[2.14] 「行き先」
炊き立てのご飯を口に運ぶ。咀嚼して、じんわりと甘みが出た頃に飲み込む。
ただし不機嫌な今日は噛む回数がいつもより少ない。それもこれもじいじのせいだと投げやりな言葉と一緒に飲み込んだ。
「悪かったって。別に誰にも言わないから」
「イツキには怒ってへんって。じいじに怒ってるんやわ」
翌朝の朝食風景である。
リンゴとその祖父であるガク、そしてイツキはガクの作った味噌汁とおかずを食べているところなのだが、いささかリンゴは不機嫌なようだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
話は5分ほど前に遡る。
味噌と出汁の香りが漂う台所では一足先に起きていたガクが朝食を用意していた。そこにガラガラとスライドドアを開けて入ってきたのはイツキ。
「お、イツキくんおはようさん」
「おはようございます」
「もう朝メシできるで、あとちょい待ってな」
「……リンゴちゃんはまだ起きてないんですかね」
「あいつ朝弱いからなぁ。ちょお悪いけど、起こしたってくれへん?」
「昨夜寝る前に『あ、そうそうイツキ。何があってもウチの部屋覗かんとってや』って釘差されたんですけど」
「アイツは鶴か」
とは言ったものの、起こさない訳にもいかず。しかし年頃の女の子の部屋である。イツキも無許可で部屋の中まで入る主義ではない。なのでリンゴの部屋のドアの前でノックするだけに留めた。
「おはよう、起きてるかー?」
「……」
返事が無い。まだ寝ているのか。もう一度ノックした。
「おーい、今日は朝から出かけるんじゃなかったのか? おじさんもう朝メシ作ってるぞ」
「……んぅう……」
呻くような声に加えて、モゾモゾと這い出ようとする音は聞こえてくる。
とはいえリンゴは昨日の疲れもあってか、寝起きでまだ寝ぼけていた。ベッドから身を起こそうと腕に力を込めようとしたが、力をかける位置がベッドの端だったのでズルリと滑り落ちてしまった。バランスを崩したリンゴはそのままベッドから転がり落ちるように床へ。さらにその床もあまり整理されていなかったため、積まれていた服やら本類が衝撃に耐えきれずドサドサッと派手に崩れてきた。眠気を吹っ飛ばすには十分な痛みである。
「痛ったぁ……」
「お、おい、大丈夫か……?」
イツキは入ったことのないリンゴの部屋である。中がどうなっているのか知る由も無い。崩れる音の大きさに、何かあったのか思わずドアを開けてしまった。痛みを含んだ、どこか間抜けな顔のリンゴが逆さまになってこっちを見ていた。
「……げぇ」
リンゴの部屋が整理整頓されていないのは一旦この際目を瞑ろう。
しかしその積み上がっている彼女の私物はサブカル系のものばかりである。リュックには缶バッジやストラップがびっしりと並んでいたり、漫画やアニメのグッズが無造作に積まれていた。イツキも知っているメジャーなコンテンツの他に、見たことの無いマニアックなものまであった。イラストの粗雑さから見ても同人誌だろうか。
衣類も学校の制服だけでなく、昨日の夜から着ていた鯉の魚拓のシャツのように「エビデンスで鯛を釣る」などの文字がロゴとして胸元にでかでかと書かれたものまでも色々ある。
その様子を把握したイツキは少し合点がいった表情である。
「あ……そういう、こと……?」
リンゴの赤面が見えた途端に枕が顔面目掛けて飛んできた。出てけ、ということらしい。
そして話は朝食風景に戻る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「イツキくんに頼んだ僕も悪かったけどやなぁ。お客さんに見せられへん部屋もどうなんや」
「急に来るて言うから片付けする時間無かってんて」
「一週間くらい前には言うてたやろ。後で後で、て言うて結局やってへんかった、んではそらあかんわ」
正論である。
正論を突きつけられて渋々、といった表情でリンゴはまたご飯を頬張った。
「イツキ、あんたは何も見てへん、わかった?」
「わかったわかった。ラブスクのミミちゃんのキーホルダーだのアクリルスタンドだの、ケータイの待ち受けだので埋まってるのなんて見てねーから」
ラブスクとはメディアミックス企画の一貫の架空のアイドルグループであり、そしてミミちゃんとはそのアイドルグループに属する女の子の1人である。
