2.元同級生
依頼人の名は
依頼内容は彼の八才になる小学三年生の一人娘、
何から彼女を守るかと言えば、それは母親からだった。
昨日、火曜の正午少し前。新規依頼の客の気配もなく、素行調査の報告も午後からの予定だった惣次は昼食に出ようとしていた。
それまでだらしなく横になっていたソファから身を起こし、億劫な気分で立ち上がると事務所の扉がノックされた。「どうぞー」といつものように声をかけるとドアはすぐに開いた。そこにいた自分に近い年齢の相手に見覚えがあることに気づくが、埋もれた記憶の掘り返しに手こずっていると、先に向こうが呼びかけてきた。
「久しぶりだな、本条寺」
「ええっと……大崎、だよな?」
そこにいたのは中学三年生の時の同級生、大崎だった。
一年間だけ同級だった彼とは特に親しくしていた訳でもなく、顔を見れば声をかけ合う程度の間柄だったが全く接点がないかといえばそうでもなく、だとしても別々の高校に進学した後は会う機会も理由も発生しなかったから、声を聞いたのも顔を見たのも約十二年ぶりだった。
「あんまり変わってないな、お前」
久々の再会を果たした元同級生は、少し笑ってそう言った。
グレーのジャケットと薄いピンクのシャツ。ラフに着崩してはいるが身に着けているものは安物ではないと分かる。そこそこの企業に勤める会社員の休日といった感じだった。
「お前は変わったよ、大崎。なんていうか、ちゃんとしてるな」
「まあな、今は
「そっか……」
近況を告げた大崎はざっと事務所内を見渡すと、こちらが勧める前に歩み入ってソファに座った。そこから再度周囲を見回す視線には明らかな品定め感が窺えていたが、それについて思うものはなかった。大手銀行に勤める彼からすればここが掃き溜めであることに変わりはない。どう取られようとここにあるものも、ここにいる自分も、見た目どおりの評価であることに変わりはなかった。
「今日は休みなのか?」
惣次は自分も腰を下ろすと元同級生に訊ねた。
平日の昼間、真面目な銀行員が平服でいる場所ではなかった。
「ああ、まあな。なぁ本条寺、煙草吸ってもいいか」
大崎は上着から煙草を取り出すと、吸い殻が山盛りになった灰皿をちらりと見て訊ねた。惣次が流し横のごみ箱に吸い殻を放り込んで再度差し出すと、彼はようやく細身のライターで火を点けた。
「今日は有休を取ったんだ。このところ続いてるちょっと込み入った事情があってな。その事情っていうのが少し厄介で、お前を訪ねた理由でもあるんだが……」
やや無遠慮に吐き出された煙を目で追いながら、惣次は無言でいた。大崎がただの世間話をしに特に親しくもなかった自分を訪ねてきたはずもなかった。
彼とは遺恨があった。もう十二年も前のことだが、思い出すと今でも心が痛くなる。理由は他でもない、自らの愚行が原因だった。
「実は俺、大学在学中に結婚したんだ。まぁそれは彼女が妊娠してしまったからなんだけど、卒業して就職すればいずれ結婚するつもりではあったし、それは想定内だったよ。最初はうまくやってた。何も問題はなかったよ。でも娘が小学生になって彼女が働き始めてから、問題が生じ始めた。彼女が家にいた頃は家中どこも整理整頓されていて完璧だったよ。帰宅すれば温かい食事がすぐに出てきて、熱々の風呂も用意されていて、そりゃあ快適だったね。だけど彼女が仕事に熱中し始めてからは家中常に荒れ放題、洗濯物は山のように溜まり、食事と言えば出来合いのものばかり……週末になっても俺と彼女の休日が合わなかったり、彼女が俺の予定に合わせなかったり……まぁ他にも色々あって、この数年で関係は急激に悪化して、去年離婚に至った訳だ……」
「……そうか、大変だったんだな」
惣次は声のトーンを落とすと大崎に言葉を返した。経験はないが、離婚がかなりの疲弊を呼ぶものであるのは独り身の自分にも想像できる。同情は求めないだろうが、僅かな共感を寄せることぐらい構わないだろうと思った。
