第8話 薬



 東京・御茶ノ水に居を構えていた由緒正しき氏族の家系「桐ヶ崎家」が炎の灰に散ったと言う事件は瞬く間に人々の間に広まった。また一つ、時代に取り残された者が、明治の影に散っていったと噂する者もいた。


 しかし、それよりもさらに人々を震撼させる事件が、火事のすぐあとに起きた。政治家や金持ちの、不可解な連続失踪事件———そんな号外記事が新聞の見出しを覆い、人々は怯え、口々に言った。


「火をつけた犯人が、今度は人を攫っている、次は自分の番だ」と怯えて出かけなくなる者もいれば、「神隠しだ」などと時代遅れの考えをする者、また「外国人の仕業だ、日本を陥れる気だ」とわざと触れ回るものもいた。


 が、彼らが失踪して少し経つと、警察は新たに判明した事実を発表した。失踪した者たちは皆、闇商人と裏取引をしていた堕ちた政治家や権力者、そして外国からきた、謎の密売人たちだったこと。人々はそれを知ると、「闇の英雄が現れた」「影の制裁者」などと勝手なことを言って、その名も顔も知らぬ犯人を称えた。


 行方不明者たちは、まるで煙のように痕跡も残さずに忽然と姿を消し、結局いつになっても戻らなかった———。


 やがて世間がそんな事件があったことも忘れ始めた、秋口の頃。


 少し肌寒くなってきた夜に肩を震わせて外に出た巴は、一瞬曇った夜空を仰ぎ、それから徐に煙草を取り出し、火をつけた。


 と、誰かの視線を感じた巴は、ふと暗闇に目を凝らす。音もなく現れた男は、喫茶店の裏口の壁の影に隠れるようにして、こちらをじっと見つめている。


 巴はその突然の夜の訪問者に一瞬驚いて身を固めたが、青年が徐に発した声は、聞き覚えのあるものだった。


「僕は……怪物でしょうか?」


 怯えたような、縋るような問いかけ。巴は一瞬息を吐き、まだ長い煙草を地面に投げ捨てて彼に近づき、思わずそっと抱きしめた。


「……心配していたのですよ」


 花が怪火に消えたあの事件の後、彼はそれこそ煙のように姿を消した。元々身を隠すのが上手い種族だし、青年は人と距離を取ることに慣れている。巴は「連続失踪事件」の記事を読み、彼がまだ日本にいることを薄々知ってはいた。が、あの無口な青年のことだ、別れも告げずに去ってしまったと思っていた————今の今までは。


 青年の身体はひどく冷たかった。巴はその冷え切った薄い背中を宥めるように、ぽん、と手の平を優しく乗せる。


「巴さん、僕は、きっと怪物です」


 彼はもう一度、震える声で言った。まるで、自分自身を恐れるかのように。


「あの者たちが、父によって処刑されると知っていながら、外国船に乗せて、彼らを送った。自分で手を汚すことすらせず、でも彼らを冷酷にも見捨てた」


「そうは思えません」


「なぜ、そう言えるのですか?」


 青年の声は荒立っていた。巴の返答に納得が行かないと言うように。


「今、貴方が涙を零しているからです」


 言われた彼は、ハッと息を呑む。今自分を包んでいる感覚は、花がいなくなった時のそれと似ていた。視界が霞み、目が熱くなり、心臓が———それがもし動くのであれば———見えない何かで締め付けられるように痛い。


「悲しみ、怒り、後悔、罪悪感、愛する誰かを失う苦しみ————そんな人間らしい弱さと感情を持ち合わせた者が、怪物である筈ありません」


 青年の瞳は、また涙に濡れた。後から後から、それは止まらなかった。その感情に、名前はつけられなかった。しかし巴のそんな言葉は、まるで自分のために淹れられた一杯の温かい珈琲のように、彼を包んだ———例え、そんなものを飲んだことがなかったとしても。


「……兄さん!?」


 ふと、驚くような声が聞こえた。ああ、懐かしい。数ヶ月しか離れていなかったと言うのに、この呼び声が懐かしく感じるとは、時の流れの感じ方が随分変わったのだろう。


「兄さん!」


 彼は涙の滲む掠れ声でそう叫んだかと思うと、いきなり勢いよく、東城に格闘技を仕掛けた———ように見えただけで、それはただの勢い余った力強い抱擁だった。


「どこへ行っていたのですか!! 探したんですよ、でも師匠は探さなくていいと言うし、でも、僕は、もしや貴方が花さんの跡を追って自ら命を絶ったのかと心配し———」


「英さん、僕が不死身の身体というのを忘れたのですか?」


 固くきつく抱きしめらそろそろ苦しくなりながらも、呆れたようにため息をつくと、英は首を振った。


「兄さんが自分を責めるあまりに、自分の命で償おうとしているのではないかと心配したんです」


 英の言葉を聞きながら、むしろそうできればどんなによかったか、とこの数ヶ月何度も考えたのを思い出す。人間のように簡単に自分の命を絶つことができたら、この苦しみから解放されるのかと、何度も自分に問いかけた。


「あの火事の日、兄さんについて走っていったら、そこにいた女中に助けを求められたんですよ。異国の顔をした青年が、一人で火の中に飛び込んでいったのを見た、と。ありゃもう助からない、心中だ、とその女中は言っておりましたが、少し火が収まった後、まるで花さんだけ誰かが運び出したように池のそばで倒れているのを見て、女中は言葉を失っておりました」


 東城はあの日のことを思い出すと心臓が痛くなるのを知っていたため、目を逸らした。今更英は何を言っているのだ、もう花さんは戻ってこない、彼女は———


「兄さん、貴方が花さんを助けたんですよ」


 英は真っ直ぐに彼を見つめて言った。その言葉に、東城は一瞬動きを止める。


「貴方が、その不死身の身体で火に入り、花さんを運んだ。教えてください、兄さん。花さんが息を引き取る前、少しでも言葉を交わしましたか?それとももう———」


「英、落ち着きなさい」


「でも————」


 涙を浮かべ、段々と感情に呑み込まれるように必死に東城を問い詰める英を、巴は静かに止めたが、彼の気持ちも痛いほどわかっていた。


 英もやはり、東城と同じく花を大切に思っていたし、何よりその苦しみを共に分かち合う前に「兄」が無言で消えてしまったのは、もっと辛かったろう。そして、彼のそばにいてやれなかった「自分自身」を無力に感じているのだろう。


「花さんは……僕たちのことを、『薬』だと言っていました」


 東城はそこで、英に答えるように呟いた。


「え?」

 

「嘘か本当かはわかりません。でも確かに、僕の珈琲が、そして僕たちと過ごした日々が、自分の余命を延ばしてくれたのだと」


 黒い煤に塗れ、痛々しい火傷を負いながら、それでも心から幸せそうに微笑んでいた彼女。その記憶はこの数ヶ月間、東城聖がずっと封印し続け、いつしか思い出せなくなっていたものだった。


「幸せでした、と、笑っていました」


 彼の声は震え、涙が伝っていたが、その瞳は少なくとも、もう先ほどのような悲しみや暗闇には覆われていなかった。


「……」


「そう……ですか」


 巴と英も、そんな優しい涙を零す吸血鬼の青年の、誰より人間らしい切ない笑みに、そして、花が最期まで強く美しく咲いていたことに、心を震わせていた。

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