序章 眠れる森の魔女

第1話 はじまり、はじまり

 魔女の眠る塔。

 その周囲で魔獣が蠢いていた。

 魔獣達の咆哮は、まるでこの地を覆う呪詛のように響いている。


 しかし、魔獣達は唸るだけで、『それ』に近づこうとはしない。『それ』が恐ろしかったからだ。


『それ』は、ただの男だった。


「なんだよ、怖いのか?」


 男は可笑しそうに笑って、魔獣を見る。

 その瞳は闇夜を映すがごとく、黒く、クロく、真っ黒に陰っていた。

 彼の腰には古ぼけた剣が下がっている。けれど、それだけだ。

 男は魔法も、剣も、何の力だって使っていない。


 その男こそ、かつて聖剣を掲げ、魔王を討ち滅ぼした勇者──エイリアスだった。


 男は怯むことなく、軽やかな足取りで、その塔へと向かっていた。そうしてそのまま、迷うことなく塔の入り口へと足を踏み入れる。


 長い螺旋階段が、天へと伸びるように続いていた。

 塔の内部は冷たく、湿った空気が静かに流れている。壁には苔が這い、かつての美しさはとうに失われていた。けれど、今もなお残るマナやヴィルスの余韻が、この塔がただの廃墟ではないことを語っている。