「それで梨奈の……小学三年生になる一人娘の親権は稼ぎのいい俺の方が取ったんだが、それで今少し揉めてる。元妻が月に一度という約束を守らずに、俺のいない所で娘に何度も会おうとしてるんだ。離婚は大変だった。離婚後の取り決めを決めるのにも多くの時間を必要とした。もちろん費用もな。それなのになんだ? 元妻はその取り決めをあっさりと反故にしようとしている。それを俺はどうしても許せないんだ」
憤慨の表情を見せて、大崎は苛々と煙草を揉み消した。
「俺はもうヨリを戻す気は全くないんだが、元妻は今でも復縁を考えているらしい。それができなくても梨奈だけは自分の元に取り戻そうとしているようなんだ。最近度々梨奈の下校時刻に現れては接触を試みようとしている。だからお前には元妻が近づかないよう、娘を監視してほしいんだ。期間は明日から金曜までの三日間。難しい話じゃないだろ? 土曜には彼女と話し合いをする予定だから、それまでは娘と元妻の接触はどうしても避けたい。変な既成事実は作りたくないんだ。本条寺、この俺の頼み、聞き入れてくれるよな?」
元同級生は自らの現状を切々と語ったが、その言葉に惣次は何も返せずにいた。
今の話で概ねの事情は知れたが、できれば他人の家庭事情に踏み込んでしまうようなこんな案件は引き受けたくなかった。それに相手は知らない間柄でもなく、今後予想外のことが起きれば煩雑さは他より増す。案件の性質上、望まなくても気づかぬ間により面倒事に巻き込まれる可能性も考えられ、腰が引けていると言われようが関わるのを特に避けたい類の話だった。
「これが俺の娘だ」
答え倦ねていると、目の前に写真が差し出された。灰皿の隣に置かれたそれはどこにでもあるような家族写真だった。
母親と父親に挟まれて利発そうな少女が写っている。だがその視線は必然的に大崎の元妻だという女性に吸い寄せられていた。
「その右側にいるのが俺の元嫁。あ、別に敢えて言わなくてもいいか。お前は彼女のことを知ってるもんな、よーくね」
見入っていると頭上からはそんな声が降った。趣を変えたその声を辿って緩慢に見上げた先には、先程まではなかった視線がある。惣次はこの時ようやく彼がこの瞬間まで自らを取り繕っていたと知った。
中学三年生の夏、惣次は大崎が当時付き合っていた女の子と寝た。しかし別に彼女のことが好きだったからではなかった。夏の夜、大勢で集まって騒いでいた時に起きたよくある突発的出来事だった。なんとなくそんな感じになって、なんとなくそんなことになっただけだった。
『酷い人なんだね。本条寺君は』
けれども彼女の方はそう思っていなかった。別にどうとも思ってない。そう告げた時、彼女はとても悲しげな顔でそう言った。その後は互いに存在を消し去って残りの中学生活を過ごした。卒業後は二度と会うこともその意思もなかった。
彼女の名は
「俺はさ、もう気にしてないよ本条寺。そんなガキの頃の話なんて」
こちらの顔色を窺い見た相手が言葉を続けた。
「お前の近況はこの前友達に偶然聞いたんだ。大学を中退した後は定職にも就かずぶらぶらして、今は何か堅気じゃない仕事をしてるってね。けど勘違いしないでくれよ、俺は職業に貴賎はないよ。ただ、大変なんだろうなぁって思うよ。お前や、この事務所を見ていると」
言われながら眇めた目で見られて、扉を開けた瞬間から同じ場所に立っているとさえ思われてなかったことにも気づく。でもそれは仕方がない。ここは掃き溜めで自分もその掃き溜めにいる。それは確かだった。
「それで本条寺、俺の依頼だけど、もちろん断ったりしないよな」
黙って煙草に火を灯した惣次は目の前の男に視線を移した。男は先程とは幾分趣を変えた言葉を繰り返す。彼は最初に見た時とは違った色で笑っていた。
首を横に振る選択肢は当然なかった。
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