第21話 021

ーー同じ時、夜の庭園。




ルシェルは使節団の応対に追われ、しばらく足が遠のいていた庭園を1人で訪れていた。




(ここにくるのは久しぶりね…。あの蝶は来るかしら?)




ルシェルは、ライラックの花の前で足を止め、”彼”のことを思った。




(ゼノン様は今何をしているかしら…)




「ここに来るなら、どうして誘ってくださらなかったのですか?」




背後からかかった声に、思考が一瞬止まる。




「…ゼノン様」




ルシェルは、自分の心の声が届いてしまったのかと一瞬驚き、心の内を見透かされたような気がして戸惑いを隠せなかった。




「ここでお会いするのは、何だか久しぶりですね」




「…ええ、そうですね。ゼノン様はなぜこちらに?」




「何だか、ルシェル様に呼ばれている気がして……」




ゼノンはルシェルの目をじっと見つめ、いつものように優しく微笑んだ。




ふいに空気が少しだけ張り詰めた。


ルシェルは視線を外し、少し声の調子を変える。




「先日の宴ですが…ゼノン様は、注目の的でしたね」




「いえ、そんなことは…」




「ゼノン様に初めてお会いした時…あの謁見の間で…ゼノン様が私を見て微笑んだでしょう?それで、てっきりゼノン様の噂は本当なのだと思っていたのです…」




「えっと…噂…ですか?」




「ええ…、遊び人だとか何とか…」




ルシェルは少し言葉に詰まりながら告げた。




その言葉に、ゼノンはハハッと少し笑って、静かに目を細めた。




「あぁ、その噂ですね。なるほど、そうでしたか…まぁ、仕方のないことです。人は噂話が好きなものですからね」




少し寂しげに笑うゼノンのその顔を、ルシェルはまっすぐに見つめ返した。


すると、彼はふと目を伏せ、少しだけ口元を引き結ぶ。




「ですが、今は信じていませんよ。貴方は誠実な方だと思います」




ルシェルはゼノンに微笑んだ。




その時、銀色の蝶がひとひら、彼女の肩へ舞い降りた。




「…」




ふたりの間に、柔らかな沈黙が落ちる。


蝶の羽がふわりと揺れ、光を反射する姿がとても美しい。




「この蝶…いつも、私に会いに来てくれるのです。この子が来ると、不思議と心が落ち着いて…それに、この子に会った日は、とてもよく眠れるんです」




「…そうなのですね」




ゼノンは微笑んだ。




(言えない――まだ)




「その蝶は、きっとあなたの味方なのですよ」




「…まるで、ゼノン様みたいですね」




ルシェルがふと口にしたその言葉に、ゼノンは驚いたように目を瞬き、すぐに、少しだけ照れくさそうに笑った。




「それは…誉め言葉と受け取ってよろしいでしょうか」




「…ええ、もちろん」




再び会話が途切れ、沈黙が落ちる。




「あの…ゼノン様?つかぬことをお聞きしても?」




「はい、なんでしょう?」




ゼノンは優しく微笑み、ルシェルの目を見つめる。




「アンダルシアは精霊の国…ゼノン様はアンダルシアの王族ということは、やはり精霊と契約されているのでしょうか?」




ゼノンは不意を突かれ、目を見開く。




「えっと…はい、そうですね…」




(聞いてはいけないことだったのかしら?)




「ゼノン様はどんな精霊と契約をしているのですか?ここに精霊を呼ぶことはできるのでしょうか?」




「ここに精霊を呼ぶことはできないのです…それから…その…、自分の精霊を人に明かすこともできないのです…申し訳ありません…」




ゼノンは申し訳なさそうに答える。




(嘘をついて申し訳ないけど、今はまだルシェル様には言えないーー)




「そうですか…残念ですが、仕方ないですね。私の方こそ不躾に申し訳ありませんでした」




「いえいえ…ところで、どうして急に気になったのですか?」




「ええ、実は、先日の宴で聖月国のセリス・ユルファ様から精霊について少しお話を聞いたものですから…」




「なるほど、それで…。ちなみに、彼とはどんなお話をされたのでしょう?」




「そうですね…確か、『精霊は人の心にとても敏感で、時として、魂のつながりすら感じさせることがある。出会いは偶然のようでいて、必然を孕んでいる。時折感じる奇妙な懐かしさや、説明のつかぬ引力も、もしかすると”精霊の導き”なのかもしれない』といった内容でした」




「…」




(セリス…話しすぎではないか…)




