第10話 マーク・フォスター博士ー②
これから壇上に上がろうとする博士を見守る。
今日の発表のタイトルは、「貿易摩擦と経済安定策」―――関税や市場の自由化といった一般的な経済の話だろう。
博士が胸ポケットからそっと取り出したそれは、古びて年季の入った銀軸の万年筆だった。
博士の手が緊張のせいかわずかに震え、ペンが滑り落ちる。
咄嗟に拾い上げたリツは、そこに刻まれたイニシャルに気づいた。
「……R.M、ですか?」
博士は一拍置いて、静かに笑った。
「ああ。去年亡くなった妻のモノなんだ。リンダ・マークス、憧れの女性の名前さ。願掛けみたいなものだ。」
「え…⁈」
告げられた名前に思わず声を上げる。エルトリア建国の混乱期、統合を訴えて拘束された活動家の名前が脳裏をよぎる。 彼女は結婚後その姓を変えて姿を消しており、行方不明となっていた。
博士はポケットに万年筆を戻し、ひとつ息を吐くと、焦るリツを無視してスポットライトの下へと足を進めた。舞台袖から博士の姿を捉える。
(まさか。)
司会者の紹介ののち、博士が口にした言葉は、場の空気を一変させた。
「本日は、エルトリア共和国とヴェストリア連邦の統合がもたらす経済的恩恵について、お話しましょう。」
――― 一瞬、場の空気が止まった。
会場の空気が、静かに、しかし確実にざわつき始める。
リツは、博士の言葉に驚きながらもここ数日の出来事を反芻していた。
この任務について以来、ジャックが妙に落ち着いた様子だったのは、もしや予想していたのではないだろうか。敵が狙っているのではなく、博士が仕掛ける側だという情報を掴んでいたのであれば、ジャックの行動も理解できる。
会場を見渡すと、それまで視線を下げていた者までも、身を乗り出して博士の一挙手一投足に注目している。
エルトリア共和国の現政権下で外部委員を務めるほどの人物であるフォスター博士が統合について語り出すなどあまりにも突然で意外だろう。
博士の言葉を思い出す。
(去年亡くなった奥様の意思を継いだんだ。)
博士の言葉から推察するに彼の妻は、民俗学者としてエルトリア共和国とヴェストリア連邦の分裂に強く反対していた旧姓リンダ・マークスと見ていいだろう。
彼女は、学生時代には、国家転覆の扇動者として拘束された過去さえある。
そんな人物と博士が現政権下で研究者としての地位を築いている人物が結婚しているなど誰が想像できただろうか。
妻の身分を隠しながら、彼が現在の地位まで辿り着くのは、決して容易ではなかったはずだ。
にもかかわらず――
今、彼は、まるで妻の遺志を受け継ぐかのように、統合を語り始めている。
誰もが、度肝を抜かれていた。
博士は微笑みながら、壇上にグラフを出す。
「現在、エルトリアとヴェストリアは貿易、金融、産業のあらゆる面で密接に関わりながらも、あまりにも非効率な状況にあります。関税の壁が市場を分断し、通貨の違いが貿易の障害となり、人の移動も不便です。もし、この二国が経済的に統合すれば、市場規模は飛躍的に拡大し、双方にとって莫大な利益を生み出すでしょう。」
ざわめきが起こる。
学者や知識人たちは聞き入っているが、護衛にとっていい状況とは言い難い。
博士は発表を続ける。
―――賽は投げられた。
§
博士の発表が終わると、会場の一部からは割れんばかりの拍手が起こった。
しかし、他の者たちは、息を呑んで沈黙しており、足早に会場を後にする者までいる。
博士に敵意を持つものに接触される可能性があるので追いかけたい衝動に駆られるが護衛が優先だ。
柔和な微笑みはそのままに博士は舞台袖へと戻ってくる。
けれど、そこにはどこか決意を終えた者の、静かな余韻が滲んでいた。
「命を狙われる可能性がありますよ。」
ジャックの言う通りだ。だが博士は、落ち着いていた。
「覚悟はしているよ。今日、私は妻の代わりに、ようやくこの言葉を公にした。」
一瞬だけ、深く目を伏せる。
内容が内容だけにもはや敵は国外ではなく、現在のエルトリア国内の軍部への批判とも取られかねない話だ。エリトリア国内にこの話が広がれば民衆、特に知識層と呼ばれる人々の中には共感する者も現れるだろう。
博士は、胸元のポケットをそっと撫でる。
そこには、R・Mのイニシャルが刻まれたあの万年筆があった。
「……彼女が信じた未来を生きているうちに見せたかった。だが、内側から国を変えようとしたが、間に合わなかった。でも―――せめて今からでも本気で国を変えたいと思うのは馬鹿らしいだろうか。」
再び顔を上げたその目には、光があった。
長きにわたって燻っていた炎に灯がともる。
―――無謀な理想論者がここにもいたのだ。
リツはリリスからの言葉を思い出し、共感を覚える。
「さて。君たちには迷惑をかけるかもしれないが……付き合ってくれるかい?」
「ええ、もちろんです。」
リツは力強く頷いた。
ジャックの顔には薄っすらと微笑みが浮かんでいる。
だが、このまま保護をするのは困難を極める。
「早めに移動しましょう。先ほどの発表が都合の悪い人は沢山います。」
博士を先導して車への道中を急ぎながらも、リツとジャックは周囲に目を光らせる。このまま無事に帰れる保証はない。
彼の言葉は、統合を望まない者たちにとって"宣戦布告"にも等しいのだから。
(敵が動くなら今だ。)
しかし、それは予想よりも早くやってきた。
急いで車に乗り込む。
博士が車に走るのと同時だった。黒い影が視界の端をよぎる。
誰かいる。
影が動いた。男だ。手が懐に入る───
(ナイフか?銃か?)
