第12話 脱ペーパードライバー

 次の日、僕はそんなにたくさん飲まなかったので、二日酔いにもならずにいつも通り、朝の七時に目が覚めた。休みだけれど、十時に待ち合わせしているから、会社に向かわなければならない。

 これが休日出勤だったら本当にだるいけれど、桐藤さんとの研修だと思えば少しだけ前向きに向かうことができる。桐藤さんと休日も会えることは嬉しい。けれど、車の運転をしなくてはならないと思うと一気にブルーになる。軽自動車といえど、猛スピードで走る鉄の塊を操作しなくてはならないと思うと、手足が震えてくるくらいに緊張する。

 いつもは朝食に和食を食べるのだけれど、今日は食欲がなくて、棚にあったシリアルに牛乳をかけて簡単に朝食を済ませた。約束の時間までまだまだ時間がある。

「倉敷」に自転車を取りに行かなければならない。運転のできない僕にとって、自転車は大事な移動手段だ。

 僕は歩いて「倉敷」へ向かう。住宅街を抜けて、大通りに出ると「倉敷」までの道はただひたすらまっすぐだ。梅雨明けはまだしていないけれど、今日は晴れている。梅雨の晴れ間ってやつか、と僕はのんびり朝の散歩を楽しむことにした。緊張しても仕方がない。いざとなったら隣に桐藤さんがいてくれる。

 のんびりと散歩する僕を横に、大通りを凄まじいスピードで車が通り過ぎてゆく。僕の歩くスピードの、何十倍、何百倍の速さだ。僕もあんな風に自動車を自由自在に運転することができたなら、もっと早く移動できるし、行動範囲も広がるんだろう。そんなことを考えて歩いていたら「倉敷」に着いた。

 スマホを取り出して時計を見ると、三十分くらい経過していた。駐輪場には僕の自転車が一台だけ停まっていた。こういった田舎では、いい大人の社会人で、自転車移動しかしていないのは僕くらいのもんだろう。駐輪場にポツンと置かれたマイ自転車を見ていたら、なぜか突然にすごく空しくなってきた。だから僕は、急いで自転車にまたいで自宅へと向かった。

 自宅の前で自転車を止めてポケットから取り出したスマホを見る。十五分ほどかかっていた。車だったら、五分くらいで着くだろう。そう考えると、車に乗れるようになれば、買い物も今よりもっと短い時間で済ませられるし、重たい思いをして荷物を運ばなくてもよくなる。気になるお店とか、ちょっと遠くてためらっていた場所にだって遊びに行ける。そう思うと、少しやる気が出てきた。けれど、相変わらず恐怖心は消えない。

 

 約束の十時十分前に、僕は「花園不動産」の駐輪場に着いた。自転車をいつもの所定の位置に停めて、営業所の前で桐藤さんを待つ。突っ立ってぼんやりとしていたら、すぐに桐藤さんが駐車場から歩いてこちらに向かってくるのが見えた。ジーンズにロングTシャツといったラフな格好の桐藤さんも、仕事の時とのギャップがあってまた格好良い。

