもずっと元気でいるよね?」
子供は心配するように、その弱々しい姿の老人に尋ねる。と、後からその男の子の母親らしき女性が部屋に入ってきて、「ほら、
「ああ、おじいちゃんはずっと元気だよ」
英は、自分の孫を安心させるようにそう言って笑いかけた。
東城はそこでふっと息をつき、席を立った。怪訝な顔をする母親に軽く会釈し、英が一口飲んだだけの、まだ湯気が昇り立つカップを横目にして、静かにこの場を離れようとした。英にこのような温かい家族と、祖父想いの孫がいると知れただけで、十分だった。
「おじいちゃん、あの人だれ?」
病室を去る手前、そんな子供の声が背後から聞こえた。英はニコリと孫に笑ってみせた。
「おじいちゃんのお兄さんだよ」
「えー!?また変な嘘ばっかり」と頬を膨らませる無邪気な声に、東城は微かに口元を緩め、静かに扉を閉めた。
◆
2017年、東京————
人の世は奇妙であるが、運命というのもまた不思議である。東城聖はもう300年以上この世を生きているというのに、彼の予想を超える出来事は尽きない。
久しぶりにたま爺が「キャッスル・ブラン」へ訪れた。雨足が強くなる中、入口の扉の鐘をチリチリと鳴らし、水滴の滴る真っ黒い傘をぱたりと閉じて入ってくる。
たま爺はいつものごとく丈の合っていないビジネススーツを着こなして、スルスルと幽霊のようにこちらに近づくと、にやあり、と妖怪めいた気味悪い笑みを向ける。
「ヒッヒッヒ、ヴラドの若さん、相変わらずですなあ」
「……たま爺さん、久しぶりです」
東城聖は少し眉を上げ、湯を注ぐケトルを手に持ったまま、窓辺に座った客を一瞥してから声を潜めて言う。
「あの客が帰るまで、少し裏で待っていてくれませんか」
「いやはや、商売繁盛とはこのことよ」
たま爺はまたニヤリと笑い、うんうん、と何度か頷きながら店の奥へと姿を消す。東城は再びケトルを握り直し、ふわりと盛り上がる褐色のきめ細やかな泡の上に、ゆっくりと小さな円を描いていく。
「お待たせ致しました、ブレンド珈琲です」
この客は砂糖もミルクもつけない————というのを東城が覚えるほど、このスーツの中年男性は何度か店に通っていた。彼は本からふと顔を上げて、無言で頷きながらも出された珈琲を啜る。
いつも無言で無表情の男だが、頼むものはブラックのブレンド一択というところを見ると、東城の珈琲が気に入っているのであろう———まあ、無言で無表情は東城も同じことだが。
この営業スマイルをなるべく節約するバリスタと、奇妙な置物で飾られた古い喫茶店に通う物好きに、笑顔やサービス精神を目当てに来るものはいない———数ヶ月前から「クールミステリアスの聖クン」目当てに通い始めた女子大生たちならいるが。
スーツの男は、この珈琲を10分以上かけて飲んだことはなかった。冷めるのが嫌なのか、いつも時間がないからなのかはわからない。男は空のティーカップをかちゃん、とソーサーに置いてふう、と一息つくと、この後も仕事があるのか少し急ぐように強くなる雨の中を去っていった。
チリチリと鐘が微かに響く中、東城はそれを無言で見送る。「ありがとうございました」すら言わない店員が今時この世にいるだろうか。
「いやヴラドの若さん、人間のために珈琲を淹れる吸血鬼なんざ、この世にあんたさんしかいないさね」
と、背後からまたヒッヒッと笑う声が聞こえる。東城は振り返って、少し皮肉めいた笑みをこぼした。
「……そうかもしれませんね」
雑居ビルの間に挟まれた昭和生まれの喫茶店、キャッスル・ブラン。これを開業したのは、「昼の顔」を見せるためだった———
「しかしですな、ヴラドの若さん、あんたが東京にずっといるんには、何か表向きの『顔』が必要でっさな」
昭和48年、英がこの世を去って2年後のことだった。同族の匂いを辿って紛れ込んだ都会のクラブの一角で、怪しい老吸血鬼と知り合った。杉林玉造と名乗る彼は、東城の正体———吸血鬼界の王の息子であるということ———を知りながら、“ビジネスパートナー”にならないかと話を持ち掛けてきた。
