明治維新の真の清の立役者 調所広郷

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第1話 明治維新の真の立役者 調所広郷 口演

♬、南へ南へと草木もなびく、薩摩いよいか住み良いか、歌で知られた薩摩の国、寄せては返す波の音、飛(た)つは鴎か群れ千鳥、浜の岬に佇むは、還暦過ぎたる老人一人♬。


「のう桜島よ、以上が儂(わし)の思いのたけ、決意である」とその老人はつぶやいた。

時は天保8年1837年10月半ば、所は薩洲薩摩の天保山海岸の突堤。

この場所を現在の地図で大雑把に説明いたしますと、鹿児島市の真ん中を南北に二分するかのように西の山々から東の錦江湾に向かって流れておりますのが甲突川

その甲突川が今まさに錦江湾に流れ出る河口付近に甲突川の川底をさらった土砂で埋め立てて作られた突堤が天保山広場でありました。

後の薩英戦争では砲台が築かれた場所で御座います。

甲突川は毎年のように洪水を起こしておりましたし、この当時の鶴丸城下というのはこの甲突川の北半分である上町から下級武士の住む加治屋町一帯までであり、

甲突川の南側は荒田の田圃(たんぼ)と呼ばれた耕作地が広がっており、現在の荒田から騎射場・鴨池・谷山に至る南側は当時は人は住んでいなかったのでございます。薩摩藩では甲突川の護岸工事でこの荒田の田圃側を一段低くして、城下町が洪水の被害を受けないように工夫していたので御座います。


その突堤に立つ白髪頭の小柄な老人は、白く太い眉、細面で切れ長の目と細い顎、およそ『横ばいのこじっくい』と揶揄された丸顔で小太りの背の低い薩摩の男子とは似ても似つかぬ風貌で有りました。

この男の名は調所(ずしょ)広郷(ひろさと)、通称調所笑左衛門(しょうざえもん)は天保山の眼前に広がる錦江湾(きんこうわん)の対岸にそびえたつ桜島に向かって叫んだ。

「桜島よ、儂の決意を聞いてくれたか」そういうと更に大きな声で「儂は本日只今より薩摩の嫌われ者になる。薩摩の極悪人となって薩摩藩の財政立て直しを命に変えても成し遂げて見せるぞ」と叫んだのであります。

天保山の岸壁に打ち付ける錦江湾の大波と折からの強い海風にその声は完全には聞き取れなかったが、確かにこう叫んだのであります。


そして笑左エ門は声高らかに

「わが胸の熱き焔(ほのお)に触れしなば、煙を上げよ桜島山」

と一首の和歌を読み上げたのでありました。

と・その瞬間、対岸一里先の火の島桜島が笑左エ門に呼応するかのようにド・ドーンという爆発音とともに夕焼け空にモクモクモクと黒い噴煙を空高く吹きあげたのでありました。

「オウ儂の決意を分ってくれたか桜島よ、ありがたい、ありがたい・ありがたい」と笑左衛笑は両手を合わせてはるか彼方の桜島に向かって頭を下げた。

ややあって、頭をあげると晴れ晴れとした顔つきで

「これで迷いも消えた、儂は命に代えても、本日主君島津斉興(なりおき)公より承ったこの使命を成し遂げてみせるぞ」

と言ってから羽織を脱ぎ傍らの松の木の小枝にかけ、草履(ぞうり)も脱ぎ木の根元に揃えると、

「チャンカチャンカ・チャンチャンカ・チャンカ」と口三味線を唱えながら、鹿児島民謡おはら節を踊り始めたのでありました。


傍(はた)から見ればその姿は異様でありました。

年老いた一人の武士が楽しそうに踊り狂っているのですから、確かに奇妙ではありましたが、この時刻どの家も夕餉(ゆうげ)の時間で、城下から離れた人家の無い天保山の突堤あたりには漁師はおろか人っ子一人通りませんでした。

しかし夕闇迫る天保山の突堤広場で楽しそうに踊るその老人の顔は真剣そのもの、その目はギラギラと燃えその決意の強さを示していたのでありました。時に調所広郷62歳の秋の夕暮れのことでありました。


ここでこの物語の主人公である調所広郷のことを簡単にお話しておきますと。

調所広郷は安永5年(1776年)城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、天明8年(1788年)12歳の時に城下士・調所清悦の養子となりました。

茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)22歳の時に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・島津重豪(しげひで)にその才能を見出されてその後は藩主・島津斉興に仕へ、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。

藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。

天保3年(1832年)57歳の時には家老格に、天保9年(1838年)には63歳で家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。・・・こんなところが簡単な経歴でございます。


これからのお話は、天保8年(1837年)家老格でありました調所広郷62歳の時の出来事で有ります。

当時と言いましても、1833年調所を取り立ててくれた島津重豪が死に500万両という巨額の借金が表に出てまいりました。

薩摩藩はこの500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっておりました。

今のお金で言えば約1兆2500億円とも言われます金額で御座いまして、何しろ江戸時代は頻繁に貨幣鋳造の金や銀の含有量が変わりましたので、専門家でも正確な金額の査定は困難な訳で御座います。

とにかくとんでもない金額の借金があり、再建の見込みのない状態であったとお考え下さい。

家老として調所が取った財政立て直し策とはどういうものであったのか。

なぜ彼は薩摩の極悪人、嫌われ者なのか本日はこのお話の真相を三浦学のバナナの叩き売りの番外編『明治維新の立役者・調所広郷』というタイトルで口演いたしますがもともとがバナナの叩き売りの口上の一環として作り始めましたので、荒唐無稽のシッチャカメッチャカのいい加減な話としてお聞き下さいませ。


さて天保山の出来事から2ケ月後、舞台はくるりと回りまして、場面は江戸の芝にあります薩摩藩江戸屋敷のお話しで御座います。

広郷は師走の中頃に江戸中の主だった両替商・札差と呼ばれる商人たちを薩摩藩邸に呼び集めた。

ここから先をバナナのたたき売り風にややオーバーにお話しいたします。

勿論フィクションで御座いますから、時代劇になったり、いきなり現代劇になったりとお聞きいただく皆さまも大変でしょうが、その方が時代小説風一辺倒で通すより、若い学生さん方には理解しやすいだろうとの私の考えで、喋って行きます。

そのおつもりでお聞きください。


集められました両替商、札差しの面々、その数14~5名、この中には薩摩藩にお金を貸している上方商人も入っておりました。

いわゆる薩摩藩にお金を貸している豪商たちで御座います。

「なんでも近く調所様がご家老にご出世とか」

「ええ、手前どもでもその噂聞いておりますよ」

「今日はそういうお話なんでしょうか」

「いやいや、また借金のことでありましょうよ」

と勝手なことを言い合っておりますと、

「エヘン」

と一つ咳払いが聞こえたと思ったら、奥のふすまがツツーッと開き調所広郷が家来二人を従えて登場いたしました。

上座に座ると調所は、最前列の中央に座っておりますこの場の主人格である越後屋に向かっていきなり切り出した。

「越後屋、そなたは博打は好きか」と尋ねた。

「待たせたな」とか「皆の者久しぶりである」とか「集まってくれてありがたい」などの労いの言葉もなく、いきなり本題に入るのが調所の悪い癖である。

フイを突かれて

「バ博打と申されますと、あのやくざの賭場で行う丁半博打のことでございますか」と越後屋。

「そうじゃ、その丁半博打のことヨ」と調所。

「はい、若い時は手慰みで少しはやったこともございますが、今はとんと縁がございません」と越後屋は慇懃に答えた。

頷いた調所は

「昔からある丁半博打では胴元であるやくざの親分の取り分は、勝った客から五分(5%)いただくと決まっておる。そうだよなあ江戸屋」

と越後屋の隣に座った江戸屋の主人に聞いた。

「私は不調法で賭場などと言うものにはとんと縁がございませんのでよくは存じあげませんが、確か博打の寺銭は5分と聞いております」

とこれも如才ない受け答え。

「ではそなたらはピンハネという言葉を知っておるか?」

と今度は一同を見回すように言った。

集まった者たちもそれぐらいのことは常識として知っておりますから、一同軽く頷いた。

「博打でピンハネと言えば ピンすなわち一、一割の寺銭・手数料を取ることじゃな」

深くうなずいた東海屋に調所は聞いた。

「では東海屋、やくざの胴元がピンの場所代・手数料を取ったら、そこに出入りする客はどう思うかのう」

「よそより倍のピン、一割もの場所代を取りますと、場所代が高すぎると客ともめまする」

「その通り、『あの賭場の胴元はピンも跳ねやがって、がめつすぎる、やくざの面汚し』と評判が立ち、悪(わる)と烙印を押されて、とどのつまり国定や清水の次郎長親分から、殴り込みをかけられての悪人退治、これが浪曲や講談の名調子になった、そうだよなあ越後屋.やくざでもピンハネはいけない」

