後編
『俺もようやくまともになれそうだよ』
まともな生きかたなんかやってられるかと、これまでの人生すべて捨てて地元を飛び出して行った人間が、さっきからなにを言っているのだろうか。
『三年なんて過ぎてみればあっという間だったな』
足の怪我をきっかけに二九で演劇を辞めた要は、いまイベント会社で営業マンをしているそうだ。結婚するお相手は、職場の先輩で、年は三つ上らしい。
『――そうだ。先週彼女の実家に挨拶しに行ったけど、すげー緊張した。ああいうのは舞台の緊張感とまるで別物だな』
「そりゃそうでしょ。大事に大事に育ててきた娘を、目の前の男が奪っていこうとしてるんだからお父さんも必死よ。『一度でいいから君を殴らせてくれ』とか言われなかった?」
『さだまさしかよ。……まぁ和やかな空気とは言い難かったけど、鉄拳制裁はさすがになかった。ショットガンを突きつけられたりとかも、な』
記憶の中の相沢要は、肩を竦めてドヤ顔をしているが、今夜の彼はいまの言葉をどんな風に言ったのだろう。
三年ぶりに聞いた彼の声は、棘っぽさがすっかり抜けていて、口にする言葉もまともなものばかり。知らない人と話しているみたいだった。
(まともってなんだろう?)
「彼女の親父さんからはこう言われたよ」
つまらない話はまだ続くようだった。
「長いことブラブラしていた君にみゆきを任せるのは心配だけど、でもこの子もそろそろ適齢期だし、五年後一〇年後、この子が君と笑顔で暮らしていてくれたらって肩を叩いてきてさ……あれはじーんと来たな」
染み染み言う要には悪いが、自分がこのとき思いを馳せていたのは彼女の家庭環境についてだった。
家族仲がいいのだろう。三五歳で「この子もそろそろ適齢期だし」だなんて、理解のある両親でまったく羨ましい限りだ。
『豊はこの三年どんなだった?』
「私? 私はこれといってなにも。仕事は暇すぎず忙しすぎず。月末月初の請求書捌きが大変なぐらいで、あとはしがない商社事務員だよ」
『新卒からってことはもう一〇年近いよな』
「そだね。結構長いかも」
『あと二、三年すれば水島係長きそうな感じか?』
「どうだろう。うちの会社、男尊女卑やばいし、お局様もゴロゴロいるから。――ま、そのおかげで三〇超えても未だに気楽な下っ端でいられるんだけどね」
あれやって。はい。
これやって。分かりました。
あれもこれもやって。(自分でやれや)
「管理職なんて柄じゃないよ」
『じゃあ、結婚の予定は? ……あ、これセクハラか』
あ、こっちも眉間に皺が寄った。
「ファッキュー」
『悪い悪い』
いまのは怒ったのではなく、彼の訊きかたが気持ち悪かったからだ。友達同士のおふざけというより、職場のおじさんが若い子をからかって面白がるときのあれに近かった。『あ、これセクハラか』と最後に保険をかけとく感じとか。
「私は……結婚はどうかな。自分探しの旅がまだ終わりそうにないから」
『二七で別れた人が最後?』
まだ訊くんだ。ジョークを言うのもだんだん疲れてきたのに。
「ねぇ、キジ猫とハチワレってどっちがいいと思う?」
『やめとけやめとけ。それ生涯独身宣言だぞ』
「茶トラもいいよねぇ……」
ジョークを言うほうも、ジョークに笑うほうも、決められた台詞をそれらしく演じているだけの役者みたいだ。さっきからなんだろう、これは?
うんざりを通り越して、虚しくなってきた。
「ねぇ。いまさらだけど、長電話大丈夫なの?」
元役者、現在営業マンの彼なら、この言葉がどういうニュアンスのものか察するだろう。そのつもりで言った。
『彼女は実家に帰ってるよ』
察してくれてなにより。声のトーンが少し落ちていた。
『誤解するなよ。これは計画的帰省だから』
「計画的帰省?」
『両親の溺愛ゲージを満たしておくためだってさ。いまのうちになるべくいっぱい甘えとかないと、すぐ様子見に来たりするかもしれないからって。そういうこと』
「んー、どうだろうね。もしかしたら今頃お父さんの部屋で『あたし、やっぱり結婚やめる!』って言ってるかもよ?」
『はは。だったらいいな。「要くんは人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ」って、俺の株が上がってる最中だ』
「やれやれ。ああ言えばこう言う」
(幸せか)
似合わない言葉だと思った。
学生の頃は「中途半端な幸せよりも大きく成功したい」と事あるごとに言っていたのに。口だけじゃなくて、実際にやってくれたじゃないか。内定辞退、勘当、夜行バスの見送りだって恋人でもなんでもない同級生が一人来ただけで、それでも野心という名の片道切符を握り締めて旅立って行ったじゃないか。
向こうに行ってからだって、真夜中にいきなり電話をかけてきて『どいつもこいつも分かっちゃいない!』と呪詛の言葉を何時間も撒き散らしていたのは誰だ。こっちは酔っ払いの支離滅裂な話に散々付き合わされて、
《寝坊したんだけど!!》
《今度クール便で蟹送るから昨晩のことは勘弁してくれ……》
こんなしょうもない愚痴や失敗談でも、自分にとっては面白おかしい冒険小説の贈り物だった。地元の企業に普通に就職して味気ない毎日を繰り返しているだけの自分にもいつかなにかできるんじゃないかと、彼の馬鹿話は励みになった。その無軌道な生きかたを見習って、たまにうんと遠い土地まで旅行してみたり、(この資格取ってみようかな)と分厚い参考書を買ってみたり、小説を書いてみたりした。資格勉強は途中で飽きて、すばる文学賞間違いなしの傑作も四枚書いたところで挫折したが、それでもよかった。彼の頑張りに影響されて行動を起こした。つかの間ではあっても、自分もなにか特別な人間になれた気がした。それが大事なことだった。
だから、夢を叶えられなかったことで彼を責めたりなんかしない。(残念だったな……)とは思っても、失望なんか絶対しない。役者の世界が厳しいってことは、素人の自分にだって分かることだし、便りがないのは、野心の停滞、あるいは夢の終わり――薄々分かっていた。
それでも、夢の末路が謝罪だなんて哀しすぎる。
『長いこと応援してもらったのに、こんな形で終わってごめんな。期待に応えられなかったけど、でもこれも人生だって、俺は上手いことやってくよ。だから……』
こんな電話なら永遠にかかってこないほうがよかった。
タネ明かしがなければ、いつまでだって夢を見続けていられたのに。
「要。結婚おめでとう」
最後の最後になって『俺もようやくまともになれそうだよ』だなんて言ってほしくなかった。そんなつもりで言ったわけじゃなくても、
「末永くお幸せにね」
あなたの夢を応援していた私まで否定しないでほしかった。
温かいカフェオレ。
バスター・キートン。
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