第275話
「渚にこれを、」
チェストから出してきた茶色い封筒を母が私の前に置く。
飾り気のないそれが何故自分に差し出されたのか想像もつかない。
「私に?」
中を確認するとチケットとゲストパスが入っていて、すぐさま譲が浮かんだ。
券面に印字された【ASH】のロゴを指でなぞる。
「預かったの。渚が戻ったら渡して欲しいって」
ポストイットに書かれた「電話しろ!」の殴り書きでさえ愛おしい。
譲の気持ちはもちろん解っていた。
いつ会えるかすら分からないままに、来ることを願ってこれを託したんだと思うと胸が締め付けられる。
「飛行機は最終便にすればいい。行ってやれよ」
チケットを横から覗いて日付を見た兄が、察したように肩に手を置く。
けれど、兄の好意にも心は揺れなかった。
チケットを見た瞬間に行かないと判断していて迷いは無かった。
譲が落ち込むのは予想できたけれど、自分の中でこれが正しいと答えが出ていたから。
チケットとパスを無造作に封筒へ戻すと、親指のネイルの先端が欠けていたことに気づいた。
まだ変えて間もないのに。
気づかぬうちに失っていた欠片を思うと無性に心が乱される。
直後、保っていたバランスが崩れたのか急に虚しさが込み上げてきた。
無意識に深い溜息が漏れていたらしく、父の優しい手が私の肩に触れた。
「もっと我儘でいいんだよ」
父と母が私に向ける目があまりに優しくて、吸い寄せられるように見ていた。
兄がいた頃に戻ったような不思議な空気感だった。
「これからは自分を優先しなさい。今思えば、向き合って渚の気持ちを聞いたのは子供の頃が最後だった気がするな」
気づいてしまった。
優しさと哀しみが絡み合ったような声の中に見えたのは、両親の後悔だった。
「昨日会ったばかりだけれど、裏のない真っ直ぐな男だと思ったよ」
こんな状況じゃなきゃもっと嬉しかったはずなのに。
喜べばいいのか、嘆いたらいいのかさえ分からない。
「そんな顔するな。彼は笑ってたよ」
「…―――笑ってた?」
「あぁ。私たちが知らない渚の話をたくさん聞かせてくれた」
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