第14話 014
宮殿の空気は普段とは異なる緊張感と華やぎに満ちていた。
それも当然のことだった。
ヴェルディア帝国が年に一度盛大に催す
この祭りは、春の訪れと五穀豊穣を祝う国を挙げての大行事であり、長き伝統を誇る。
特に今年は、初めて近隣諸国からの使節団が多数訪れることとなり、宮廷はその準備に余念がなかった。
そのため、広場には色とりどりの提灯が灯され、舞踏や武闘大会に至るまで、さまざまな催しが夜まで繰り広げられる。
精霊の国、南方のアンダルシア王国ーー
精霊との深き契約を重んじるアンダルシアは、今や聖地として多くの精霊士を抱える国でもあり、王子であるゼノンが自ら使節の筆頭を務めるという。
アンダルシアと宗教的に深く繋がりを持つ、東方の
中央の山岳地帯に築かれた厳粛な宗教国家で、精霊信仰における司祭階級が厚い影響力を持つ。
軍事に長けた、北方のグレヴァル王国ーー
寒冷な気候に鍛えられた兵士たちと、質実剛健な文化で知られる。使節と称しながら、実際には武の威を示す狙いもあると見られており、宴や競技の場での対面が予想される。
貿易都市国家、西方の
絢爛な中華風衣装と雅楽を携え、香料・織物・宝飾といった高級品を豊富に持ち込むその使節団は、外交よりも交易に重きを置いているとされ、祭りの華やぎを一層彩る存在である。
それぞれの国が、それぞれの思惑とともに――この春、ヴェルディア帝国の地に集うのだった。
***
皇帝ノアの執務室には窓から柔らかな陽が差していた。が、室内の空気は冷たく張り詰めている。
ルシェルが静かに入室すると、ノアはちらりと視線を上げただけで、すぐに視線を文書へと戻した。
「座ってくれ」
命じるような声色だったが、かつてのような苛立ちはない。
だが、どこかよそよそしさが抜けないのは、あの事故以来ずっとこうだ。
ルシェルは控えめに腰を下ろす。
「イザベルの侍女の件、感謝する。イザベルも気に入ったようだ」
「……いえ、これも皇后としての勤めですので」
「そなたはいつもそんな顔ばかりしているのだな」
ノアがルシェルを怪訝そうに見ている。
「……どういう意味でしょうか?」
「……いや、なんでもない」
(いきなりなんなのかしら…)
ルシェルが訳がわからないという顔をしていると、ノアが話を続けた。
「それはそうと、まもなく光華祭だ。祭礼そのものよりも、今年は使節団の迎え入れが主となる。そなたに、各国の応接を一任したい」
「ええ、承りました」
即答するルシェルに、ノアは一枚の紙を手渡した。
「来訪するのは、アンダルシアを含めた四国だ。アンダルシア王国、聖月国、グレヴァル王国、そして璃州国だ。それぞれ国の性質が異なる。軽々しく扱えば、争いの火種になる。それぞれの国に気を配らなくてはならない」
「はい、承知しております」
「……では、抜かりはないように頼む。……アンダルシアの王子も戻ってくるようだな」
「…はい。そのようですね」
ルシェルは冷静に答えた。
「なんだ、知っていたのか。密通でもしているようだな」
ノアは挑発するように言い放った。
「密通だなんて、ただ報告のお手紙をいただいただけですよ」
「…」
(ノアは何を怒っているの?)
しばしの沈黙の後、ノアが話し始めた。
「…グレヴァル王国の使節団は、兵を侮る者と見られぬよう、迎える側の態度にも注意を払え」
「はい。武人としての敬意をもって接するよう、宮中でも言いつけておきます」
「璃州国に関しては……祭礼よりも贈答品目と取引の場の確保だ。官商との折衝に、そなたの父に願い出てはどうだ?」
その言葉に、ルシェルは少しだけ唇を引き結んだ。
父――アストレア公爵家の名を、こうした場で引き合いに出されるたびに、彼女は皇后である自分と、“政略の駒”である自分の境界を思い知らされる。
けれど、頷いた。
「必要であればそういたします」
「……あぁ、任せたぞ」
ノアはそれきり口を閉じた。ルシェルもまた、言葉を控える。
沈黙の間に、窓の外から鳥の声が微かに響いてくる。
それはまるで、ルシェルだけをを置き去りにして、季節が静かに巡っていることを告げるようだった。
ーー執務室を辞したルシェルは、書状を胸に抱えたまま、廊下を静かに歩いた。
頭では理解している。皇后として、なすべきことは明確だった。
ノアの寵愛をなくしたルシェルにとって、この国の”皇后”としての責務だけが、彼女の存在を証明する唯一のことなのだ。
父にとっても、ノアにとっても、自分は”皇后”以外の何者でもないのだと思うと、切なくなった。
***
ーー4年前の光華祭。
それは、彼女が“皇后”として初めて正式に宮廷に姿を現した祭でもあった。
あの日のノアは、いつも以上に凛々しかった。
「この色は、君によく似合う」
淡い碧のドレスを纏った彼女を見て、ノアは少しだけ照れたように言ったのだ。
「ありがとうございます。でも、少し派手すぎるかと思っておりました」
「いや。君の美しい銀髪とその瞳の色がよく映える」
ルシェルは顔を赤らめて、ノアを見つめ返した。
「今日は、ただ私の隣にいればいい。皇后として、民の前に立つのは初めてだろう。手を握っていてやろう」
彼はいつも、人の心の奥を先に読む人だった。
私の手を握る大きくて力強い、彼の手が大好きだった。
けれどその手は、もうこの手を握りしめてくれることはない。
それでも、あのときの春の光は、今もどこか胸の奥に、色褪せずに残っている。
(どうして思い出してしまったのかしら……)
心のどこかで、そう呟く。
過去を振り返ることなど、もう意味のないことだと知っている。
けれど、たった一日の思い出が、その後のすべてを支えることがあるのだ。
表情を整えながら、胸の奥にしまい込んだ記憶の断片にそっと蓋をする。
いま必要なのは、皇后としての威厳と、これから訪れる異国の賓客を迎えるための冷静さだけ。
そう自分に言い聞かせた。
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