第12話 012
夜風が、庭園の草木の葉先を揺らし、月光は柔らかく花々を照らす。
ルシェルはその中で静かに立ち尽くし、深く息を吐いた。
「はぁ…」
背後から静かに歩み寄る影があった。ゼノンだった。
「ここにいらっしゃると思いました」
銀髪が月明かりに淡く輝き、青く美しいその瞳はどこか遠くを見つめているようだった。
「……なぜ、急に国に戻られるのですか?」
ルシェルはほんの一瞬の勇気を振り絞って問いかける。
ゼノンは彼女をじっと見つめ、やがて視線を夜空に滑らせた。
「父の容態が思わしくないのです。兆候は以前からありましたが、先日の書簡で状況が悪化したと知らされました。このことはどうかご内密にお願いします」
「……そう、ですか。それは心配ですね。ええ、もちろんです。」
「父も歳ですので。ひとまず帰国して、またこちらに戻るつもりです。臣下たちも私の長期の不在に不安を抱いているようで…」
ルシェルは安堵の表情をわずかに見せる。しかし心の奥には、不安の影が潜んでいた。
ゼノンがいなくなる日々を思うと、胸が空虚に感じられてならなかった。
「そうですか…」
ゼノンは微笑んだ。
「ええ……とはいえ、ルシェル様のお顔をしばらく見られないのは…寂しいです」
「冗談がお上手ですね」
「私は冗談など言いませんよ。前にも言ったではないですか」
ゼノンの真剣な表情にルシェルは微笑みを返しつつも、胸の奥が締め付けられるのを感じていた。
(あと一歩手を伸ばせば触れられる気がする…けれど触れてはならない。彼女は今、あの皇帝を愛しているのだから)
ゼノンはこの距離がもどかしかった。
風が吹いた。
銀色の蝶がふわりと舞い上がり、ふたりの間を通り抜けて夜空に溶けていく。
ルシェルはその光景を見上げ、小さく息を吐いた。
(また来てくれたのね)
蝶は相変わらずルシェルの側を守るように舞っている。
「ゼノン様……」
「はい?」
「私、あなたにとても感謝しています。あの夜、私の話相手になってくださって……私の心に寄り添ってくださって……本当に感謝しているのですよ」
「いえ、私はただ……あなたのそばにいたかっただけですから。私の為でもあったのですよ」
彼女は心の奥にしまい込んだ何かを少しだけ緩めた。
「私……」
言葉は途切れたが、微笑みを浮かべた。きっと、それで十分だった。
庭園の片隅で、ふたりは言葉なく同じ空を見上げていた。
「また戻ってきたら、庭園散策に付き合ってくださいますか?」
ゼノンが問いかける。
「ええ、もちろんです。お待ちしていますね」
ルシェルは微笑んだ。
***
数日後、ゼノンが故国へと旅立ち、ルシェルは以前と同じ日々に戻った。
ヴェルディア宮廷は、表面こそ穏やかに見えても、裏には複雑な感情と駆け引きが渦巻いている。
ルシェルはゼノンが発ってから、寂しさを感じていた。
そして、ゼノンと過ごした短い時間の余韻が、彼女の中でじわじわと広がっていた。
ノアとは10年も共に過ごしてきた。ゼノンと過ごしたのはたったのひと月。
ただそれだけなのに…相手を意識するのに、時間の長さなど無意味なのだと思い知る。
庭園に行くと、間も無く開花の時期を迎えるライラックの花の香りが立ち込め、それはゼノンを思い起こさせた。
そばにいるわけではないのに、彼がそばにいるような気がする。
そういう時、人は不思議な感覚に陥る。
そして相手を恋しがるというのは、きっと心だけでなく身体そのものが変わっていくことなのだろう。
***
「今日は少し顔色がいいな」
そう言って入ってきたノアの声に、イザベルは自然と微笑んだ。
彼の目が自分の姿を確かに映していることが、彼女に優越感を与えた。
「ありがとうございます、陛下。つわりがだいぶ落ち着いてきたんです」
柔らかな腹に添えた手に、彼も視線を落とした。
まだ大きくはないけれど、確かな命の気配がそこにある。
ノアは、少し目を細める。
「……その子が無事に生まれるよう、すべて整えていくから安心しろ。お前は何も心配せず、お腹の子のことだけを考えていればいい」
「ええ、陛下」
イザベルは、ノアの肩にそっと頭を乗せて幸せそうに微笑んだ。
やがて、ノアが本題を切り出した。
「お前の侍女についてだが…」
「はい?」
「侍女の任命を、皇后に一任した。皇后は侍女を取りまとめる役目があるからな」
イザベルは一瞬、驚いたようにまばたきをしたが、すぐに静かに頷いた。
「……そうですか。皇后陛下が選ばれるのなら、それほど心強いことはありませんね」
ノアはその答えに安堵を見せる。
「あぁ。不安に思う必要はない。皇后はきっと良い侍女を見つけてくれるだろう」
「はい…」
ノアは、イザベルの手にそっと手を重ねた。