と言って皆の顔をジロリと見まわした。

「その通りでございます」

と越後屋が代表して答え、つられて皆一様に頷いた。

一同が同意したのを確認すると調所は身を乗り出すようにして

「ところでおぬしらは薩摩藩より借金の利息として、いくらの利子を取っておるのじゃ」と聞いた。

痛いところを付かれて思わず顔を見合わす両替商・札差しの面々。

「しまった」

と思ったがもう遅い、やくざの話なので思わずピンハネは良くないと一同同意してしまったが、どうやら調所の話の本題がここに隠されていたと気づいたときにはすでに遅かった。

「調べてみるまでもない、薩摩藩の借金がたまりにたまって現在500万両、これに対して毎年の利子が80万両じゃ。高過ぎはしないか、高利貸しすぎないか?天王寺屋、薩摩藩の利息は一体年いくらになるかのう?」と尋ねた。

天王寺屋の大番頭がうつむくように

「ネ・年1割6分になります」

と小さな声で答えた。

1割6分を確認すると、調所はゆっくりと立ち上がった。

その拍子に調所の横にある燭台のローソクの焔がゆらりとゆれた。


「やくざはのう、当て字で書けば893と書いて、やくざと読ませる。

そしてこの8と9と3を足すと合計で20、下一桁が0となる、つまり花札賭博のオイチョカブで言えば最低の札のぶたで0。

やくざもこれ以下がない0の人間、すなわち最低の人間、いわば人間の屑だから、これらのクズ人間のことを893と呼ぶ。

だがそのやくざでも天下の決まり事を守って寺銭は勝った客から5分しか取らない。

それをおぬしらは3倍以上の利息を取りやがってこれは断じて許せない行為、御法度やぶりも良いところ、もし儂がお恐れながらと徳川幕府に申し出れば、そなたらは一族郎党孫ひ孫まで、全員が市中引き回しの上、獄門磔じゃ、分かっておるのか越後屋」

「いえ そ・それは・・・組合で決まっておりますことで・・・」

「やかましい。それがおかしいと言っておるのじゃ、鎌倉幕府の昔から博打の場所代が五分。そなたらが勝手に決めた利息が1割六分、そなたらはいつからお上より上になった?」

たまりかねて横から江戸屋の主人が割って入った。

「ず・調所様に申し上げます。これには色々と深い事情がございまして、薩摩様と手前どもとの話合によりまして合意の上の利息でございます」

「何、それではそれで納得した薩摩藩が悪いというのか薩摩が」

「いえいえ滅相もございません、そのようなことは。ただ双方に一割六分で取り交わしました約定書(証文)がございます約定書が」 


これこそが調所の待っていた返事で有りました。

調所はにっこり笑うと江戸屋に向かってこう言った。

「では江戸屋、その約定書をもって儂が奉行所に訴え出ればどうなる?」

ここに来てようやく事の重大さに気づいた江戸屋の主人の顔色がサーツと変わった。

この約定書こそが両刃の剣、両替商の命の綱であり、同時に表に出れば不正の高利で貸し付けた確かな証拠。ここで完全に勝負はありました。

「では重ねて江戸屋に尋ねるが、借金をする場合、貸し手と借り手のどちらの立場が強いのじゃ。答えるまでもない、いや答えられぬであろう、おぬしらが『薩摩様、一割六分の利息を頂ければ、何とか10万両までならご用立ていたしますが』と歴代の家老に言ったのではなかったのか。それとも越後屋、薩摩藩が『利息を一割六分払うから、なんとしても10万両用立ててくれ』とおぬしらに頭を下げて頼んだのか、どっちじゃ」

「いえ、そそれは・・」 

答えられるはずがございません、士農工商の身分制度が確立していた時代に武士がそれも大大名の薩摩藩の重役が自分たちに頭を下げて借金をしている実態などは口が裂けても申せません。

こうして正論が却って藪蛇になって皆の首をジワリと絞めてしまったのでございます。


実は江戸時代、薩摩藩に対しては、大藩ゆえに年利3%の低利で、元金の償還は問わない「永永銀」と呼ばれる融資の道があったのだが、薩摩藩はこの永永銀120万両の借金を1813年に一方的に破棄した過去があったのです。