「おはよ。早いじゃねえか。やる気になったか?」

 桐藤さんはニヤリと微笑みながら言う。

「はい。まあ、何とか」

 僕はいまいち煮え切らない返事をしてしまう。

「二日酔いは大丈夫みてえだな」

「うん。そんなに飲んでなかったし。桐藤さんこそ、けっこうビール飲んでたけど、大丈夫なの?」

 全然大丈夫そうだったけれど、一応、社交辞令として聞いてみた。

「ビールなんか、水みたいなもんだ。あんなもん、飲んだうちに入らねえぜ。早乙女、そこそこ飲めるんだな。また近いうちに飲みに行こうぜ」

「はい。是非!」

「おっと、今日は車の練習だったよな」

「はい。よろしくお願いします!」

「何だ。思ったよりやる気あるみてえじゃねえか」

「えっと、実は、自転車を朝、取りに行きながら色々と考えてたら・・・運転、正直すごく怖いって思うんだけど、できるようになったら買い物とか色々便利だろうな、って」

「まあな。自転車とは雲泥の差だぞ」

「ちょっと、自転車をバカにしないでよ!」

「ハハハ! 自転車もまあ、早いからな。早乙女、ついて来いよ。鍵の場所とか駐車場のルールとか教えてやっからよ」

 僕は返事をして桐藤さんの背中を見ながら営業所の中に入る。車用で使う軽自動車は二台あって、現在は桐藤さんが二台を交互に痛まないよう使用しているが、ゆくゆくは僕と桐藤さんとで専用の車を決めたいとのことだった。それぞれシルバーと白の何てことのないよくある軽自動車で、運転席の扉にはそれぞれ「花園不動産」とでかでかとプリントされている。

「慣れて早乙女が乗るようになったらの話だけどさ、お前は白い軽のほうで良いよな? 俺、シルバーのが良いんだ」

「うん、いいよ。もちろん。シルバーのほうが乗り心地が良いとか?」

「というか、白よりシルバーのが偉い感じがするだろう? 何となくさ。光ってるし」

「うーん。そうかな。僕、白のがシンプルで好きかも」

「そっか。まあ、いいや。じゃ、決まりな」

「あ、でも、まだ僕、見学対応するって決めたわけじゃあ・・・」

「何、言ってんだ。俺がついてるんだから大丈夫だ。必ずできるようにしてやる。さあ、まずは運転席に乗ってみろ。そしてエンジンをかける。さあ、さっさとやるぞ」

「え? ちょっと、待ってよ~」

「待たん。時間は刻一刻と迫っている」

 桐藤さんの迫力に負けて、僕は白の軽自動車の運転席に乗り込んだ。ええと、ここからどうすればいいのだっけ? もう何年も運転していないから、運転にまつわるほとんどのことは忘れてしまっている。

「鍵を差してエンジンをかけろ」

「は、はい!」

 僕は鍵穴に鍵を差しこんだ。

「何やってんだ。早くエンジンかけろよ」

「えっと、どうやってエンジンかけるんだったっけ?」

 桐藤さんの表情が一瞬、氷のように固まった。そしてその後、大きな声で笑い出した。

「マジか。お前、そこからスタートかよ。こりゃ、俺にとって大仕事だぜ。まあ、いいや。こうなったらとことん説明してやるよ」

 僕はとりあえず怒られなかったことに一安心した。それと同時に桐藤さんの懐の大きさに感動した。この人は見た目だけじゃなくて内面もイケメンなのかもしれない。そしていけないと思いつつも、ますます惚れ込んでしまいそうになる。

 桐藤さんは僕を助手席に移るように言うと、変わりに自身が運転席へと乗り込んだ。僕はおとなしく助手席に座り、営業所の駐車場に停まったまま、桐藤さんの講習を受けることになった。桐藤さんは「車の何たるか」を僕に一から説明してくれた。   

 それこそエンジンのかけ方からエアコンのつけ方、窓の開け方、いったん外に出て、ボンネットを開けて、その中の仕組みまで丁寧に説明してくれた。僕はスマホのメモ帳アプリにその説明を取りこぼすまいと、必死にメモして記録した。

 気が付けば僕は桐藤さんの講習を駐車場内で、車を動かすこともなく一時間も受けていた。

「まあ、説明はこんなもんでいいだろう。早乙女、わかったか?」

「はい。とってもよくわかりました。本当にありがとうございます」

「うむ。じゃあ、そろそろ実践しないとな。とりあえず助手席に乗れよ」

 僕は返事をして助手席に乗り込む。桐藤さんはスムーズに軽自動車を駐車場から出すと、大通りに出て、その道をまっすぐに進んでゆく。

「運転しやすい場所まで向かうから。そしたら、ゆっくり教えてやっからよ」

 そう言って向かった先は、駐車場の広い公園だった。幸い、駐車場にはまだ一台も車は停まっておらず、家族連れなど人もいなかった。

「ここでなら、何も気にせず練習できるだろ。昼前だから人も少ないってか、今日は運良くいねえしな。まず、この駐車場でぐるぐる回って運転してみろ。あと、駐車の練習もな。いきなり路上は怖いだろうから、まずはここからな」