「無理はするな。……何かあれば、すぐに言ってくれ」
「ええ。……でも、今は陛下といられるこの時間が幸せです」
視線を合わせた瞬間、互いの間にあった空気が、わずかにやわらぐ。
***
春風がやわらかく吹き込む朝。ルシェルは皇后の執務室で、薄紅の茶を口にしていた。
香りは仄かに甘く、どこか懐かしさを運んでくる。
ゼノンが帰国してから、すでにひと月が経とうとしていた。
「皇后陛下、こちらがイザベル様の侍女候補の推薦名簿でございます」
侍女のエミリアがそっと名簿を手渡す。
「ありがとう、エミリア。……いつも手際が良くて助かるわ」
「いえ、お役に立てて光栄です」
ルシェルは微笑を浮かべ、推薦名簿の束に目を落とした。
イザベルのための侍女任命はノアから直接任された仕事だった。
だが、それはあくまで公務。ルシェルにとって、個人的な感情を挟むものではなかった。
「この中で…あなたが適任だと思う者は?」
「はい。ユリアナと言いまして、彼女は元は薬師の家に生まれ、言葉少なく誠実な性格だと伺っております。気配りもでき、イザベル様の体調管理にも向いているかと」
「なるほど。妊婦の侍女として適任ね」
ページをめくる指先は、ひとつひとつを丁寧にすくい上げていた。
その姿を見守るエミリアの眼差しは、どこか娘を思う母のようだった。
「……アンダルシアの王子殿下のことで、何かお心を乱されてはいませんか?」
ふいに問われ、ルシェルの手が止まった。視線をそっと窓辺に逸らす。
「……どうして、そう思ったの?」
「最近、あの庭園に佇まれる日が増えたように見えましたので……」
ルシェルは静かに茶を一口飲んだ。
「彼は…ただの友人よ。けれど、気を許して話せる相手だった。そういう人はなかなかいないから……少し…ね」
エミリアは、それ以上追及しなかった。沈黙のなかで、茶の香りだけが静かに漂った。
ーー午後。
ルシェルは久方ぶりに、友人であるイリアを部屋に招いた。
「ルシェル様、顔色が戻りましたわね。少し前までは、まるで死人のようだったもの」
「それは……あなたの目が厳しすぎるのよ」
「ふふ、そうでしょうか?でも今は皇帝陛下が事故に遭われた時から比べたら、本当に良くなったと思いますよ。表情も柔らかくなった気がします。アンダルシアの王子殿下のおかげかしら」
イリアが少し揶揄うように言う。
「イリア」
ピシャリと遮る声に、イリアは肩をすくめた。
ルシェルは視線を落とし、膝の上で両手を組んだ。
「……正直、私も今自分が何を考えているのかよくわからないのよ」
「いいのですよ」
イリアの声は柔らかく、それでいて芯があった。
「あなたはこの国の皇后である前に、一人の人間なのですから」
ルシェルは小さく笑った。
「私達の仲ではないですか。何かあればすぐに行ってくださいね?私は皇后陛下の親友なのですから」
「ええ、ありがとうイリア」
***
数日後、ルシェルは再び推薦名簿の束に向かっていた。
実は、ノアにイザベルの侍女選定を任されてすぐに、信頼のおける貴族令嬢を見繕って声をかけてみたのだが、皆平民の侍女にはなりたくないと怪訝そうに言うのだ。
それは、皇后を裏切らないという意味でもあったのかもしれないが、でなくとも貴族とはプライドが高いものだから仕方がない。
そのため、推薦名簿の中からユリアナのように平民でありながらも、侍女に相応しい教養を備えた者を探していたのだ。
(なかなか適任者がいないわね…)
ルシェルが頭を抱えていると、エミリアがそっと声をかける。
「皇后陛下、侍女候補のユリアナと5日後に面会の手筈が整いました」
「そう……では、静かな部屋で会いたいわ。それからここに書いた者たちにも面会の手筈を整えてもらえるかしら?」
「かしこまりました」
エミリアが退出した後、ルシェルはそっと立ち上がり、庭園へと向かった。
夜風が頬を撫で、ライラックの香がまだほのかに残っている。
ゼノンは今ここにはいないけれど、ついゼノンのことを考えてしまう。
そして、ゼノンがどこかにいるような気がして、毎夜ここにじっと佇んでしまう。
その心の揺らぎに、自ら眉をひそめた。
「……私は何をしているのかしら」
そう呟く声は、月光に消えていった。
ゼノンが去った後も”銀色の蝶”はルシェルの元に来てくれた。
これまでは、この蝶が来てくれるだけで心が救われる気がしていたのに、ゼノンを知ってしまった今では彼の面影ばかりを探してしまう。
「こんなんじゃ、ノアのこと責められないわ……」
ルシェルはクスッと笑うと、庭園を後にした。
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