薩摩藩が江戸幕府から命じられた木曽川の治水工事は、1755年完成(宝暦治水)したが、薩摩藩の財政に大きな打撃を与えた。

44万両の工事費は薩摩藩の3年分の年収であり、藩の財政を圧迫した。

このうち22万両は上方商人より借金した。

薩摩藩士や足軽たち約千人が工事に従事したが、工事中の自害・病死などの犠牲者も薩摩藩関係者だけでも80余名にのぼった。

この結果、薩摩藩に対し低利で金を貸す業者はいなくなり、必要な金は高利で借りなければならなくなったのです。

借金が借金を呼び、500万両という巨額な額に達してしまいこのお話の時には年18%にまで利息が跳ねあがっていたということで有ります。・・・・・・

これは私の同級生原口泉氏のネット情報です。


「だから先ほどから言っておるではないか、儂が来年4月、正式に家老に昇格したら、幕府に訴え出てどちらの言い分が正しいのか、お白州の上でも江戸城大広間でもどこででも決着をつけると言っておるではないか」

と言ったと思ったら、いきなり座布団の上に正座しなおすと

「のう皆の者、分かってくれ、それほど薩摩藩の台所は苦しいのじゃ、もうどうにもならぬところまできておるのじゃ」

と言って皆に向かって深々と頭を下げ畳に擦り付けた。

脅したり頼んだり、硬軟織り交ぜた巧みな調所広郷の戦術でありました。

慌てた越後屋が

「調所様、どうぞお手をお上げくださいませ」と言った。

ゆっくりと頭を上げた調所は、

「第一この高利貸しの事実が江戸城下の血気盛んな若侍や浪人たちの知るところとなってみよ。これ幸いと、そなたらの店は絶好の標的、焼き討ち殴り込み打ちこわし、いづれにしてもそなたらの命が亡くなるのは必定」

とうそぶく広郷。

この脅しに商人たちは心底、肝を冷やしたのでございます。

鹿児島弁で言えばひったまがった(吃驚(びっくり)した)。

気の小さい両替商はブルブルと震えている。

それは、この男は本気だ、冗談で言っていのではない、調所ならきっとやるだろうという凄味と必死さが顔面に現れており、将に自分の命をかけての交渉だというのがその場にいた全員にひしひしと伝わったのでございます。


利息制限法などと言う法律は無い時代であった。

藩に貸し付けるお金であったから、借金のかたや質草を取るわけでもなく、保証人が要るわけでもなく、いわば大名貸しという信用貸しであった。

その分暗黙の了解で利息を高く取っていた。

借金が嵩めば嵩むほどに貸手はいなくなる、ついには借り手は暴利と分かっていてもサラ金や町金や闇金に手を出すのが借金地獄の常の有り様。

ではあったが幕府の規定や長年の慣例ではこの時代、利息は最高で一割二分(12%)までと決まっていたのもまた事実。

もし調所が

「幕府のお達しでは利息は年12%mでと決まっておるのに16%はいかにも高すぎる、何とか少しでも下げられないか」

と、家老職就任にあたり、最初から金貸し業の本業の話で相談しておれば、江戸の金貸し業の面々もピンハネ1割の手数料はいけないなどと同意するヘマをすることもなかったのでしょうが、足を踏み込んだこともないやくざの博打の話と思って油断したのが調所に付け込まれる隙を作ってしまったのでありました。


こうなると薩摩藩に対して16%の利息を取っていた事実は商人たちにとっては決定的な弱みとなった、表に出れば何かと都合が悪い。

4%の違いは年に20万両、今のお金で約百億円に近い金額、なにやかにやと因縁をつけられて幕府から、店が取り潰されるには十分すぎる弱みであった。

逆にこの盲点を突いた調所の見事な戦法と言うほかは無かった。


「調所様のおっしゃりよう、よおく分かり申しました、調所様。それでは今後の利子からは負けて負けて寺銭と同じ5分と言うことで・・・」

と越後屋が慇懃に申し出ました。

調所の眉がピクリと動いた。 

「だまらっしゃい、下から出ればいい気になりおって。

今までのそなたらの悪行の数々、高利貸しの事実は絶対に許しがたい、見逃がすことは断じて出来ぬ。

そなたらは人間の屑、やくざ以下のごみじゃ、くずはまだくず拾いと言う商売があるようにリサイクルの方法もあるが屑以下のごみともなれば、箒で吐き出すか掃除機で吸い取って紙パックごとごみ箱に捨てるしかない。

ここらで江戸の町の大掃除も必要かもしれぬ、来年、薩摩藩家老調所広郷の初仕事として 幕府にそなたらの免許はく奪を願い出る所存じゃ、よおく覚えておけ」

この気迫に押されまして、一同の代表であります越後屋の主人が、

「ま待って下さりませ、調所様。そ・そればかりはどうぞご勘弁を,わ・分かり申しました。

それでは調所様のご家老職ご出世のお祝いを兼ねまして江戸の札差・両替商からのお祝いとして、今後は無利子と言うことでお願い申し上げます」

とうとう両替商の方が頭を下げるより外ございませんでした。


こうなりゃ、どっちが借り手か貸し手か分かりません。

「おう、納得してくれたかありがたい、ありがたく祝いの気持ち頂くとしよう」

とにっこり笑って頭を下げておいて、ゆっくりと座り直した調所は

「次にじゃ」

と切り出した。

「エツ、まだ何か・・」

いぶかる一堂に

「薩摩藩の年収は良くても年に14~15万両これでは500万両の元金返済はいつになっても不可能で有る」

「と申されますと、が・元金も踏み倒し・・」

と口ごもる越後屋たち

「心配するな、痩せても枯れても薩摩藩は武士じゃ、借りた金は返す、じゃがな、14万両の収入では年に5万、10万両の返済はどだい無理というものじゃ、無い袖は振れぬ」

「と、申されますと」

「どうじゃ皆の者、この際、年に2万両ずつの元本返済ということで手を打とうではないか、これなら薩摩藩も何とか返せるぞ」

「ひやー、たったの2万両でございますか」

「そうじゃ第一、貸した相手がつぶれてしもうては、そちらも元も子もなかろう」

「とは申されましても・・利息なしの250年返済に・・・」

と渋る相手に

「エエ~イもうよい、交渉はこれまでじゃ、飲まぬなら、お恐れながらと・・・」

と、立ち上がりかけた調所に

「調所様にお尋ねしたい義がございます」

という声がした。

見回すと末座に座っていた30歳くらい若い男が手を上げている。

「なんじゃ、尋ねたいこととは?見慣れぬ顔じゃが」

と調所が言うと

「お初にお目にかかります、手前3代目京屋善右衛門と申します。

昨年父が隠居いたしまして京屋の当主になりましてお初にお目にかかります」

「分った、して尋ねたいこととは?」

「はい薩摩様のご事情もよおく分かりましたが、手前どもも又、金を貸して利息で食う商売で御座います。

重豪さまが亡くなられておりますので、手前どもは重豪さまからお金をお支払いいただく訳にもいきません。

昔から親のこさえた借金は親が払えなくなったら、子から回収するということをやっております。

手前どもが九州薩摩の国、島津斉興さまへ直接お願いに行きましてもよろしゅうございますでしょうか。」

この言葉に周りの者が慌てて彼の次の言葉を黙らせた。

「良い良い、若い者は素直じゃな、聞きたいこと言いたいことをはっきり言えばよい、この借金の件は儂が斉興公より直に命令されたこと、儂の言葉は斉興公の返事と思って良いぞ」

と答えて、笑いながら調所は京屋に向かって こう言った。

「のう京屋、この借金はもともとは第11代将軍徳川家斉(いえなり)様の身台所・茂姫様のお父上、江戸で『高輪下場将軍』とその名も高かった島津重豪公が作られた借金であるぞ」と言った。

ここで一言付け加えますと、この将軍家斉こそが大奥という言葉の代名詞にもなった人、将軍在位50年の最長記録保持者、しかも側室を26名も持ち、将軍の実子だけでも50数名を生ませた男であります。

当然朝から晩まで大奥に入りびたりで、政務を一切執らなかったからこそ、将軍ご正室の茂姫様の父である島津重豪がのし上がるチャンスが出てきたという訳でもございます。

なお島津重豪につきましても少し付け加えますと、島津家の第25代当主であり薩摩藩第8代藩主で、徳川家斉の正室高台院の父、将軍の岳父(妻の父・しゅうと)として高輪下場将軍として権勢をふるう一方で、学問・ヨーロッパ文化に強い関心を寄せて、蘭学大名・学者大名ともよばれた人であります。

造士館、演武館、医学院、明時館(天文館)などの建設、百科事典などの出版。

そして13男14女を有力大名に養子縁組、嫁入りさせて勢力を伸ばしていった人。

重豪の2女・茂姫は11代将軍の御台所になった。

但し、こういうことには莫大なお金が必要となったのも事実。

とにかく有能であり、豪胆であり大酒飲みであり、金のことなどは考えもしない人で御座いました。

こういう馬鹿な将軍がいたからこそ、将軍の岳父である島津重豪や日本の南の果ての外様大名に過ぎなかった薩摩藩が幕末にどんどん徳川幕府に物が言えるようになって行ったのであります。