「顔?」
「何か人間らしい商いをするんはどうですかな?たとえばバーやクラブ、レストラン、あるいは喫茶店など、人が集まるところなら何だっていいですぞ」
「……」
怪しい笑みを浮かべるこの古参の吸血鬼は、戦後の東京にて「日本血液協会」なるものを創立し、赤十字社から裏ルートで血液を仕入れ、それを吸血鬼たちに売るというビジネスを始めるつもりらしかった。そしてそのためには、「人間から直接血を吸わない」と言うルールを制定し、その秩序を守る役目が必要だと言った。
たま爺は言葉巧みに東城を誘い、「探偵」をやるのはどうかと提案した。「探偵?」と彼が目を顰めると、「あい、吸血鬼が起こす事件を専門に調査する探偵でさ」とうんうん、と頷いた。
東城聖は少しの間考えた。そんな面倒な役割を引き受けるつもりはない、だが———
祖国ルーマニアに帰り、父の言いつけでまたヨーロッパやアメリカを行き来するのももう疲れた。
なぜかはわからないが、花も巴も、ついに英もこの世を去ってしまった今、自分もここを去ってしまえば、“何か”がなくなってしまう気がした。
それから程なくして、東城は父に手紙を送った。東京にて喫茶を営みながら、裏で吸血鬼界の秩序を取り締まることを、「父上の権威を広め、日本の吸血鬼界を統治いたします」と、父が喜びそうな理由と言葉を添えて。
喫茶店を開くというと、父は珈琲豆の輸入ルートとともに、「店の内装用に」となぜか彼の自慢の所蔵品も送りつけてきた。謎の壺や絵画や置物—————喫茶の内装用にしては些か突飛だが、父の宝を捨てるにも隠すわけにもいかず、苦労の末どうにかして整えた。
「しかし、最初はあっしも、なぜ喫茶店を、と首を傾げたもんですなあ」
たま爺は店の裏で血液パックを選別しながらも、しみじみと言う。
「まさか、あんたさんの珈琲がここまで人間に好かれるとは。そのうち人気が出たら、陰で生きられなくなりますなぁ」
「それはないですよ、僕のは『巴ブレンド』と言うかなり古いもの、どうやら好みが分かれるようですから」
「ほう、まるで人間のような物言いじゃ」
ヒッヒッヒッ、とたま爺は一際高らかに笑った。と、どう言うわけか、それを合図にしたように、店の表のホールの方で、突然ガラスが割れたような甲高い音が響いた。
「……?」
たま爺と東城はお互いに顔を見合わせる。たま爺は「はて?」と小声で言い、店のほうに顔を出した。
「ってー、あら、それ、割っちまったんかい、あんたさん」
と、たま爺の声が表から聞こえ、東城は眉を寄せながらも、カーテンをくぐってカウンターに出た。
………。
濡れた髪の先から雫を垂らし、学生服の少女が青ざめた顔で立ち尽くしていた。
その足元には、粉々に砕けた“あの”壺———「中華の吸血鬼王から贈られた友好の証だ。喫茶の権威を示すに良かろう」と父が40年前にこちらに送りつけた
「……結構派手にやったな」
これは————ただでは済まないだろうな。
と、東城は心の中で絶望のため息をつきながらも、「あの、店長さんは今…」などと慌ている謎の少女を見つめて、言い訳を考えた。
「棚から落ちた」と偽る———いや、それでは自分が殺される。「悪の吸血鬼によって葬られた———いや、それでは他の所蔵品が狙われなかった理由に説明がつかない。
青年は、しばし思考した後に、考えついた。そうだ、ここを手伝って貰えばいいのだ。かつて、自分が巴珈琲喫茶店にて修行をしながら店を手伝ったのと同じく。「罰として、下僕にして働かせている」と言い訳をして、探偵事務所の助手にでも任命すれば、父も容易に手は出せないだろう。
東城聖は自分の名案に頷いていた————後に、この一人の人間の少女に自分が振り回されることになろうとは、つゆ知らず。
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