正体を確認する暇はなかった。
次の瞬間、リツはスーツの内ポケットからスタンガンを取り出す。
───ッパン。
男の動きが一瞬止まる。
「――ッ?」
彼の指が痙攣し、懐のナイフが地面に落ちる。
それを合図に、さらに別の影が動いた。
遠くにいたもう一人の男が、袖の中から小型の拳銃を引き抜こうとしているのが見える。
「ぐあっ……てめえ!!!」
ジャックのメスが男の手に突き刺さり、銃が地面に落ちる。
「うるさいな。あいつもやらないのか?」
「ああ、もう!やるなら、傷つけずにやれよ!」
二人目の暗殺者にも弾丸を打ちこみ電流で気絶させる。
ジャックとリツの身のこなしに博士が目を見張る。
「君たちは何者なんだ…私に、去年生データを送ってきたのも君たちかい?」
博士なりに冷静に事態を処理しようとしていることが伺えるが、全く身に覚えのない問いかけにリツは困惑する。
ジャックは涼しい顔をしているが、視線が僅かに動いた。
「…ジャック。」
「生きる理由になりましたか?」
ジャックの低く穏やかな声に、博士はその言葉に息を止め、静かにこちらを見た。
目を細めるとゆっくりと微笑みが浮かぶ。
「……やはり、君たちだったか。」
「正確には俺たちに指示を出している人間の意思です。俺は、それを伝える役目だっただけです。」
ジャックはさらりと明かす。
少なくとも一年前の時点から、ジャックはエバーグリーン計画に参加し、フォスター博士をけしかけたのも彼だったのだ。
「そうか……彼女と同じ意思を持つ人物がいたんだな。正直、あの資料をもらっとき啓示だと思ったよ。」
博士は感慨深げにつぶやいた。優し気な表情だ。
「君たちに出会えただけで、この発表の価値はあったんだろうな。」
車内が静まりかえったまま、空港に入る。
航空機の空席を軍警察としてゴリ押すと、無事エルトリア共和国の首都ビュニスに到着した。
何とか国内まで辿り着いたが、このまま解散しても安全とは言い切れない。
リリスと連絡をしようとしていると気配がした。
「後を付けられているぞ。後ろは振り向くな。」
ジャックの言葉にピクリと体が反応する。
再度、スタンガンに指を滑らせるが周辺に人が多い。
(民間人を巻き込まないためには、どうしたらいい………。)
早歩きになる。
焦るリツの耳にニュースが流れて来た。
「第三国にて行われたシンポジュームにて、経済学者のマーク・フォスター教授が特別賞を受賞しました。この賞は、今後注目の発表を行った学者に贈られるものでー」
(……特別賞?)
リツの足が一瞬止まりかけたが、すぐにジャックの低い声が耳に届く。
「ペースを落とすな。まだ後ろにいる。」
博士の足が止まる。
(何を⁈)
博士はチラリとこちらを見ると急に叫んだ。
「やったー!やったぞ!!!」
ニュースは止まらない。
「マーク・フォスター教授はエルトリア共和国とヴェストリア連邦の統合による経済的利点を精緻な統計データをもとにー」
空港利用者は、ざわつき始めていた。
テレビにフォスター教授の顔写真と『特別賞受賞』の文字が大きく映し出される。
「え、何、あのおじさん………。」
「ニュースに出てる人と同じ顔じゃないか?」
空港内の注目を集めれば、襲撃は難しくなる可能性がある。
(ああ、もう!一か八かだ!)
意図的に声を張る。多少芝居がかっているのはご愛敬だ。
「フォスター先生、おめでとうございます!」
ジャックに何かやれと視線を送ると、彼は静かに拍手をした。
すると、つられるように周りから拍手が上がる。
「なんか、特別賞っていうの受賞したんだってー」
「へー」
辺りはお祝いムードに包まれていた。
人の輪が雑多ながら周辺を囲む。
後ろを付けていた男たちの気配が消えた。
「これ……。」
「さっきまで“暗殺対象”だったやつが、今や“国際的に注目される存在”になったな。」
そんな人物が、もし今この空港で襲われたり、事故にでも会うことがあれば世界中のメディアが陰謀論のように騒ぎ立てるだろう。
ジャックが口元に笑みを浮かべながら言った。
「これじゃ、追手は手を出せない。」
リツは思わず息を吐きだした。
§
フォスター博士を大学へと送り届ける。そこには、報道陣が待ち構えていた。
「これは一体…。」
戸惑う博士を一瞥し、ジャックが軽く肩をすくめる。
「今、あなたは学問における英雄ですよ。銃ではなく、ペンを持って戦う事を選んだ人物だと考えているんでしょう。」
博士は、ジャックの褒め言葉とも取れる発言にピンと来ていないのかポカーンとしている。
「私が表に…。」
「特別賞受賞は、今のあなたが唯一持つ“盾”です。また狙われる確率を下げるためにも出たほうがいいのでは?」
ジャックがしたり顔で微笑う。今回の件は完全にジャックが握っていたらしい。
フォスター博士はしばらく沈黙した後、小さく笑った。
「中々刺激的な旅は続くのだね。仕方ない。私は私の闘いをまっとうしよう。」
博士は苦笑すると記者たちの待つ校門を潜って行った。
リツはその背を見送る。
(……信じてみようと思えた、か。)
誰かの理想が誰かの行動を変え、そして自分の中にも火を灯す。
―――そんな連鎖も、悪くない。
ペンで博士が世界を変えようとしているように、エバーグリーン計画を通じて自分も裏から人を傷つけることなく世界を変えることが出来るだろうか。
肩越しにジャックが小さく笑う気配を感じながら、リツは車へと乗り込んだ。
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