歴史とは人間たちの不思議な組み合わせの中で動いて行くものでございます。


話を戻します。・・・調所は言った。

「芝居の筋にも『親の作った借金は親が払えないなら子が払うもの」という、とんでもない筋書きで、娘を女郎屋に売り飛ばして、其の支度金で借金を返済させるなどという芝居もあったよなあ」

「京屋、薩摩まで出向く必要は無い。

第一島津斉興公は重豪公の子ではなく孫であらせられるぞ。

よって親の借金を子から取り立てたいのなら、重豪公の御子息に当たられる島津藩第9代藩主・島津斉宣(なりのぶ)公が、この江戸におわすので、そこから取ればいい」と言った。続いて

「ただなあ、斉宣さまは既に隠居の身(1809年)、回収は難しかろう。

さすればもう一人のお子さまである重豪公の2女であらせられる将軍家斉さまの御台所、広台院様の所に借金の取り立てに行けばよいではないか」と言った。

唖然とする一同、黙り込んだ京屋。

更に調所は続けた。

「さすれば将軍家斉様がお支払い下さるかもしれぬ。

それを重豪公の孫にあたるわが主、島津業興公から取りたてるのは、筋が通らない、順序が間違っておる、そうは思わないのか。

どうじゃ江戸屋」

このメチャクチャな調所の論理に越後屋たちはもはや反論できなかった。

将軍家に薩摩藩の借金の取り立てに行ける訳がない。

それを言いだせる訳も無いのも自明の理。                      

「のう皆の者、我が主・島津業興公は何とか薩摩藩の借金を返済したいとのお考えで、儂にその解決法を考えよ」と申された。

だからこうして皆と知恵を出しあっておるのじゃ」 

ここで越後屋が口をはさんだ。

「しばらくしばらくお時間を頂きまして、調所様、しばらく御席を外されたく・・」

と調所の許可を取りました金貸し業の面々、部屋の片隅に集まりまして、燭台のローソクの焔を囲みながら、何やらヒソヒソと打ち合わせを始めました。

部屋はシーンと静まり帰って、しわぶきの1つも出ない。

良い案など出るはずもなかった。

どこから飛んできたのか、季節外れの蛾が一匹ゆらゆらと飛んできたかと思うと、

商人たちの真ん中付近に置いてあった燭台のローソクの焔にジッと焼かれて燭台の傍らにポトリと落ちた。

苦しそうに羽を2~3回バタバタと動かして力なく息絶えた。

商人たちにはそれが自分たちのこれからの姿に重なったのか、ジーッとその死骸を見つめていた。


やがて小半時もした頃に調所が席に戻ってまいりますと、越後屋が口を開きました。

「調所様、こうなりゃ厠の(便所)の火事でござます」

「なんじゃ、その厠の火事とは」

「便所の火事でやけくそでございます、そ・その条件でお願い申し上げます」

ということで、とうとう江戸の両替商たちに無利子・250年分割払いでОKを取り付け、その場でさらさらさらと約定書が書き替えられたのでございます。

こうして藩主斉興から厳命された一番目の使命である

「何としても借金の約定書・証文を取り返せ」に調所は成功したのでございます。

いきなり調所から足を踏み入れたこともない博打場の話が出てきて、訳が分からぬうちにやくざ以下のごみにされ、脅されまくってビビりあがって、ようやく反論したと思ったら頼みの綱の契約書が悪事の証拠の品とされて商人たちはすっかりペースを崩されて、

「500万両の借金取り立てはまず将軍家に取り立てに行け、それが筋というもの」

と無茶苦茶な論理を展開されて、気が付いたときは約定書をきれいに書き換えられてしまった。


こうして翌年の1838年までには大阪・薩摩の商人たちからも同じ条件の約定書を取りかわし、事実上薩摩藩の借金踏倒しが成立したのであった。

これが実に明治維新のちょうど30年前の歴史の授業では習わなかった薩摩藩借金無効宣言・いわゆる借金踏み倒し事件の真相で御座います。

これから話は広郷の具体的な財政立て直し策の佳境に入ってまいりますが、

もはや時間となりましたで、御席改め、また口演。 


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