「うう。怖いけど、やってみるよ」

「そんなに怖がるなって。俺がついてるんだからさ」

 桐藤さんに背中を押され、僕は意を決して運転席に乗ると、エンジンをかける。唸るようなエンジン音が一瞬、僕を不穏にさせたけれど、助手席にいる桐藤さんの包み込むような笑顔を見たら吹き飛んだ。

 サイドブレーキを下してそっとアクセルペダルを踏む。車が動き出す。心臓が破裂しそうなくらいにドキドキする。数年ぶりの感触だ。ゆっくりと車が進み、駐車場から出る。

「いいぞ。このまま駐車場一周して!」

「はい。わかりました」

 言われた通りにハンドルを回し、アクセルを調節しながら公園内の広い駐車場を一周する。

「いいぞ。このまま慣れるまで続けて」

 僕は返事をして続ける。ハンドルの回し具合、アクセルペダルとブレーキペダルの絶妙な踏み具合、そんなちょっとした加減が、駐車場を回る度にコツが掴めてくる。そっか、車って運転することによって制御できる代物なんだ。勝手に動き回る、恐ろしい鉄の塊なんかじゃなくて、ちゃんと操作したらその通りに動く機械なんだ。僕は今更ながらそんなことを理解して、車への恐怖心が少しだけ和らいだ。

「だいぶ慣れてきたな。じゃ、今度はそこに停まって。駐車の練習をするぞ。前進から。それからバックだな」

 桐藤さんの言う通り、僕は公園の駐車場で前進から白の枠内に収まるよう駐車し、それに慣れてきたら、今度はバックから駐車する練習をした。公園内に、何組か家族連れが遊びに来ていたが、空気を読んでか僕たちの車の周囲に駐車する車は一台もいなく、皆、こちらをちらっと見ては、興味もなさそうに遊具のほうへ向かって行った。

 バック駐車は前進駐車よりも進行方向が見えないためか難しい。感覚が掴めなくて戸惑っている僕に、桐藤さんは根気良くハンドルの切り方や視線の方向などをわかりやすく説明してくれた。おかげで十往復くらい練習したら、何となくコツを掴むことができて、わりとすんなりとバック駐車をすることができるようになった。

「やっぱ若いから上達すんの早いな」

 桐藤さんはそう言うと、公園の柱時計を見て「おっと、やべえ!」と呟いた。時計は十二時五十分を指していた。

「桐藤さん、大丈夫?」

「いや、実は夕方から彼女が遊びに来るんだけど、俺の部屋、今カオスでさ。掃除片付けしなきゃまずい状態なんだよ。先輩として昼飯とか奢ってやりてえし、まだまだ運転も教えたいんだけど、時間がなくてさ。悪いんだけど、今日の練習はここまでってことで」

 桐藤さんは拝むように右手を作り、バツが悪そうに答えた。僕は急に現実に戻されたような気分になった。

「それなら全然大丈夫だよ。正直すっごく不安だったけど、ここまで運転することができて、僕、本当に感謝してます」

「そっか。あのさ、早乙女、明日も時間あるか?」

「全然あるよ。僕、ヒマだし」

「だったら、明日も練習しないか? お前飲み込み早いから、続けてやったほうが上達するぞ。よし、明日は九時集合で、路上な」

「は、はい!」

 勢いに任せて返事をしてしまったけれど、路上に出ると考えると緊張が蘇る。けれど、下手なりにも駐車ができるようになって、車を動かすことができて、少し運転が楽しく感じてきてもいた。

「そんな青ざめたような顔すんなよ。いざとなれば俺が守ってやるからさ」

 桐藤さんが助手席から僕の頭を握り拳で軽くこづく。切れ長の黒い瞳と薄い唇が三日月型になる。桐藤さんの人間的な温かみとイケメン具合に、僕は立ちくらみがしそうにクラクラした。

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