眼下に湖面を臨むピークにて
@nakamayu7
第1話 小女郎峠(こじょろうとうげ)
早朝JR湖西線の『蓬莱駅(ほうらいえき)』に下り立った松尾夕貴(まつお ゆうき)は好天の朝日を浴びてまぶしそうに目を細めた。小ぶりのリュックを背負い上げ改札口を抜けた夕貴はしばらく国道に沿って歩いた。早朝なのに意外とトラックが多く排気ガスに辟易とする。まあ、いつものことだけど。黙々と歩いて国道から山側の脇道に入ると乗用車やダンプの走行音が遠のく。騒音が遠のいたことを確認した夕貴は「はあ」と一呼吸入れた。
樹林から先は人界の届かぬ比良山系(ひらさんけい)の山塊が広がる。その懐の端にようやく潜り込んだことを確認して安堵した。
比良山系の山肌に琵琶湖(びわこ)を臨むようにして建ち並ぶ古い集落を抜ける。比良山系から湧出した未だ人界の穢れを知らない清水が家々の前に張り巡らされた用水路を琵琶湖に向かって足早に流れ下って行く。集落のあちこちに見られる古い土蔵は未だに現役で使われているらしく朽ちて崩れたものは見られない。そんな家並みを楽しみながら小1時間ほど上り坂を歩いてようやく『蓬莱山(ほうらいさん)』への登山道入口に到着した。そこからさらに2時間近く樹林の中に通じる登山道を道標や枝に付けられたテープの目印に従って登って行く。
『小女郎峠(こじょろうとうげ)』に着いた。夕貴はその雪面に誰の足跡もないことを確認して満足げに微笑んだ。
日本海からの風が琵琶湖方面に抜ける通り道にあたるこの標高1080mの峠は強い北風に飛ばされて深く雪が積もることはない。
小女郎峠の名の言われはその峠から少し山側に入ったところにある『小女郎池(こじょろういけ)』に由来する。小女郎池には池に住む白蛇と夫も赤子もいるお孝(おこう)という女性の悲恋の物語が伝えられているが、今は2月中旬、厳冬期のこの季節に深雪を踏み分けてまでわざわざ訪れるような人はいない。そんな物好きは私くらいかと夕貴は思う。
峠に積雪はほとんどない。登山靴のまま峠に立つ。今夕貴が登ってきた道を振り返れば眼下に冬の陽光を照り返して白く光る琵琶湖の湖面が見える。
峠は山中の交差点である。琵琶湖側から登ってきた夕貴の正面をそのまま進めば小女郎池を経由して京都府『下坂下(しもさかした)』へ至る。右に進めば雪原を経て蓬莱山の山頂に至る。強風のため高い樹林が育たず笹に覆われただだっぴろい雪原の向こうに蓬莱山の山頂が見える。ここからでは見えないが山頂の向こう側斜面はスキー場だ。麓からゴンドラとリフトを乗り継げばあの1173mの山頂には子供でも立つことができる。時折スキーヤーの姿がちらりと見えることがある。夕貴が今立っている場所は誰一人いない静謐な世界なのに、あそこから先は多くのスキーヤーや家族連れが集って賑わう雑踏があると思うと何か変な感じがする。
蓬莱山の山頂に向かう雪原の下が笹原であることは見た目では分からないが夏季に何度も訪れている夕貴は知っている。その雪原に不用意に足を踏み込めば腰まで沈み込んで歩くどころか抜け出すのにさえ難儀する。かんじきやスノーシューなしで決して踏み込んではいけない。
夕貴は蓬莱山とその下に広がる雪原をしばらく見つめていたが、おもむろにリュックからスパッツを取り出すとズボンの裾に装着し革製の重登山靴の靴紐に引っ掛けた。さらに土踏まずに軽アイゼンを装着した。雪は柔らくてよく締まっていたし、その下が凍っているとは思えなかったが、これから歩く稜線は片側が崩落して崖になっているような所もあるから念のためだ。がしがしと足踏みして感触を確かめ、夕貴は蓬莱山とは反対方向へと伸びる稜線の道へと歩みを進めた。
稜線沿いの緩い上り坂を軽快に登っていく。思ったとおり雪の締まりはよく、一足ごとにぎゅっぎゅっと雪を踏みしめる音が心地よい。右側は笹原の上に降り積もった雪原、左側は崖または急斜面。どちらにも目を遮るような高木はなく左側眼下には琵琶湖の湖面が見える。今日は予報通りの好天で風も穏やか。厳寒期の2月中旬とは言え少し春の訪れが近いような気配さえするような気持ちのいい日だった。
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