第9話 朔夜の過去、陽向の現在
冷え込みの残る昼下がり。
『花ことば』の店内には、控えめな冬の日差しが差し込んでいた。ふと、店のドアが開き、落ち着いた雰囲気の男性が一人、入ってくる。コートの襟を立て、手には小ぶりな紙袋。
「こんにちはー、あの、知人に贈り物で花を……」
陽向が対応しようと前に出た、その時だった。
「……おや、小松君?」
カウンター奥から出てきた朔夜が声をかける。男性は驚いたように目を見開き、そしてすぐに笑顔になった。
「えっ……あれ、藤倉? うわ、久しぶりだなあ!」
「ええ、本当に……高校以来でしょうか。お元気そうで、何よりです」
「あははっ、その礼儀正しい口調も変わってないなー」
「すみません、性分ですねので。……贈り物のお花の件で少々、お時間いただけますか?」
客の小松は頷きながら腰を下ろすと、周囲を見渡しながら言った。
「すごいなあ……お前が花屋やってるって聞いて、正直びっくりしたけど……めちゃくちゃ藤倉っぽいな」
「ありがとうございます。予想外でしたか?」
「いや、なんというか……昔から周りに優しかったけど、まさかそれが職業になるとは思わなかったというか」
控えめな笑い声に、朔夜も静かに頷く。
そのやりとりを、陽向は少し離れたところから聞いていた。高校時代の友人ということは理解できたが、どこか心がざわつくのを感じる。
「そういえば、あの頃、藤倉って……結構モテてたよな。穏やかで、成績も良くて。確か、付き合ってた子もいたんじゃなかったっけ?」
「……そうでしたか?」
朔夜は変わらぬ微笑みを浮かべながら、少しだけ曖昧に返す。
「いやー懐かしいな。あのときの藤倉、あれで案外鈍感だったし。何人か気づいてほしかった子もいたと思うぞ?」
「それは……恐縮です」
柔らかくかわす朔夜に対して、小松は悪気のない笑顔を浮かべたまま話を続ける。その光景を見ながら、陽向の胸の奥で、妙なざらつきが残った。
(……付き合ってた人、いたんだ)
考えてみれば当たり前のことかもしれない。朔夜ほどの人間なら、誰かに想われて当然だ。
だが、その当然が、今の陽向には胸に重くのしかかった。
その後、小松は簡単なアレンジメントを注文し、再会を喜びながら店を後にした。扉が閉まる音が、やけに静かに響いた気がした。
片づけの合間、朔夜がふと陽向に声をかける。
「陽向、さっきのお客様、昔の同級生だったんです。小松君という方で」
「……そうっすね、聞こえてました」
「失礼なことを言っていませんでしたか?」
「いえ、全然。ただ……」
「……?」
言葉がそこで止まり、陽向は黙って作業に戻る。朔夜はそれ以上は何も言わず、静かに離れていった。
いつも通りの空気のはずだった。でも、胸の奥に残る小さな違和感が、陽向を落ち着かなくさせていた。
(そりゃ店長だって、過去に好きな人くらい……いるよな)
それでも、どうしてこんなにもモヤモヤするのか、自分でもわからなかった。
閉店後、店内の照明がゆっくりと落とされていく。
カウンターや花台を整え終え、陽向はロッカーから上着を手に取る。店を出ようとしたところで、ちょうど朔夜がドアに鍵をかけるところだった。
「あっ……すみません、最後まで任せっぱなしで」
「大丈夫です。たまたま手が空いていただけっす」
朔夜はそう言って微笑むと、自然な流れで二人並んで歩き出す。商店街の灯りが遠くにきらめく、寒さの滲む夜道。
沈黙が数歩分、続いた。
(………………聞くなよ。わざわざ掘り返すことじゃない。だって、聞いたら俺は……)
そう思いながらも、言葉が喉元で何度も浮かんでは消えていく。それでも――。
「……店長って、昔……誰かと付き合ってたこと、あるんすか?」
その問いは、気づけば口をついていた。朔夜は驚いたように目を見開く。けれど、それはほんの一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「……過去のことは、過去のことですよ」
それだけを言って、少しだけ前を見つめる。陽向は咄嗟に後悔しかけた。けれど、次に続いた言葉が、彼の足を止めさせた。
「しかし―今、気になる人がいます」
「……っ」
凍える空気の中で、その一言が妙に鮮明に響いた。
陽向は隣に立つ朔夜の横顔をちらりと見る。穏やかで、どこか遠くを見ているような眼差し。その気になる人が誰かなんて、当然、聞けなかった。
心臓の音がひときわ強くなったのを自覚する――。
(……俺、今、何考えてんだよ)
焦りにも似た感情が喉元までせり上がる。
でも、朔夜はそれ以上は何も言わなかった。ただ、少しだけ歩幅を緩めて、隣を歩く陽向にさりげなく合わせる。
「今日は、陽向と少し歩けて、よかったです」
「え……?」
「こうして一緒に歩く時間も、大切にしたいなって、最近よく思うんです」
そう言って朔夜は、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべた。
「それでは、おやすみなさい。また明日もよろしくお願いしますね」
「……うっす」
扉が閉まったあとも、陽向はしばらくその場を動けなかった。
(気になる人……俺じゃないかもしれない。でも、そうだったらいいのにって、思ってる)
自分の中に芽生えた欲が、はっきりと形になった瞬間だった。
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