ACT14 ハイエナの住処2

 翌朝、真新しいグレーの制服に身を包み、教科書や筆記用具を詰めた鞄を提げて蓮と海は施設の地下駐車場入口に揃って下りていた。小さくあくびする蓮をくすりと微笑って眺め、濃紺と臙脂二色ストライプのネクタイの歪みを整えてやる。

「通常の転校ではなく、先日の台風による被害による被災地からの臨時転入。元々の出身地は東京という設定にしているから、言葉についてはそのままで良い……」

「設定は頭に入った?」

「ん。これっていつもの架空の制服じゃなくて、これから行く私立高校指定のやつだよな。ネクタイとか布地とか、普通の?」

「いや、デザインはまんまだけど加工はしてあるからこれもいつもと同じ特殊素材だよ。並程度の刃物は通らないけど、そういう心配してる?」

「一応な」

 顔を上げてぱちりと目を合わせた蓮は、久しぶりに裸眼でない海の目をじっと見つめた。

「なに?」

「いや、久しぶりに見たなって」

「大勢の他人と会うからね。これないと、ちょっと視覚的にキツイから」

 銀縁の伊達メガネを外して、海はパチパチと瞬きする。

「じゃ、何であの時わざわざ割ったんだよ」

 海が初めて力を示した時のことを改めて突っ込むと、海は苦笑した。

「あれはまあ、デモンストレーションと言うか……蓮に危害を加えようとした連中への、俺からの心ばかりのサービスだよね」

 つまりは私怨ということか。顔面で割られた相手は、確実に傷が残っただろう。

「かけてみる?」

 当時のことを思い出していた蓮は、海から渡されたメガネを素直に受け取る。しばらく眺めた後、そっと顔に乗せてみる。当然ながら視界に特に変化はない。しかし何故か海の目が輝いた。

「蓮、結構似合うね。今度それかけてシようか?」

「何を?」

「やだな、分かってるくせに」

 にやにやしている海にうんざりしながらメガネを突き返すと、そのタイミングでエレベーターが開き運転手と保護者役の本郷由真が現れた。彼女は以前、海の母親を演じていた時のような落ち着いた女性らしい服装で、母親めいた雰囲気を醸し出していた。彼女は特調の事務方だけれど蓮たちエージェントとは日頃ほとんど接点がない部署のため、会うのは正しくあの日以来だった。

「遅くなってごめんなさい、室長との話が長引いてしまって」

「いえ、大丈夫です……えっと、晴香さん、じゃなくて……」

「由真よ。本郷由真。でも今日は晴香で構わないけれど。元気そうね、蓮くん」

 久しぶりに柔らかく名を呼ばれて、蓮は思わず泣きたいようなひどく懐かしい感覚を味わった。

「海、あなたも元気だった?」

 由真は蓮の隣に佇む海にも笑みを向けたが、海は彼女を一瞥もせず駐車場へのドアを開けた。

「見ての通りですよ。海、なんて帰任してからは水沼呼びのくせに、わざとらしいったら。こんなとこからわざわざ親子ごっこする必要ないと思いますけど、本郷さん?」

 仮にも親子として、それも母子家庭という設定で二人で暮らしていたにしては、随分険のある物言いだと蓮は驚いた。

「そうね……ごめんなさい」

 申し訳なさそうに両手を握る由真に同情心が沸き起こり、つい蓮は口を挟んだ。

「海、おまえ何もそんな言い方……」

「さて、行こうか蓮」

 蓮の言葉を笑顔で遮り、手を引いて海は車に誘導した。海の笑顔に秘められた明確な拒絶に、蓮はそれ以上何も言えずに従った。


***


 後部座席に海、蓮、由真の順に座って移動している間も、何となく気まずくて会話は少なかった。

 隣に住んでいた頃、二人は普通のもしくはそれ以上に仲のいい母子にしか見えなかった。自分の観察力が不足していたのか、それともこれがプロというものなのか……と、蓮は落ち込むべきか感心すべきか少し悩んだ。沈黙に耐え兼ね、疑問に思っていたことを訊ねてみる。

「あの……本郷さん?」

「何かしら?」

 多分、既に役に入り込んでいるのだろう。施設で初めて再会した時のような事務的な空気はあまり感じない。

「本郷さんて、本当は幾つ?」

「あら、女性に正面から歳を訊くなんて、蓮くんはわりと命知らずなのね?」

 笑顔から滲み出る妙な威圧感に、蓮は僅かに身を引いた。

「命かけるレベルなんだ……」

「半分は冗談よ?」

 じゃあ半分は本気なのかとぎこちなく笑うと、由真は今年で三十二歳だとそっと耳打ちした。蓮の母が四十四歳だから、一回りは年下ということになる。当時十一歳だった海の母親としての役割を始めたのが二十七歳であれば、実際の母親像としてはやはり無理があったと思うが、少なくとも蓮の視点では彼女はその役割を完璧にこなしていた。

「蓮のこと、気安く名前で呼んでほしくないんだけど」

 不意にぼそりと不機嫌な声が割り込み、反対側から回された海の腕が腰を引き寄せる。やけに刺々しい海に、さすがに呆れて窘めるように代わりに答える。

「別に名前くらい、いいだろ? 当時は実際呼んでたわけだし」

「だめ、蓮は俺だけのものだから」

 子供の駄々のような物言いに、蓮は呆れた。

「本当すみません、本郷さん」

「何で蓮が謝るのさ」

「いいのよ、柴田くん。そもそも私が悪いの、だから気にしないで」

「……?」

 その言葉の意味は良く分からなかったが、由真の寂しそうな横顔がひどく印象に残った。


***


 校門の外に車を停め、三人は車を降りた。運転手役の職員に本郷が頷いて車を返し、ここからは余計な私語も素顔もなしに与えられた役割を演じることになる。車内での冷戦が嘘のように、海と由真は蓮の前を穏やかに並んで歩いた。かつて身近で見ていた二人の久しぶりの姿に、今までが長い夢だったような奇妙な錯覚に陥りそうになる。


(何か、本当に遠くまで来たな……)


 ここに美里が居れば完璧なのにと、そんな淡い希望を振り捨てて蓮は現実を噛みしめながら足を踏み出した。

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