異界走行黙示録

芋粥うどん

第1話

 朝四時。まだ空には夜の名残が薄く残り、墨をひいたような濃紺のグラデーションが、山々の稜線を静かに包んでいる。生い茂る木々の間から微かにさえずる鳥の声が聞こえ、世界が目を覚まし始めていた。


 俺、家栖霧兎いえず きりとは、家の横に立てた小さなガレージのシャッターをゆっくりと押し上げた。中には濃い緑のタンクと黒いフレームのバイク、“V1200 ヴォルトゥルノ”が静かに佇んでいる。かすかな明かりにタンクの銀色の馬の形をしたエンブレムが輝いている。


 「よいっしょ……」


 クラッチケースの裏側にあるペダルに足をかけ、体重を一気にかけてキックを踏む。粘り気のある重低音の排気音が山間の空気を震わせる。アクセルを軽くひねれば、重厚なそのエンジンは応えるように大きく咆哮した。


 ボストンバッグを後部に固定し、荷物のベルトを再確認すると、霧兎はヘルメットを深くかぶり、サスペンションがわずかに沈むのを感じた。


 そして、おれは静かに家を振り返った。


 数年前に離婚した妻と娘がいた家。今は俺一人が住むだけの、広すぎる木造の平屋。


 「……行ってきます」


 誰に言うともなく呟いたその言葉は、過ぎ去るバイクの音に掻き消された。


 *  *  *


 山間部を抜け、俺は田舎の畑道を走り、やがて都市部を通過し、再び山道へと進んだ。都市では車の流れに気を配りながら、山では自分のペースでリズムよくコーナーを抜ける。あくまで速度は控えめに保ち、慎重に道をなぞる。


 今日の目的地は今いる秋田から金沢まで日本海を沿って向かうことだ。今回、レストアしたばかりのバイクを連れまわすには丁度いいだろう。


 ぼんやりとそんなこと考えてると、すでに周りにはほかの車両はなく、かすかに道を照らすだけの街灯が定期的に過ぎ去ってく。するとやがてトンネルへと差し掛かってくる。


 トンネルの入り口の横にはなにやら看板があり、トンネルの名前が書いてあった気がするが、その内容を読むにまでは至らなかった。


 息を呑んでトンネルに入ると、空気が急に冷たくなる。鍾乳洞に貼った時のような閉塞感が肺を締め付けるように重く感じる。


 トンネルの中はやたら長く感じる。しばらく走ってるうちに、今は一体どこなんだろうと思えてしまう。ちらりと覗いたスマホの画面も「圏外」を示し、どうやらナビすらも私を見失ってしまったようだ。


 対向車もなく、まるで世界に取り残されたようだなんて思い始めてた頃になって、ようやくトンネルの出口が見え、それはトンネルの暗さに慣れた私には白くまぶしく映った。


*  *  *


 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。


 無意識に思い浮かんでしまった。


 川端康成の“雪国”に出てくる有名な一句で、ある友人は主人公の男の日常は東京で、長いトンネルへ入ったことによりそのつながりは解け、銀世界のいわば“異世界”に踏み入ったんだと語っていた。


 なぜこれを思い浮かんでしまったか?


 どうやら私が飛び込んだその先は、アスファルトでも、――ましては銀世界でもなかった。


 一面の草原と、そこに続く一本の砂の道。


 俺は急ブレーキをかけた。後輪が滑り、バランスを崩しかけながらも、なんとかバイクを止める。


 「……どこだ、ここ」


 後ろを振り返る。だが、もうそこにトンネルはない。あるのは草原と、それに続く砂道だけ。


 完全に見知らぬ世界。GPSも圏外のまま。


 立ち止まり、戸惑う私をよそに、雲は流れ、のんきに鳥は飛んでいる。


 しばらくして、我に返った俺は決心した。


 このまま待っていても、何も始まらない。俺は再びバイクに跨がり、目の前の道を進む。


 *  *  *


 見知らぬ草原を抜け、俺は川沿いのなだらかな斜面をバイクで慎重に下っていた。草の間に咲く白い花から、ほんのりと甘い香りが漂っていた。川は薄い青磁色で、流れの中に細かい砂利がきらめく。水面には白い羽虫がふわふわと浮かび、時折、水の流れにのってくるくると回った。


 やがて、石碑が目に入る。苔むしたそれは、川辺にぽつんと佇んでおり、成人男性の背丈より少し高い程度の大きさだった。


 バイクを止めて近づく。石碑には見覚えのない文字が刻まれていた。くさび形のようにも見えるが、どの言語とも似ていない。


 𐎧𐎢𐎹𐎠𐎶𐎫𐎠𐎼𐎬𐎠𐎫𐎠。


 意味は分からない。ただ、刻まれた記号の並びや石の造りから、人の手によって長いあいだ守られてきたものだという印象を受けた。指先でなぞると、石の冷たさが皮膚に伝わる。


