第38話 038

ーー静まり返った夜。




黒い影が揺れ、モルガンが現れる。


艶やかな黒髪が闇に溶け、赤い瞳が燐光のようにイザベルを見下ろした。




「かわいそうに」




イザベルの涙に濡れた頬を、長い指がそっとなぞる。




「…モルガン……私は……どうすればいいの?」




掠れた声が室内に溶ける。




「条件は、三つよ。月の光、それから魔女の血と口付け」




「…月の光?魔女の血と口付け?一体何のこと?」




モルガンの声は低く甘やかに、耳を溶かすように響く。




「“魔女の魅了”よ。月明かりの下で、あなたの血を捧げ、皇帝に口付けする。そうすれば――あなたは、再び皇帝の心を得られるわ」




「……再び……?」




「ええ」




モルガンの赤い瞳が、妖しく細められる。




「イザベル。あなたはね、もう一度それをやる必要があるの」




「……もう一度……?」




「ええ。あなたは――すでに一度、魅了を使っているでしょう?」




「……え?」




イザベルが、はっと顔を上げる。




「……何を、言ってるの……?」




モルガンは、愉しげに微笑んだ。




「あの日の崖の下でのこと、覚えているでしょう?皇帝が崖から落ちて、あなたが彼に必死に駆け寄ったあの夜ーー。あなたは岩角で指を切り、血を流しながら、彼を抱き起こした」




「……」




「息をしていなかった彼に、あなたは口付けをした。彼を救うために――必死で」




イザベルの喉が、ひくりと鳴る。




「……あれは……ただ……」




「ええ、あれは意図的ではなかったわよね」




モルガンは遮るように言った。




「でもね、魔女の術は“意図”だけを必要としない。血と口付け――条件の二つは、あの時すでに揃っていた」




「……」




「魅了はね、相手の心を奪う術ではないの。相手の最も大切なものの記憶に、霧をかける術よ」




イザベルは息を呑んだ。




「……霧……?」




「完全に消すわけじゃない。完全に消してしまうと、人は壊れてしまうもの。霧をかけて、代わりに“別の存在”をそこに置くの」




「……それって……」




「ある種の錯覚よ。“この人が一番大切だ”と、そう思い込ませるのよ」




モルガンは、イザベルを見つめたまま、静かに言った。




「……じゃあ……陛下と愛しあった時間は……」




モルガンは、わずかに首を傾けた。




「皇帝があなたを、“愛していると思い込んでいた時間”ね」




その言葉は、刃のように鋭かった。




「あなたが皇帝に愛されていると信じていた時間。それは――魅了が招いた結果よ」




「……そんな……。じゃあ…陛下は私のことを愛していたんじゃなくて…私が魅了を使っていただけだというの?そんなはずないわ…そんなの…デタラメよ!!」




「信じたくない?信じたくないのならこのままでいるといいわ。あなたが今の状況を受け入れられるのならね」




モルガンの声は、優しい。だがどこか棘があった。




「…まさか…そんなはず…」




「このままでいればいいわ。皇帝の心が、再び皇后へ戻っていくのを、指を咥えて見ていればいい」




イザベルの胸に、恐怖が膨れ上がる。




しばらく沈黙したあと、イザベルは意を決して言葉を発した。




「……じゃあ…どうすれば陛下は…もう一度私のことを…愛してくれるの?」




モルガンは待ってましたとばかりに、微笑んだ。




「あの日は月の光だけが、足りなかったのよ」




モルガンの声が、低く落ちる。




「あの日は、月が雲に覆われた夜だった。だから、魅了は完成しなかった。だから、皇帝は皇后のことを夢に見たり…思い出せないのに、理由もなく気になったり…そういう状態が続いた。そして、霧をかけたはずの記憶は心の奥にずっと残り、懐かしさや違和感となって彼自身を苦しめていた。そして、結局は魅了の効果が消えてしまったの」




イザベルの胸に、冷たい理解が流れ込む。




「……完成……しなかった……?」




「ええ」




「……完成したら、どうなるの?」




涙ぐむイザベルに、モルガンはまるで講義をするように続ける。




「“完成”といっても、前回の魅了と変わらないわ。相手の最も大切なものの記憶に霧をかけて、代わりに“別の存在”をそこに置くだけ。でも一つだけ、確かなことがあるわ」




モルガンは不気味に微笑みながら続けた。




「完成した魅了は、皇帝が“誰を最優先にするか”を決定づける」




イザベルの指先が、腹部を無意識に撫でた。




「そうやって魅了が完成すればーー皇帝の心が、完全にあなたのものになるでしょうね。守るのも、迷うのも、無意識に手を伸ばす先が皇后ではなくーーあなたになる」




イザベルの胸が、どくんと強く打った。




「……それは、愛と何が違うの?」




「違わないわ。本人にとってはね」




イザベルは唇を噛みしめた。




「いい?イザベル。今度こそ、皇帝をあなたのものにするのよ」




(……皇后は、何もかも持っている……。私は……陛下の愛を失えばもう何も残らない……このまま何もせずにいたら、子供も奪われてしまうわ)




イザベルの瞳に、恐怖と決意の炎が揺れた。




(失いたくない……。この子を……陛下を……絶対に……)




彼女は小さく頷いた。


モルガンの唇が満足げに歪む。




「そうよ。それでいいのよ、イザベル」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る