リンゴは頬張ったご飯をむせながら言った。
「でぇ、やっぱ見とるやんけ。ってか、え、なんでそこまで知ってんの?」
「詳しい奴がオレの知り合いにもいるからだよ。あんだけミミちゃんのグッズで棚埋めてたらわかるって。つーか、その前に反省しろ」
「ミミちゃんはウチの嫁なんや、いつもセンターやないけど確かな芯を持っとるんや、そこがええんや」
「おーい、聞いてんのか」
リンゴは女だが、推しを嫁と表現するのも変な話である。また話のわかる相手が見つかりかけて、一瞬期待を膨らませる顔になったのは彼らの生態だろうか。イツキはそれらの生態が見えたことで思った。
(こいつ、オタクだったのか……)
(ほんま、誰に似たんやろ……)
ガクもやれやれといった表情である。ガクはその似た相手の顔が思い浮かぶ。孫娘の大変な時期にお姉さん役としてよく面倒を見てくれた、銀髪の少女。
てんやわんやの朝食を食べ終えると、リンゴは手早く身支度をして家を出る準備中だった。学校のためのリュックとはまた別の、シンプルな無地のリュックと火血の入った長い筒。そしていつものスニーカーを履くところだった。だがその表情はいかにも憂鬱、もしくは面倒臭いといったものである。
もちろん筒の中身が得物であるということはイツキには秘密である。
「もう出かけるのか?」
「ちょっと先に寄る所があってな。そういうイツキももう出るんか?」
「そうだな。ちょっとしたら」
「そう。ほなちょっと早いけど今回はここでお別れやな」
リンゴはごく短い間のハトコとの再会を名残惜しむように見上げる。イツキは少し微笑んで、
「そうだな。まあまた会えるさ」
「せやね。もう親元ばっかおる時期ちゃうしな。ああ、そうやった。今度タマキおばさんとこにも挨拶に行くわ」
「じゃあその時にでもまた会おうぜ」
「うん」
ほなな、とリンゴは家を飛び出して自転車に跨った。行き先はハナノ神社だ。
「んじゃ、オレもそろそろ出るかな」
リンゴを見送ると、イツキはそう呟いた。そして台所で洗い物をしているガクに挨拶に向かう。
「ガクおじさん、じゃあオレもそろそろ出るよ」
「お、そう? 早いな。もうちょいゆっくりしてってもええねんで」
ガクは洗い物の手を止めて、タオルで濡れた手を拭く。
「いやー、この時期どこも混んでるらしいから早めに行っとかないと」
「あー、そらそうやわなぁ。まあ、また時間ある時にでもおいでぇや」
「はい、またお邪魔します」
「ほな元気でな。タマキさんと、お母さんにもよろしゅう」
「はーい」
リンゴはイツキに、イツキはガクに見送られながら家を出た。さて、イツキの行き先はというとカラスベ神社……という訳でもないようだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リンゴの住む町は川の近くにあり、そこに架かる大きな橋が有名な一大観光地でもある。大通り沿いの商店は、主に観光客をターゲットにした開店の準備に勤しんでいた。
ハナノ神社は市街地から自転車を駆って10分ほど、その街から少し外れた山の中腹にある。麓の観光地や寺社と比べると寂れているが、彼ら「ツカサ」の隠れ蓑とするには丁度良かった。登りが少しきついという所と、夏場は蚊がうるさいという所を除けば。
境内の手前に自転車を置くと、本殿の裏手にある宿舎へ向かう。本殿はそこまで大きくないのだが、数少ないツカサの陣営ゆえ宿舎の方が大きい。アオイをはじめ、昨晩の戦闘で負傷した者はひとまずここで療養している。
その道中で神聖な場には不似合いな、喧々とした声が聞こえてきた。
「だから何度も言ってる通り、得体の知れない妖なんかお断りよ」
「違いますって、僕は……」
少しヒステリックな巫女服の女性の声と、聞き覚えのある頼りなさげな声。リンゴにとっては両者とも知り合いだった。すぐさま仲裁に入る。
「あれ、オレンジくんやん。どしたん、こんなとこで」
「リンゴちゃん! 助けて、アオイちゃんのお見舞いに来たらこのお姉さんに……」
「あー……なるほどなぁ」
リンゴはオレンジの背後の存在を見上げる。新入りかつこんな妖が堂々と入ってくれば警戒もする。ちゃんと警戒を怠っていないと褒めるべきか、新入りにそんなギャンギャン声張り上げなくても、と注意するべきか。