ゼノンは少し困った表情をして、ルシェルに悟られぬように話を続けた。




「そうですね。彼の話は正しいです。精霊は私たちの魂とともにありますから」




「…魂…ですか。とても強い結びつきなのですね。では、この蝶ももしかして精霊だったりするのでしょうか?」




「この蝶ですか…?どうしてそう思われたのです?」




「先ほどもお話ししましたが、この子といると不思議と心が落ち着いて…会った日にはとてもよく眠れるんです。それに、この子が現れるようになったのは…ちょうどノアが記憶をなくして、私が孤独を感じるようになってからでした。そして、この子が現れるようになってすぐの頃にあなたと出会いました…。それで…もしかするとセリス様の言うように、これは”精霊の導き”なのではないか…と思うようになったのです」




ルシェルは少し恥ずかしそうに話した。




「…」




ゼノンは話を聞きながら、下を向いて返答を考えていた。




(これは…言ったほうがいいのか…?いや、だが…)




「…ゼノン様?どうされました?」




ルシェルが心配そうに顔を覗き込む。




「いえ…なんでもないです!…そうですね…確かにこの蝶は精霊です。ですが、契約者がいるはずなのであまり詮索されないほうが良いかと思います。皆、自分の契約精霊を知られることを嫌がりますので…」




(ルシェル様、ごめんなさい…まだ言えないのです…)




「そうでしたか…やはり精霊だったのですね…。それが分かっただけでも嬉しいです。ありがとうございます」




(ゼノン様の契約している精霊も気になるし、あの蝶の契約者にもぜひ会いたかったのだけれど…仕方ないわね)




「ですが不思議ですね…アンダルシアの使節団のどなたかの精霊だとしても、皆さんがこの国にきたのは光華祭の時なのに…その前からこの子は私のt頃に来ていましたから…」




「契約していると言っても決して束縛関係にあるわけではないのですよ。精霊は孤高で自由な存在なのです」




「そうなのですね。とても不思議です。アンダルシアは精霊がたくさんいるようで羨ましいです」




二人の会話に反応するかのように、銀色の蝶が二人の上空をひらひらと舞っている。


二人は顔を見合わせて微笑んだ。






***




ふたりの様子を、物陰からじっと見つめる瞳があった。ノアである。


夜気をまとった静寂の中、ノアはただ黙って佇んでいた。




ふたりの姿が、月下の花々の間に浮かぶように見える。




(なぜ、俺はここに来たのだろう)




自らの足が、この場所へ向かった理由は曖昧だった。




イザベルの部屋を出てなお、心のどこかが落ち着かず、気がつけばこの庭園に来ていた。


そして今、目の前の光景に喉の奥がジリジリと焼けるようだった。




王子の声は聞こえない。


けれど、その表情ははっきりと見えた。


皇后を見つめるあの目の奥に、誰にも踏み込ませぬ熱がある。




(なぜあんな目で皇后を見ているんだ?)




胸の奥で、鈍く重い音がした。


苛立ちでも嫉妬でもない、もっと深く、言葉にならない感情。




ーー皇后が、笑った。小さな、けれど確かな微笑み。


長らく見なかったその表情に、ノアの心臓がわずかに脈を乱す。




(俺には見せない表情だ…。だが、俺は…俺は…“知っている”?)




脳裏に、ひとしずくの記憶が滴り落ちた。






白い庭に、雪が舞っていた。


同じように彼女は、誰かの名を呼び、笑っていた――太陽のような笑顔で。




(…違う、誰かじゃない。あれは…)




頭を抱えるように、ノアは無意識に額へ手をやった。


突然激しい頭痛に襲われる。




(なぜだ……なぜ、思い出せない……)




目の前で、王子が皇后の手にそっと触れた。


その瞬間、ノアの視界がわずかに揺れる。




(――やめろ!!)




喉元までせり上がった声を、彼はぎりぎりの理性で呑み込んだ。




影の中に身を潜めたまま、拳を固く握る。


怒りではない。疑念でも、単なる独占欲でもない。


失った何かが、確かにそこにあった。




風が吹き、ライラックの花が揺れている。


そして、彼の背を銀色の蝶がひとつ、すっと通り抜けていった。




振り返ると、その蝶はふわりと浮かび、皇后のもとへと舞い戻ってゆく。




「ルシェル…」




口の中でその名を呟いた瞬間、胸に走った激しい痛み。


まるで、心臓の奥に眠る何かが、殻を破って蠢き始めたようだった。




彼女との記憶を思い出したわけではない。


だが、ただ一つ、はっきりしていた。




“彼女は、俺にとってただの皇后ではない”


“あの男に、触れさせたくない”




その衝動だけが、確かに彼の中にあった。


ノアはひとつ息を吐き、静かにその場を離れた。




まだ思い出せぬ名もない記憶を、必死にたぐり寄せながら。

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