第2話 花屋の朝と、マイペースな店主

 朝の空気は、どこか柔らかい。

 都会の喧騒がまだ本格的に動き出す前、静けさの中に鳥のさえずりが響いている。


 陽向はゆっくりと歩を進めながら花屋『花ことば』へと向かっていた。

 大学の授業がない日は、朝からシフトに入ることが多い。しかし、正直なところ朝が得意なタイプではなかった。


「……はぁ、ねみぃ」


 低く呟きながら、店の前で立ち止まる。まだシャッターは閉まったままだった。


(また店長、のんびりしてるんじゃねぇだろうな……)


 店の鍵を持っているのは店主の朔夜。

 バイトである陽向は先に到着しても、当然開けることができない。しかし、朔夜が開店時間を守らないわけではない。ただ、のんびりとした性格のせいで、開店ぴったりに店を開けることが多いのだ。


「……やっぱ、まだっすよね」


 諦めたように腕を組み、壁に寄りかかる。

 そうして数分待っていると、角を曲がってのんびりと歩いてくる人影が見えた。淡いベージュのコートを羽織り、手には紙袋を持っている。


「おはようございます、陽向さん」


「……店長、遅いっす」

「ええ、ちょっと寄り道をしていました」


 寄り道。その言葉に、陽向の視線は自然と朔夜の手元へ向かう。


「……それ、なんすか?」

「パン屋さんで焼き立てのクロワッサンがあったので、つい」


 朔夜はふわりと微笑む。

 紙袋の隙間から、ほんのりとバターの香ばしい香りが漂ってきた。


(……いや、のんびりパン買ってる場合じゃねぇっすよ)


 内心で軽く溜息をつく。朝から優雅にパンを買ってくる花屋の店主って、一体どんな存在だろうか。


「……とりあえず、早く開けてもらっていいっすか?」

「ええ、もちろんです」


 朔夜は鍵を取り出し、シャッターを上げる。ガラガラと金属音が響き、花屋『花ことば』の一日が始まった。

 店内に入ると、ほんのりと湿った空気と花々の優しい香りが迎えてくれる。


 陽向は慣れた手つきでエプロンを手に取り、作業台の方へ向かった。


「まずは水替えと掃除っすね」

「はい。それが終わったら、午前の注文分の準備に入りましょう」


 いつもの朝のルーティン。それなのに、今日は少しだけ違った。


「陽向さん、これをどうぞ」


「……は?」


 振り返ると、朔夜が小さな紙袋を差し出している。さっき持っていたものの中から、ひとつ取り出したようだった。


「クロワッサン、美味しそうだったので、陽向さんの分も買ってきました」

「…………」


 陽向は無言で紙袋を見つめる。


「……いや、俺、そんなの頼んでねぇっすけど」

「ええ、でも陽向さん、朝はあまり食べないんじゃないかと思いまして」


「……別に、食わなくても平気っすよ」

「とはいえ、働くにはエネルギーが必要ですからね」


 穏やかに微笑みながら、朔夜は紙袋を机の上に置いた。

 断ることもできたが、すでにそこに置かれてしまってはどうしようもない。それに、バターの香ばしい匂いが、やけに食欲をそそる。


(……ちょっとくらいなら、別にいいっすよね)


 陽向は渋々、紙袋を手に取った。


 紙袋の中を覗くと、まだ温もりの残るクロワッサンが顔を覗かせていた。表面はサクサクとしていて、バターの豊かな香りがふんわりと立ち上る。


(……まあ、悪くはねぇっす)


 渋々といった様子でクロワッサンを手に取る。口に入れた瞬間、思わず僅かに目を見開いた。

 外はカリッと軽やかで、中はしっとりとしていて、噛むごとにバターの風味が広がる。


「……美味しいっすね」

「ふふ、よかったです」


 陽向が小さく呟くのを聞き逃さなかったのか、朔夜が微笑む。その柔らかな視線に、陽向はなんとなく居心地の悪さを覚えた。


(……なんで、そんなにあんたが嬉しそうなんすか)


 朔夜の前で食べるのもなんだか気恥ずかしくなり、陽向はそそくさと作業台へと移動を試みる。


「……さて、とっとと水替えするっす」

「ええ、お願いしますね」


 朔夜はいつも通りのんびりとした口調で返し、自分の作業へと戻る。

 一方の陽向は心の中にわずかなもやもやを抱えながら、水の入ったバケツを持ち上げた。


 暫くして、開店前の店の入口のベルが鳴った。


「おはようございます!」


 快活な声とともに入ってきたのは、カフェ『サンク・リーブル』のオーナー、榊原慎だった。

 彼はいつも通り軽やかな足取りで店に入り、カウンターに腕をついて朔夜に笑いかける。


「今日もいい天気だな〜。朔夜、ちゃんと朝ごはん食べたか?」

「ええ、クロワッサンをいただきました」

「へぇ〜、優雅だな。……って、おや?」


 慎の視線が、作業台の近くにいる陽向へと向いた。


「君も食ってんじゃん」


「……別に、食ってねぇっすよ」

「いや、パンくずついてるぞ」

「っ……」


 慌てて口元を拭うが、慎はニヤリと笑ったまま陽向を見つめている。


「へぇ〜、陽向くん、甘いもの苦手そうな顔してるのに、意外と好きなんじゃないの?」


「……っ、違ぇっす」

「まあまあ、別に隠さなくてもいいだろ」


「……っすから、違ぇって」


 必死に否定する陽向の隣で、朔夜は相変わらず穏やかな表情を浮かべていた。


「もう慎さん、そんなにからかわないでください」

「だってさ、陽向くんって面白いんだもん」


 慎が軽く肩をすくめると、陽向は苛立たしげに顔を背けた。


(……チッ、なんでこういう人に限ってすぐバレるっすかね)


 反論はしない。それ以上何か言うのも面倒になり、黙々と作業へ戻ることにした。



* * *


 午前の開店準備を終え、最初の客足が落ち着くと朔夜がふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、陽向さん。今月、大学の方はどうなんですか?」


「……ああ、来週ちょっとレポートがあるっすね」

「それは大変ですね。バイトのシフト、調整しましょうか?」


「……別に、そこまでしなくてもいいっす」

「ですが、学業も大切ですから」


「……」


 陽向は口を閉じた。バイト先でこういう気遣いをされるのは、あまり経験がない。

 基本的に学生だからと甘やかされることはなく、どこへ行っても働く以上、ちゃんと責任を持てと言われるのが当たり前だった。


(……まあ、だからってサボるつもりもねぇけど)


 自分で選んで働いている以上、手を抜くつもりはない。

 でも、こうして「無理はしなくていいですよ」と自然に言われると、どう応じていいかわからなくなる。


「……ま、そんときはまた相談するっす」

「ええ、そうしてくださいね」


 朔夜はゆるく微笑みながら、水の入ったジョウロを手に取る。その何気ない仕草に陽向はまた少しだけ居心地の悪さを感じていた。


 昼前になると、花屋の外を通る人の数も増える。

 道行く人々がちらりと店先の花々に目を留め、そのまま吸い込まれるように店内へ入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 陽向は自然とそう声をかけていた。

 少し前まで、客対応は正直苦手だと思っていた。でも、なんとなく最近は慣れてきた気がする。


(……ま、悪くはないっすね)


 仏頂面のまま、客の対応を続ける陽向。それを朔夜は、静かに微笑みながら見守っていた。

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