しかしそこで気付いた。オレンジがここにいる理由。
「ってオレンジくん、アオイのために?」
「……うん」
「そうなん、ありがとうな。アオイも喜ぶわ」
「リンゴ、あんたの知り合い?」
「最近入った子。ちょっと複雑な事情があるんやけど。あ、オレンジくん。この人は『カリン』さん。ウチの先輩や」
まだ付け加えたいことがあるようで、リンゴは顔を近づけて声を落とす。
「ちょいちょい言葉きついけど、悪い人ちゃうから」
「聞こえてんで」
良い耳をしている。バレたリンゴは舌を出しておどけた。
「……そういえば彼、前ミコっちゃんの所に来とったな。今思い出したわ」
カリンと呼ばれる巫女の女性は、以前オレンジをミコトに診てもらった時にユヅルと話していた時の彼女だ。
「そうや、昨日も大蜘蛛退治に協力してくれたんやで。しかもアオイの見舞いにまで来てくれてるんやわ」
ずいっとリンゴはカリンに詰め寄る。リンゴ自身はあまり自覚していないが、ツカサの中では既に主力の一角を務めているリンゴに、ここまで言われては根負けである。
「……悪かったわよ」
「わかればええねん。ほなオレンジくん、行こか」
ありがとう、助かった。
こっちこそごめんな、知らんかったとはいえうるそーて。
遠ざかる2人の背中を見てカリンは何か違和感を感じていた。
確かに妖の気配がして警戒はした。だがいくら数日前の話とはいえ、そんな特異点とも形容すべき彼のことを忘れるだろうか?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「2人とも来てくれたんや、おおきになー」
ベッドのアオイは少し疲れた表情ではあるが、いつものようにマイペースに笑いかけてきた。枕元には狐のぬいぐるみ、傍の机にはミコトもいる。
「ワタシのことは無視か」
「あー、あんたもおったんか、気づかんかった。最近は空気になってきたんとちゃうー?」
「ほう、では中空の陣でもここら一帯に張っておこうかの。空気の濃度でも低下させておけば空気の有り難みがわかるじゃろうのぅ」
「ダメだよネズ」
「冗談じゃ、くっくっく」
「あんたが言うと洒落にならんねんて」
半分くらいは冗談とわかってはいるが、半分は聞こえないのも事実ではある。そんなじゃれあいはさておき、リンゴはアオイの容体についてミコトに訊くことにした。
「ほいで、どうなん?」
「多少呪力反動による影響は残っていますが、ほぼ問題無いようです。ただ、大事を取って今日までは休んだ方が良いでしょう」
「えー、ミコ兄もう大丈夫やってー」
「医者の言うことは聞いておいた方がいいですよ」
「……ミコ兄も会談参加したないんやろ。病人の相手しとったら駆り出されんで済むし」
「さあ、何のことでしょうか」
目線を逸らして口角が上がっているあたり図星らしい。穏やかな性格と見た目ではあるが、なかなかしたたかな一面もあるようだ。
「まあ、そういうことにしとこ。アオイも大丈夫そうやし、そろそろムロハスさん行かな」
「もう行くん? 早やー」
「お気をつけて」
アオイとミコトは笑顔で手を振って2人を送り出す。呑気な2人だ。
「……新入りのオレンジくんはちゃんと着いてきてくれるっちゅうのにあんたらはホンマ。はあ、行こか、オレンジくん」
「うん。じゃあアオイちゃん、お大事に」
リンゴは苦笑いしながら背後の2人に軽く悪態をつくと、オレンジを伴って病室を出て行った。
「……あの2人、意外とええコンビとちゃうん?」
「さあ。厳密にはトリオですけどね。多少頼りないところはありますが、引き締める所は引き締められる、芯の強さを互いに感じますよ」
元から糸目のミコトではあるが、その糸の両端は上がっている口角に釣られるように下がっている。
「さて、あなたも先程申した通り、今日夕方までは安静に。私はそろそろ他の方も診てきます」
「はーい」
「ではお大事に」
ミコトはそう言い残すと、静かにアオイの病室を出て行った。
1人残されたアオイは病院特有の消毒液の臭いを避けるように鼻まで布団をかぶってまた横になった。
視界の端には少し日に焼けた、狐を模した小さなぬいぐるみ。アオイはそれにそっと手を伸ばして呟いた。
「……お姉ちゃん、待っとってや」
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