第18話 018

使節団の歓迎の宴も無事終わり、ルシェルは一息ついていた。




(あとは1週間後の光華祭に向けて最終調整と、使節団のもてなし、それから…)




皇后として、やるべきことは山積みだ。




(昨夜のことを思い返している暇は、ないはずなのに)




けれど――気づけば、記憶の底に浮かび上がるのは、ゼノンの眼差しだった。




(……困ったものね。心は、思うようにならない)




ルシェルは机の上の書類に視線を落とす。


けれど文字の意味は、どうにも頭に入ってこなかった。




そこへ、エミリアが声をかけてきた。




「皇后陛下、アンダルシアの王子殿下より、朝のご挨拶にお見えとのことでございます」




「…ゼノン様が?この時間に?」




(なんだか、ゼノン様が庭園散策に初めて誘いにきた日を思い出すわね)




ルシェルは少し戸惑いながらも、頷いた。




「お通してちょうだい」




「かしこまりました」




ゼノンが現れると、部屋の空気がひときわ澄んだように感じられる。


銀色の衣の上に淡い藍の外套を羽織り、まるで風そのもののような佇まい。




「ご機嫌いかがですか、ルシェル様」




「…ええ。ゼノン様、こんな朝早くにどうなさったのですか?」




ゼノンは「早くに申し訳ありません」と軽く微笑み、持っていた小さな箱を取り出した。




それは薄い漆黒の木箱に、アンダルシア特有の銀の細工が施されたとても美しいものだった。




「これを、ルシェル様にお渡ししたくて、気が急いてしまいました。……些細な贈り物です。以前いただいた贈り物のお礼と言ってはなんですが……どうか受け取ってください」




ルシェルが箱を開けると、そこには蝶の翅を模した繊細な髪飾りが入っていた。


銀糸で織られたそれは、夜の光にも負けない微かな輝きを放っている。




「…これは」




「アンダルシアで“暁蝶”と呼ばれる意匠です。“夜の終わりに飛び立つ蝶は、誰よりも先に新しい朝を知る”――そんな意味が込められています」




「…とても美しいですね」




ルシェルは、翅の繊細な光を見つめながら呟いた。




「貴方によく似合うと思ったのです。ルシェル様の美しい髪に、ぴったりだと…」




ゼノンの瞳には、飾り気のない光が宿っていた。


それは時に、ノアですら見せたことのない、揺るぎない誠実さを纏っていた。




「……ありがとうございます。……ですがこれは……とても受け取れません」




ルシェルはそう告げて、蝶の髪飾りをそっと箱に戻した。


触れるのが惜しいほど繊細で、美しいその意匠は、まるでゼノンの想いそのもののようだった。




「……身につけてくれなくていいのです。ただ、これをみて私を思い出していただけたらと……ルシェル様の心の支えになればと……なので、どうかもっていてください。お願いです」




何も言えなかった。




ゼノンは、その沈黙を責めることもなく、ただ柔らかく微笑んだ。




(彼の優しさには本当に容赦がない。ここまでしてくれる彼に、私は一体何を返せるのだろう…)




「……では、そろそろ失礼します。どうか、今日も良き一日となりますように」




「……本当に、素敵な贈り物をありがとうございました。ゼノン様も、良き一日をお過ごしくださいね」




軽く頭を下げ、ゼノンは静かに部屋を後にした。


その背中が見えなくなるまで、ルシェルは立ち上がれなかった。




机の上の小箱が再び目に入る。




ヴェルディアでは明確な意味を持たないその意味も、他国から来た使節たちの目には、“個人的な誓い”として映るだろう。特に、アンダルシアや璃州の貴族たちは、装飾の意味を敏感に読み取る。




ルシェルもこの贈り物の意味を知らないわけではない。




アンダルシアで蝶の髪飾りを渡すというのは――“心を捧げる”意志の表れ。


とりわけ、“暁蝶”は、契りに近い意味を持つと言われている。




(ゼノン様はどうしてこれを私に……)




ルシェルは戸惑っていた。




ヴェルディアでは貴族同士の結婚と違い、皇族の結婚は皇帝が絶他的な立場の契約だ。


皇帝は皇后である妻の他に側室を迎えられても、皇后である妻が他の男性を迎えることは許されないし、離婚の申し出も皇帝の方からしか許されていない。




昔は、ノアとの離婚なんて考えたこともないし、自分たちの間ではあり得ない話だと思っていた。


それに、離婚は何よりも不幸なことだと思っていた。


だが、今の自分には離婚することが最善であるような気さえしている。




(こんなことを考えていると…4年前の私が知ったら…信じられないでしょうね)




