第6話 新人バイト・佐伯晴の苦戦
花屋『花ことば』の店内に、いつもと違う空気が流れていた。――いや、正確には“新しい空気”と言うべきかもしれない。
「えっと……今日からお世話になります、佐伯晴です! よろしくお願いします!」
少し緊張した声が店内に響く。
そこに立っていたのは、茶色の柔らかそうな髪を短く整えた少年だった。目元がどこかあどけなく、線の細い体つきをしているせいか、全体的に頼りなげな雰囲気を漂わせている。
(……店長が俺より年下って、言ってたな)
陽向は無言のまま、その様子をじっと眺める。
一方、カウンターの向こうにいる朔夜はいつもの穏やかな微笑みを浮かべながら晴に頷いた。
「晴さんですね。今日からよろしくお願いします」
「は、はい! 一生懸命頑張ります!」
晴は緊張しながらも、まっすぐな目で朔夜を見つめる。その姿に、陽向は小さく鼻を鳴らした。
「まぁ、最初は覚えること多いし、気軽に」
「えっ……あ、ありがとうございます!」
突然の言葉に驚いたのか、晴は目をぱちくりと瞬かせる。
「それじゃあ、晴さんにはお店の基本的な仕事を覚えてもらいましょうか」
朔夜の言葉に、晴は緊張しながらこくこくと頷く。
店の開店準備や水替え、接客の流れなど、基本的な業務についての説明を受ける。その横で陽向は腕を組みながら黙って聞いていたが、途中で小さく息を吐いた。
(……戸惑ってる。まぁ、最初のうちは誰でもこんな感じっすよね)
そう思いながら、陽向は作業を再開しようとした。刹那――。
「……わっ!」
バシャッと水の音が響く。振り返ると晴がバケツをひっくり返し、床に水をぶちまけていた。
「す、すみません! 手が滑っちゃって……!」
慌てて雑巾を掴もうとする晴。しかし、焦るあまりバランスを崩し、今度は近くの花瓶にぶつかりそうになる。
「……っ!」
陽向はすかさず動いた。花瓶が倒れる寸前、素早くそれをキャッチし、なんとか最悪の事態を防ぐ。
「お、おお……すごい反射神経……!」
晴が目を丸くしながら感心したように呟くが、陽向は軽く舌打ちをした。
「佐伯くんさぁ! まだ始まって5分しか経ってねぇのに、いきなりやらかすとか先が思いやられるんだけど」
「うぅ……すみません……」
しょんぼりと肩を落とす晴。それでも店主である朔夜は苦笑しながら優しくフォローする。
「最初はみんな失敗するものですよ。焦らず、ゆっくり覚えていきましょう」
「は、はい……!」
陽向は溜息をつきながら、雑巾を投げるように晴に渡した。
「ほら」
「は、はい!」
晴は慌てて水を拭き始める。その姿を横目に見ながら、陽向は心の中で呟いた。
(……暫く、厄介だな)
こうして、新人バイト・佐伯晴の試練の日々が始まったのだった。
晴が床の水を拭き終えた頃には、すでに彼の額にはじんわりと汗が滲んでいた。
そんな彼の様子を見て、陽向は半ば呆れたように肩をすくめる。
「……まだ開店前なんだけど。そんなにバタバタしてて大丈夫?」
「す、すみません……でも、ちゃんとやります!」
晴はぐっと拳を握るが、その直後――ドンッ!
慌てて立ち上がろうとして、今度はカウンターの角に額をぶつけた。
「い、いってぇぇぇ……!」
額を押さえてうずくまる晴を見て、陽向はこめかみを押さえながら低く唸る。
「……マジで大丈夫?」
「だ、大丈夫です……! これくらい……!」
しかし、その声は明らかに涙目になっている。
そんな晴を見て朔夜は優しく微笑みながら、棚の奥から小さな保冷剤を取り出した。
「晴さん、これをどうぞ」
「えっ……あ、ありがとうございます……!」
冷たい保冷剤を受け取りながら、晴は申し訳なさそうに縮こまる。
(……店長、優し過ぎ。もうちょい落ち着いて動けば、別に……)
陽向は心の中でそう呟くが、あえて言葉にはしなかった。
「……まぁ、最初はそんなもんだろ。仕事覚える前に怪我、とか……しないで」
「は、はい! 気をつけます!」
晴は真剣な顔で頷く。その姿を見て陽向は小さく息を吐きながら、次の指示を出した。
「じゃあ次は、店頭に並べる花のチェック。萎れてるやつがないか確認して、水が足りない花瓶にはちゃんと補充すること」
「了解です!」
元気よく返事をし、早速作業に取りかかる晴。しかし、すぐにまたトラブルが発生する。
「あっ……!」
今度はバケツを蹴飛ばしそうになり、慌てて体勢を立て直す。
どうにか倒れるのは防いだが、その拍子に棚の花を揺らしてしまい、花びらがひらりと床に舞った。
(え……まだ始まって30分っすよね? この調子で本当、大丈夫か?)
「晴さん、落ち着いて作業すれば大丈夫ですよ」
「は、はい……!」
晴は再び気合を入れ直し、今度こそ慎重に動き始める。
最初はドタバタしていたが、少しずつ慎重に作業するようになり、失敗の回数も減っていった。
(……まあ、これならギリギリ見てられるっすね)
陽向は腕を組みながら、晴の様子を横目で確認する。すると、ふと朔夜がクスッと笑った。
「陽向さん、随分と面倒見がいいんですね」
「……は?」
「いえ、なんでも」
朔夜はさらりと流すが、陽向はなんとなく釈然としないまま晴の仕事ぶりを見ていた。
* * *
昼を過ぎ、店内が少し落ち着いた頃。
晴はなんとか一通りの作業をこなせるようになり、ほっとした表情を浮かべていた。
「ふぅ……少しは役に立てましたかね?」
「……まあ、最初よりはマシになったんじゃねぇの?」
陽向の素っ気ない言葉に、晴はぱっと顔を輝かせる。
「本当ですか⁉ ありがとうございます!」
「いや、別に褒めたわけじゃないけど……及第点も危ういし」
あまりにも素直な反応に、陽向は少し戸惑う。
そんな二人を見ながら、朔夜は静かに紅茶のカップを準備していた。
「晴さん、少し休憩しませんか?」
「えっ、いいんですか?」
「はい。最初の日ですし、疲れたでしょう」
晴は嬉しそうに頷き、用意された紅茶に手を伸ばした。
「わぁ、いただきます!」
その瞬間――カップが傾き、紅茶がテーブルの上にこぼれた。
「うわぁぁぁ‼ す、すみません‼」
晴は慌ててナプキンを掴み、必死で拭き始める。陽向は再び頭を抱えながら、ぼそりと呟いた。
「……落ち着くこと、次までの課題な」
「うぅ……頑張ります……」
晴の試練は、まだまだ続きそうだった。
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