 そのときだった。


 水音に紛れて、小さな足音が聞こえた。振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。


 白銀の髪が風にそよぎ、淡い光を受けてきらりと輝いていた。白いワンピースはさらりとした布地で、裾や胸元に施された水縹の糸が、さりげなく模様を形作っている。背丈は俺の胸元に届くかどうかというくらいで、中学生ぐらいだろうか、小柄な印象を与える。瞳は青白磁のような色をたたえており、じっとこちらを見つめていた。


 彼女は一歩、静かに近づいた。花々の香りに混じって、少女の纏う衣の繊維から、かすかなハーブのような清涼な香りが立ちのぼった。


 「𐎮𐎢𐎴 𐎧𐎠𐎹𐎠𐎫 𐎼𐎠𐎶𐎠 𐎺𐎢𐎰𐎼𐎠𐎫,𐎴𐎠𐎶𐎠𐎭𐎠𐎴 𐎺𐎠𐎫𐎠𐎶。」 


「へ?」


 言葉は意味不明だが、声には穏やかな柔らかさがあった。どこか揺らぎのある抑揚が耳に心地よい。俺は言葉の意味こそ理解できなかったが、その語りかけに込められた感情を、かすかに感じ取ることができた。


 「あー、……ここは、どこなんだ?」


 間の悪そうな俺の問いに少女は一瞬、戸惑いを見せる。そして小首を傾げたあと、不安そうな面持ちで俺の顔をじっと見つめる。彼女の眉がわずかに寄り、唇がかすかに開いた。まるで、どう伝えたらいいのかを考えているような顔つきだった。


「𐎸𐎠𐎶𐎠……𐎺𐎼𐎢𐎫𐎠𐎬𐎠、𐎢𐎹𐎡𐎶 𐎼𐎠𐎹𐎢𐎫𐎠𐎫……?」


 それから少女は、足元の草をそっとかき分けるようにして、川の上流を指さした。


「𐎧𐎠𐎴𐎠𐎶 𐎹𐎠𐎼𐎠𐎶𐎫𐎠...」


 「……案内、してくれるのか?」


 彼女は少しだけ眉尻を下げ、小さく頷く。


 戸惑いもあったが、俺は一歩前に出た。川は上流へ向かって緩やかに蛇行し、その先にはまだ見ぬ景色が広がっている。何も分からないままでいるより、彼女の示す方向へ進んでみる方がいいだろう。


 「……わかった。行ってみるか」


 俺はそう呟いて、彼女に向かって小さく頷いた。少女は俺の様子を見て少し考え、それから安堵したようにもう一度柔らかく微笑んだ。


 バイクを押しながら、少女の後を追う。川をなぞるようにして進む。風が運ぶ香りは、青い草の香りに、湿った苔と花の微かな甘みが混じっていた。


 やがて、川沿いに開けた静かな森へと入った。木々は高くまっすぐに伸び、その幹には灰白色の地衣類が斑のように広がっていた。木漏れ日が揺らめきながら差し込み、苔むした地面は淡い翡翠色に輝いている。


 森の奥、清らかな空気と薄く甘い花の香りが混ざるその中に、木造の小屋が現れた。


 それは、周囲の森に溶け込むような造りの簡素な建物だった。屋根は低く、苔むした石で縁取られた土台の上に、灰茶色の木板が積み上げられている。窓は小さく、開け放たれた扉の奥からは、かすかに燻したような木の香りが漏れ出していた。


 「……ここで暮らしてるのか?」


 もちろん、返事は言葉ではない。が、少女は頷き、扉の内側へと一歩踏み出した。俺がついてくるのを確認してから、彼女は再び振り返り、手招きするように静かに右手を差し出した。


 促されるままに一歩を踏み入れると、木の床がわずかに軋んだ。内部は質素ながら清潔に整えられており、小さな炉、編み籠に収められた干し草、そして壁には見慣れぬ文様が描かれた布が掛けられていた。


 木の机の上には、表面が波打った薄片のような紙に描かれた記号の束が無造作に置かれている。文字かと思ったが、いずれも回転対称の図形で、触れるとほんのりと温かかった。


 俺は何気なく天井の隅を見上げた。そこでふと気づく。電気も明かりも見当たらないのに、部屋の中央はほんのりと明るい。壁に取り付けられた結晶のような石が、自然光を複雑に反射しているらしい。それだけではない。


 ――電気も、電線も、ガス管もない。見たこともない物ばかりで、目の前には異国の少女。今見ているこのすべて、感じている物すべてが現実離れしており、夢の中では無いかとさえ疑ってしまう。


 少女はそっと腰を下ろし、手元のグラスにお茶を注ぎながら、俺に視線を投げかけた。。器の縁には、朝露のように澄んだ青い粒が埋め込まれており、光を受けて静かにきらめいていた。






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