 彼はゆっくりと階段を登る。

 ひと足、またひと足と、彼は高みへと向かう。それを望むように。

 時間の感覚が曖昧になる程の長い道のりを、たった一人で、彼は歩んでいた。


 彼は知っていた。

 この塔の最上階に、眠れる魔女がいることを。

 そして、その魔女こそ。

 かつて共に旅をした仲間であり、己の大切な少女であると。


 階を上がるごとに、次第に空気が変わっていく。


 淡い光が揺らめいていた。

 塔の中とは思えぬ程に、穏やかで、夢のように柔らかな光。

 それはまるで、月の吐息が降り注ぐようだった。

 壁に触れれば、指先に微かな温もりが宿る。

 まるで彼女の魔法の残滓が、ここで今も生きているかのように。


 やがて、彼の足が、柔らかな感触の上に落ちた。


 塔の中で、花々が咲き乱れている。

 光も届かぬはずのこの場所に、幾千の花が咲き誇っていた。

 色とりどりの花が、床を覆い尽くす程に広がっている。どの花も艶やかで、香り立つように甘やかだった。


 光を受けて瞬く花弁は、まるで魔法が織り成した幻影のようだ。

 けれど、そうではない、と彼は知っていた。


 花々は、彼女の為だけに咲き乱れている。

 これは、眠る魔女の為だけに捧げられた祈り。

 彼女を守る為に。彼女の眠りを乱さぬ為に。

 誰もが近づけぬように育まれたものだ。


 そして·····。

 彼は一歩、踏み出す。


 花弁が、足元でくしゃりと音を立てた。

 まるで儚い命が、彼の行く手を拒むかのように。


 柔らかな花弁が踏みつぶされて散りゆく度に、甘やかな香りがふわりと舞う。

 彼に行かないでと願うように。


 けれど、彼は止まらない。

 この先に、彼の探し求めたものがあるから。

 誰であっても、彼の歩みを止めることは出来ない。

 彼はただ、前へと進む。


 そして。


 最奥の部屋に辿り着いた時、世界は一時の静寂に包まれた。

 そこは、夜の静けさがそのまま結晶になったような空間だった。

 天窓から差し込む淡い月光が、揺らめく銀の波のように広がっている。


 光の海の中心に、一つの棺が静かに横たわっていた。透明な棺の周りには、白き花が静かに咲いていた。


 そしてその白い花の中。

 一人の少女が眠っていた。


 彼女の周りには、光を帯びた花がひっそりと咲いていた。満開の純白の花々が、彼女の眠りを守るように揺れている。

 まるでそれは、その身を優しく包み込む繭のようだった。


 棺の中、彼女がいる。


 ──魔女。


 彼女は漆黒のドレスをまとい、長い睫毛を伏せたまま、深い眠りに落ちている。

 黒いヴェールで隠された彼女は、花嫁のようにも、棺の中の屍人にも思えた。


 けれど、その姿は、まるで夜に咲く一輪の花のようだった。

 静謐で、幻想的で、触れれば崩れてしまいそうな程に儚い。


 花々はまるで魔女を慈しむかのように寄り添っている。彼女の眠りを見守るように。


 ·····長い時の果て、ようやく見つけた。


「ミラ」


 彼は、その名を呼ぶ。

 かつての仲間であり、大切な少女の眠りを破る為に。

 しかし、それが赦しを得ることではないと、知っていた。


 それでも。

 膝をつき、そっと彼女の手を取る。


 白雪よりも淡く、月の光よりも儚い指先。

 指をなぞると、そこに流れるはずの温もりは、まるで彼を拒むように冷たい。


「·····やっと、だ」


 掠れた声が、闇に溶けて消えた。


 彼は、そっと唇を落とす。


 まずは手の甲へ。

 それは彼女への尊敬。

まるで、永遠に閉ざされた扉に触れるかのような口付けだった。


 続けて、頬へ。

それは彼女への厚意。

 眠る彼女の白い肌は、まるで氷の彫刻のように美しかった。


 辿るように、瞼へ。

それは彼女への憧れ。

 かつての誓いを思い出すように、そっと。


 そして最後に──唇へ。


彼女への愛情を持って。


 触れた瞬間、胸の奥が軋んだ。


 それがあまりにも冷たかったから。

 それでも、彼は何度でも温もりを分け与えるように、静かに、深く口付けを重ねる。


 まるで、凍てついた時を溶かそうとするかのように。

 彼女の眠りを奪う罪を、己が背負おうとするかのように。


 その瞬間、微かな風が吹き抜けた。


 塔の天窓から降り注ぐ月光が揺らぎ、棺の周囲に咲き誇る花がそっと身震いする。

 純白の花弁がふわりと宙を舞い、まるで彼女の吐息のように彷徨った。


 この唇が、再び男の名を呼ぶ日は来るのか。

 この瞳が、もう一度男を映してくれるのか。


 指を絡め、そっと握る。

 それは今にも崩れ落ちそうなほど脆く、けれど、けして手放せない温もりだった。


 どうか、もう一度。


 彼の願いは、静寂の中に溶ける。

 闇に囚われた眠り姫へと捧げる、最初で最後の祈り。


「──目を覚ましてくれ、俺の魔女」


 囁く声は、まるで長い夜の終焉を告げる風のようだった。


 その言葉に呼応するかのように、真っ白な花が一輪、ふわりと彼女の胸の上へと落ちる。


 その瞬間だった。


 棺を包む魔法の膜が、静かに波打つ。

 まるで水面に月影が揺れるように、淡い光が優しく震えた。


 彼の指先に、微かな温もりが戻る。

 それはほんの一瞬の、触れれば消えてしまいそうな微かな変化。

 けれど、確かに──彼女は、応えようとしていた。


 彼の胸が、痛い程に高鳴る。


「ミラ·····」


 彼女を呼ぶ声は、どこか祈りにも似ていた。

 喉の奥がひりつく程に切実で。それはどこか懐かしい響きを帯びている。


 彼はもう一度、強く彼女の手を握った。


 それは、失われた時間を取り戻すように。

 けして、もう二度と離さぬ誓いを立てるように。


 氷のように冷たかった指先が、僅かに温もりを取り戻していく。

 微かな脈が、彼の指に震えるように伝わった。


 確かに、そこに、命があった。


 胸の奥が締めつけられる。

 歓喜と恐れ、安堵と焦燥が湧きあがる。


「っ、」


 この手の中の温もりが、夢幻ではないと、どうすれば確かめられるだろうか。


 まるで、世界そのものが息を潜めたかのような沈黙の中。


 ──それは、確かに響いた。



「·····イリア?」



 夢よりも儚い声が、そっと、夜の帳を震わせる。


 そうして始まるのは、勇者だった男と、魔女と呼ばれた少女の物語。


 めでたし、めでたし。

 そうやって、祝福を受けて終わることは、まだ叶わない。


 だから、もう一度、共に紡ごう。


 はじまり、はじまり、と。

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