***




一方その頃、別の一室では、イザベルが静かに紅茶を口にしていた。




「…蝶の髪飾り、ですって?」




イザベルのそばには、密偵として密かに使っている使用人がいた。


その使用人がイザベルに耳打ちする。




「はい。今朝方、アンダルシアの王子殿下より、皇后陛下へ献上されたそうです。珍しい銀細工で、蝶を模したものだとか」




「ふうん…蝶、ね」




イザベルはカップを置き、窓の外へ目をやる。


外では、光華祭に向けた装飾が始まり、宮廷全体が華やぎの気配に包まれ始めていた。




「それは何か特別な意味があるものなの?」




「はい。確か、アンダルシアでは蝶の髪飾りを渡すというのは“心を捧げる”という意志の表れなのだそうです」




「ふ~ん。使節団の中に、そうした贈り物の“意味”を知る者がどれだけいるかしら…」




イザベルは何か企むように微笑んだ。




***




ゼノンがルシェルの私室を後にし、回廊を静かに歩いていたとき、その背後から柔らかな足音が追いついてきた。




「…殿下、お戻りでしたか。随分と早くから、皇后陛下の部屋に行かれたのですね…」




振り返れば、筆頭補佐官であるレイセルが、いつもの落ち着いた様子でそこに立っていた。


レイセルは、ゼノンが幼い頃から彼に支えている、忠誠心と慎重さを持ち合わせた青年だ。




「レイセルか。なんだ、そんな不機嫌そうな顔をして…何かあったのか?」




「いいえ。むしろ、“何かありましたか?”とお尋ねしたいのは私の方です」




ゼノンはふっと笑う。




「ただ、贈り物を渡してきただけだ」




「“蝶の髪飾り”ですね」




ゼノンの足が一瞬止まる。




「なんだ。やはり、知っていたのか」




「いつから貴方に支えているとお思いですか」




レイセルはゼノンの隣に並ぶと、真剣な目で彼を見つめた。




「…お言葉ですが殿下、あの髪飾りをヴェルディアの皇后に渡すのは、単なる贈り物では済まされません。蝶の髪飾りを渡すというのは――“心を捧げる”意志の表れ。とりわけ、“暁蝶”は、契りに近い意味を持つのですよ?お分かりですか?」




「もちろん、わかっている」




「ならば、なぜ…」




その問いに、ゼノンはしばし沈黙した。


そして、低く、しかし確かな声音で答えた。




「以前、庭園で彼女が言ってくれたんだ…私に『惹かれている』と。だから、私も想いを伝えた。だが、それでもやはり彼女の心には皇帝がいる。ならば、せめて彼女に私の想いの誠実さだけはわかっていて欲しいと思ってな」




レイセルは目を伏せ、静かにため息をついた。




「…殿下。わかっておられるとは思いますが、これは“アンダルシアの王子”としての行動として見られます。いくら公にはされていなくとも、他国の皇后を――それも、いまだ現皇帝の正妻である方に想いを向けることは…」




「間違っている、と?」




「いえ…。ただ、貴方様のお気持ちは、国の問題にまで発展しかねません。今後の使節団の関係においても、国交問題の火種になりかねないのですよ?」




「それに…」




レイセルが急に口籠る。


そして、意を結したようにそっと口を開いた。




「彼女が、たとえ殿下をお選びになったとしても…彼女は、自らの意志で“皇后の地位”を捨てることはできません……殿下を、選ぶことなどできないのですよ?」




ゼノンは足を止めた。




「知っている。ヴェルディアでは、皇后から離縁を申し出ることは許されていない。皇帝が望まなければ離婚はできない」




「そうです。形式上は皇后であっても、その実、この国の制度の中では“所有物”とさえ見なされかねない」




「…酷い話だな。本当に馬鹿馬鹿しい」




「だからこそ、殿下。あの贈り物は、彼女にとってはあまりにも残酷です。選ぶことは許されないのに、選択肢を与えられているのですから…」




ゼノンは静かに目を伏せた。




「もし彼女が私を選んでくれるのであれば、それは願ってもないことだな……。それに、私には彼女を今のままにしておくことの方がよほど残酷に思える」




ゼノンは少し挑発気味に言う。




「…殿下」




「それに、離婚する方法なら他にあるだろう?お前も知っているはずだが?」




「……」




「今はどうすることもできない。けれど…今はただ彼女の傍に在りたい。そして、いつか……」




そう言ってゼノンは歩き出す。その背に、レイセルは小さく頭を下げた。




「…もうよくわかりました。殿下のお心のままに。私は変わらず貴方を傍で支えましょう」




ゼノンは微かに振り返り、笑んだ。




「ありがとう、レイセル。頼りにしているぞ」

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