第264話
それから両親が待っているという部屋に向かう間、その人は一度も振り返ることはなかった。
なのに部屋のドアの前に立った時、ノブに一度添えた手を下ろして私の目を真っすぐに見た。
私に目配せしながら小さく数回頷くその人を見て、無意識に目を大きくさせていた。
「君は賢い人間だ。その気になればいつでもやり直せるはずだ」
含みを持たせた笑みに吸い込まれる。
まるで暗示をかけてくれるような、そんな不思議な感覚。
そして気づいた。
あぁ、私不安だったんだって。
このまま何もなかったようにここから出てしまったら。
家に帰って普段どうりの生活を送って。
そしたら私は何も変わらないんじゃないかと。
全てを見越したようにこの人は微笑む。
やり直せるはずだと疑わない瞳を向けてくれる。
「大丈夫。大切にしたいと思う相手がいる人間は強い」
誰のことを言っているのか。
確信したような口ぶりに思わず身構える。
さっきいた人の上司だと言っていたけど、よく考えたらこの人が何者なのか詳しく知らない。
あからさまに顔を強張らせた私に気づいて目尻を下げたところをみると状況は悪くないように思うけど……。
「親の話をされても表情を変えず、飲まず食わずを貫いて終始平然としていた君が唯一瞳を揺らしたのが芹沢譲の名前を聞いた時だったね」
まさかこのタイミングでその名前を耳にするとは思わなかった。
大切にしたいと思う相手。
今さっき聞いたフレーズと重なると心の奥深くが温かい。
なのに同じくらい苦しくて心が曇る。
彼は今どこで何を想っているんだろう。
私のことは切り捨てろと言ったくせに、気になって仕方がない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます