第3話 新型巡洋艦

 帝國海軍水雷戦隊はユトランド海戦でのドイツ巡戦隊との戦いにおいて緒戦で旗艦の軽巡洋艦綾瀬が大破し指揮系統が被害を受けたため各駆逐隊の連携が取れず、混乱のなか五月雨式の雷撃戦に終始し戦果を得る事のないままいたずらに損害を増やしてしまった。

 この無様な戦闘を招くことになった要因として第一に挙げられたのは、ドイツ艦隊の砲撃により真っ先に大破して司令部機能を喪失することになってしまった旗艦である軽巡洋艦の抗甚性のなさだった。


 通常水雷戦隊は旗艦を先頭に一列縦陣で戦闘行動を取るのだが、戦隊が会敵して襲撃運動に入る時に相手艦隊は当然のことながら先頭の大型艦を戦隊旗艦と認識し、その指揮能力戦闘力を奪うため多数の砲火を先頭艦に集中する。

 ユトランド沖の戦闘においては装甲がほとんどないに等しい軽巡洋艦が旗艦に充てられていたため、ドイツ艦隊の集中砲火は瞬時に水雷戦隊旗艦の指揮戦闘能力を奪うことになった。


 仮に駆逐艦に追随できるほどの速力を持つ装甲巡洋艦が旗艦として配備されていたと想定した場合(もちろん当時該当するような性能の艦艇は金剛級巡洋戦艦以外には存在せず、誰もそのクラスを持って水雷戦隊旗艦に充てようとは考えもしなかっただろう)、駆逐艦、軽巡洋艦の砲火ではその突撃を阻止し得なかったものと考えられる。

 もちろん主力艦から砲火を指向されることもあるだろうが、彼女たちの主砲はより脅威度の高い敵主力艦に向けられているため、戦艦の副砲程度の破壊力では旗艦の指揮能力に支障は生じないだろう。


  ユトランド沖海戦の戦訓を取り入れた新世代の水雷戦隊旗艦たるべく軽巡洋艦加古の建造が計画された当初、この艦は装甲巡洋艦相当と考えられていたため艦名も軽巡名に該当する河川名ではなく山の名が予定されており、一説によると鹿児島県の開聞岳が採用される筈だったという。

 その計画が見直され基準排水量が7,000トンを切ることになったことと主砲に14センチ砲が採用されたこともあって、改めて軽巡洋艦として建造された新型巡洋艦は兵庫県を流れる加古川の名を持つことになる。

 加古は本来八八艦隊で大量に建造された5,500t級巡洋艦に用意されていた艦名だったが、実験艦的存在である装甲指揮巡洋艦に流用された。


 加古には重装甲・重武装という特徴のほかに、生残性を高めるための技術的実験としてシフト配置式の缶室・機関が採用されている。

 機関部がシフト配置式の場合缶室・機関・缶室・機関の並びで機関部が配置されているため、機関や主缶の一部に損傷が生じても前後にシフト配置された機関部の一方が生き残っていれば動力が喪失することがなく艦艇の生残性が向上する

  この機関配置方式は当時としては斬新なものであり、推進軸や軸継手の強度不足による振動問題などの問題が山積し建造期間の長期化と完成後の度重なる改修に繋がってしまった。


 強武装重防御の水雷戦隊旗艦という新たな概念で計画された巡洋艦加古は建造開始された後も試行錯誤が続き、運用方針のぶれから設計変更が頻繁に行われたため完成当時の基準排水量は当初計画より1,000トンも増加し7,800トンにも及んでいる。        

 加古の排水量の増加は完成以降も続いた。主砲の換装をはじめとして三次に亘って行われた大改装と多くの改良により、その最終時の基準排水量は10,300トンに達していた。


 軽巡洋艦加古の計画時の要目は、基準排水量6,800トン満載時7,500トン、艦本式タービン2基缶室8基8万5千馬力速力34ノット、18ノットで9,000キロの航続力、武装は主砲50口径14センチ連装砲4基8門と8センチ単装高角砲4門、61センチ連装魚雷発射管6基12射線を搭載し、主砲塔や重要部に対12センチ砲防御、弾薬庫は対15センチ防御、さらに水上偵察機1機を搭載予定というものだった。

  高速重防御重武装の巡洋艦を目指した設計の結果、艦上構造物の重量が過大となるトップヘビーな艦形になっていた。


 加古が佐世保工廠で起工されたのは大正11年、正式に竣工したのは大正15年で足掛け5年間にわたって建造が続けられたことになる。

 工事期間が長期に亘ったため、搭載兵器など各種装備は当初の計画から変更されたものも多かった。

 高角砲が8センチ単装砲4門から12センチ単装砲4門に変更されたほか射撃管制装置や通信設備等も当時の技術の発展に伴いそれぞれ最新のものに置換されていった。

 これらの多くの異例の変更は、加古が新技術のテストベッドとして艦政本部から捉えられていた事にもその要因を求めることができる。


 加古就役を目前に控えた大正15年2月、公式試験において転舵時の艦の傾斜が計画よりも大きくなることが問題になった。

 特に燃料減少時に船体が大角度に傾斜してしまい、天候によっては艦が危険な状態に陥るとの試験結果が報告された。

 このため加古は予定されていた就役を延期し、重心を下げるため艦底にバラストを積載する対策を採った。

 しかし就役後の練成訓練中重油を大量に消費した軽荷状態で遭遇した荒天下の航行時に、艦の傾斜が戻らず横転の危機にさらされる。

 このときは緊急に反対舷に注水することで事なきを得たが、帰投後、艦政本部をあげて徹底的に復元力の研究が行われることになった。


 船体の復元性能が研究された結果、過大である船体上構部の重量減のため主砲塔の装甲化を取りやめ簡易砲塔に変更したほか、各主要部の装甲厚の減少、上構物の一部への軽量部材の使用、艦底バラストの重量増、浮力保持のためのバルジ装着などの対策が行われた。

 また燃料減少時の重心点上昇への対策として、空になった重油タンクへの海水注入が採用された。

 そのほか傾斜時の浸水対策として舷窓の多くが廃止され、その結果悪化する居住性を改善するため通風機能が強化される。

 これらの対策が終了して加古が連合艦隊に配備されたのは昭和3年も半ば過ぎだった。


 復元性問題はもちろん加古一艦の問題ではなく、以降の艦の設計に大きな影響を与えた。

 その結果行き過ぎた重武装など、過剰なまでの高性能化の追及に一定の歯止めがかけられることになる。

 しかしロンドン軍縮条約後、海軍は個艦性能優越化のため再びその轍を踏んでしまう。

 そののちそれは海軍艦政を大きく揺るがすことになる第四艦隊事件という、海軍史に汚名を残す大事故への扉を開いてしまう。






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