捨てられない私たち
@kobemi
第一話 黒猫を埋める夢
夜空には、低く分厚い雲が垂れ込めていた。黒々と蠢めくそれは、確かにそこに浮かんでいるはずの月すらも、ものの見事に隠してしまう。すべては闇の中。
耳心地の良い鈴虫の鳴き声が、私と優奈の周囲を取り囲むようにして流れている。鬱蒼とした木々に囲まれたこの場所は、小学生の頃、親に幾度となく注意されながらも、好奇心に負けて入り浸って来たお気に入りの場所だった。
まただ、と思った。これで何度目だろう。いつから始まったのかすらもう思い出せないくらいには、数えきれないほど繰り返しリバイバルされてきた、この夢。もしくは、記憶の断片。
いい加減擦り切れてしまえと思うけど、まとわりつくような蒸し暑い空気は、私の手足を掴んで一向に離してくれる気配はない。
私はいつも、ここで何かを捨てる。何か重たいもの。沸騰してから少し時間を空けたくらいの温かみのあるもの。それに似ているものを、私は知っている。それはエイミーだ。中学生の頃、近所の神社に住み着いていて、訪れる人みんなに可愛がられていた黒猫のエイミー。黒と言っても、彼女の体毛はむしろ銀色に近くて、砂糖の粉でもまぶしたような具合で、その甘ったるい小さくてまん丸の後姿からは、想像できないくらいに鋭い目つきでいつも私のことを睨んできた。なんでか知らないけど、私はエイミーには全然懐いてもらえなくて、彼女に触れることができたのは、彼女が目の前でトラックにひき逃げに会ったその場面に、偶然に出くわしたときが最初で最後だった。
どうしていいか分からなくて、彼女のことを抱き上げてやるくらいしかできなかった。止めてやりたいのに、赤くて熱い彼女の命は、止めどなく溢れ続けて、私はそれをただただ眺めているしかなかった。
手のひらの上で、確かなものの失われていく漠然とした感触。夢か現実かははっきりしないけど、その中にいる私の手の中にあったものは、エイミーのそれとよく似ていた。
「……それで、おしまい?」
両膝を抱えて、体育座りの恰好をしていた優奈が、引きつった笑みを浮かべて尋ねてきた。夏だから怖い話をしようと無理強いしてきたのは優奈の方だったのに、リアクションの悪さに私は少しむっとした。
「おしまい、おしまい。オチも何も無くてごめんなさいね」
体勢を崩して、目の前のコップを手に取る。話をしている最中は気づかなかったけど、妙に体が強張っていたみたいだ。肩やら首やらが未だに弛緩しきっていなくて、ろくに手入れのされていないブリキのロボットみたいに、ぎぎぎと軋むような違和感がある。
「……一応聞くけど、優奈はこの話って記憶にないよね?」
夢を見るようになってからずっと、聞きたい聞きたいと思ってはいたけど、中々いい機会がなくて聞けずにいたことを、今更ながら尋ねてみる。飲んだ冷たい麦茶が、喉の奥でそれは長いこと巣くっていた疑問を、溶かしてくれたみたいだった。
「ん?全然ないけど。どして?」
「いやね、私の見る夢、いっつも妙に現実味を帯びてるから」
「あ、そう。でも夢なんて、大概がそんなもんだと思うけどね。それに、その場所もよく行ってたところなんでしょ?」
「そうなんだけどね」
正直言って、引っかからないことがないでもないのだ。繰り返して同じ夢を見続けるなんて、そうあることでもない。俗に言う、しんそーしんりとかいうのが絡んでいるのかもしれない。
でも、実家からすぐの思い出深いあの裏山の最奥に、優奈と二人で行ったことは私の覚えている限りなかったはずだし、現に優奈自身も覚えがないと言っている。私の脳が頼んでもないのに思い出の数々をつぎはぎして、勝手気ままに作ったものでしかなくて、そこに何かしらの意味を見出そうとしたりするのは、最初からおかしな話なのかもしれなかった。
「いやー嬉しいなー。美樹が私のことをそんなにも思っていてくれたなんて」
短い足の机の向こうでだらけたポーズを取っていた優奈が、後ろに大きく伸びをしながら突然言った。どんな狭い隙間でもぬるりと通ってしまう猫は液体だ、なんていう摩訶不思議な説があるらしいけど、目の前の優奈を見ていると人間ですらここまでフレキシブルになれるのだから、猫ならなおさらだ、なんて関係のないことを思う。
「え?今の話のどこにそれを思う要素があったの?」
優奈の突飛な発言には、いつも驚かされる。それは高校生の頃に彼女と出会って、地元を出て偶然に同じ大学に入学して、二度目の夏を迎えた今ですら、未だに慣れることはなかった。
「だって、毎回美樹の見る夢の中には私が出てくるんでしょ?それって私のこと相当に大好きじゃなきゃ、中々そうはならないでしょーよ」
得意そうに、にたにた笑いを浮かべて、優奈は言う。そこまでにやにやされてしまうと、むしろふてぶてしいまである。
「もう、茶化さないで。割と真剣に悩んでるんだから。それに、優奈が夢に出てくるのは、私の高校の頃の良い思い出って言ったら優奈くらいしかいないせいよ」
それは本当にそうだ。私も優奈も、あの狭い世界の背景として上手く溶け込むことができずに、かといって輝かしくも騒々しい表舞台に立つだけの度胸も器量もなく。教室の隅っこでひそひそ話をして笑い合って、時折気まぐれにやってくる私たちとは生きる世界の違う子達にちょっかいを出されたり、掃除当番を押し付けられたりして、それでも肩を寄せあって日々を過ごしていた。
高校を卒業したら、もっと広いところに。自由なところに。そう思って、地元からは遠く離れた大学を私は志望した。まさかそれがたまたま、優奈の志望した大学と同じとは思わなかったけど。でも、正直安心する気持ちもあった。三年もの間、優奈とずっと一緒にいて、下手すれば三年の間だけで考えると家族よりも長い時間を共に過ごしたかもしれない優奈と、急に離れ離れにならなければいけないというのは、少し恐ろしくもあったから。
「それってあんまり意味違わないんじゃないの?」
「ち・が・い・ま・す」
語気を強めて言い返すと、優奈はけたけたと肩を震わせて笑いだした。真珠のような八重歯がちろりと覗いて、高校の頃と変わらない彼女の可愛いところに安心した。
優奈は少し、いやだいぶと、大学生になってこっちに来てからというもの、変わってしまった。長かった髪をバッサリと切って、色も明るい茶色に染めて。化粧もするようになったし、お洒落だってぬかりがない。性格だってずいぶんと変わって、活発で積極的になった。優奈に誘われるままに飛び込んだ軽音サークルは、最初のうちはそのノリについていくのがしんどかったけど、今では結構楽しくやれている。でも少し心配なのは、優奈がサークルの男の子をとっかえひっかえしているとかいう、変な噂があることだった。優奈は高校の頃は野暮ったい髪のおかげで(私は長いのも好きだったけど)、あまり目立つことはなかったけど、本当は結構可愛い方だし、彼女の不断の努力によって元来の魅力はさらに磨かれて、その変な噂を根も葉もないものと一蹴してしまうのは難しい。
「ねぇ。今日泊まってってもいい?」
「ああ、うん」
優奈への疑惑ですっかり頭を占領されそうになっていた私は、優奈の投げ込んできた質問のことをよく咀嚼もせずに生返事をしてしまっていた。
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