2章
第6話/夏と動揺
暫くして盛暑が訪れた。教室や日陰に居たところで茹でられてしまう猛暑の日々に嫌気がさした忍は、屋上に続く扉の前で避暑していた。それも外よりも酷暑な教室の中でつまらない授業を聞くのが嫌になり抜け出してまで。なにせ涼むためにと窓を解放していても蒸し風呂のような湿度のある教室は、涼しくなるどころか灼熱を維持し、学生に必要な集中力がまるで上がらない。コストパフォーマンスが落ちたコンピューターは動きが鈍いように、彼もまたその調子なのだ。
「はぁ……あっつ……」
難を逃れるために避難したとはいえ、熱は大抵上に流れる。つまり、異常な激暑から逃れようと屋上前の部屋を選ぶのは大間違いとも言えた。直射日光は完全に免れる小窓では日影が多いものの、風通しは悪く熱が籠る。まだ大人数が集まる教室よりは過ごしやすいが、とても心地いいとは言えないだろう。
しかしそれでも彼は屋上を選ばなければならない理由があった。本当に涼しい校庭の日陰や、一階にいては直ぐに誰かに気づかれてしまうが、屋上付近ならばよほどのことがない限り誰にも見つかる恐れがないこと。無論、席にはいないのだから後々痛い目を見ることになるが彼にとって自身の体調の方が最優先である。
やがてチャイムが次の授業が始まることを知らせるために二度鳴り響く。当然時間を忘れるほどに休んでいる彼は、足から根が生えたように体が動かない。
――まぁいいか。もうこのまま今日全部サボろ。
忍が心で呟いた瞬間、コツコツと誰かが階段を上がってくる音が聞こえる。まさか先生が、と警戒する忍だったが。
「“寒い”……死ぬ……焼ける……溶ける……蒸発するぅ……」
――暑すぎ無理……本当にここに菊城くんいるのかなぁ……。
階段を上がってきてるのは梅花だった。最初こそチャイムが鳴っているのを加味して梅花がここに来るのは考えられなかったが、毎日のように聞こえる澄み渡った声が脳に焼き付いており、死にそうな声色のそれが梅花の声であることを裏付けた。
「あー……いたー、菊城くんー…………よくこんな所にいられるね……」
――蒸し暑い場所にいるなんて菊城くんって実は変温動物説……。
予想通りの人物の顔が見えた途端に力の抜けた声色が聞こえる。挨拶のつもりでひらひらと揺らす手は元気がなく、死にそうな声に相まって顔も溶けている。加えてワイシャツが汗により肌にへばりつき、透けたワイシャツが艶やかな肌色と、胸部の薄らと見える桃色の下着が見えている。
いつからそんな状態だったかは彼には分らないものの、少し無防備な格好に一瞬だけ目を逸らした。だがいつも元気が良く騒がしい彼女だからこそ、露骨に目を逸らして話せば後々馬鹿にされる予感がして、色々堪えながら平然を装い声を出す。
「……なんだ空木さんか」
「なんだとは失礼な……でもよかった、一時間もいなかったから、“屍になってる”のかと……」
――よかった無事で……こんなに暑いと熱中症とかこわいから……見知らぬところで倒れてたら嫌だし。
「勝手に屍にするな。あと倒れるくらいならここにはいないからな」
「屍なんて言ってないよぉ……でもそれもそうか」
――暑すぎて嘘のフォローの事すら考えるの面倒だよぅ……。
こんな状況でも噓吐き症候群の嘘が出てしまい苦笑する梅花。そんな彼女のことを一見すると忍と同じくさぼりに来たように思えるが、実際は隣の席の忍が一時間以上も姿が見えず、心配して忍を探していたようだ。その証拠に心の中で彼が熱中症にかからず、無事だったことに安堵の息を吐いている。
「あー……菊城くんが無事ってわかったら途端に喉乾いた……水、水買ってきて……お願い……」
――暑くて干からびそう……まぁ干からびはしないんだけど、流石に無理ぃ……。
「
「じゃあそれでいいから頂戴! てかよこせおらぁ!」
――ペットボトルという名のオアシスだあああああ!!
「おまっ! そんなとこで暴れたら――」
ずっと立ち話をしていた梅花。そろそろ座って休もうと踏み出した刹那。忍が自分の飲み物を見せてくる。それはただの水に過ぎないが、喉が渇いた彼女にとってオアシスそのもの。獲物を見つけた獣の如く目の色を変えた梅花は一心不乱にそれを奪わんと飛び出した。
しかし階段が足元にあるその場所で襲うものならば、当然階段に足を掬われることとなり、身体を殴打して最悪転げ落ちてしまうだろう。
だが梅花は階段を転げ落ちることは無かった。それどころか身体も階段の角などに殴打していない。というのも梅花がバランスを崩した瞬間に忍が彼女の手を引っ張り助けたのだ。その代わり忍は倒れ、梅花が上に被さっていた。
「いっ……た」
助けたことで自分が倒れ、床に頭を打った忍。まだ階段のところや、屋上入口のドアにぶつけていないだけマシだが、固い床に思い切りぶつけた痛みはじわりと残っている。だが我慢できないほどではない。痛みが生じている頭を擦りながら衝撃により閉じてしまった瞼を押し上げると、寸でのところに梅花の顔が目に映った。
吸い込まれるような白くてもちっとした肌、どこまでも見据えているような透明感のある黒い瞳。他人に興味がない忍ですら、息を飲み込んでしまうほど整った顔立ちが鼻の先にあり、思考が停止しそうになっていた。
それは梅花も同じで、どんどんと顔が赤くなりきゅっと唇を強く結んで固まっている様子だ。
――意外とこいつ綺麗な顔してんだな……。
沈黙が続く空間。梅花の顔に見惚れて停止しかけた思考で精一杯思いついたのはそれだけだった。しかしずっとこのままでは困ると、平常心を保ちながら忍は言った。
「……早くどいてくれないか?」
「……ぁ……あ、“いや”ごめん!!!」
――びっ…………くりしたぁ……。
梅花が避けなければ何もできないため避けるように言うが、顔を真っ赤にした梅花は少しの間固まったまま。それでもワンテンポ遅れてから我を取り戻して、忍の言葉に反応した彼女はすかさず忍の上から横に避けると、熱くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。
「全く、階段で暴れるとこうなるって分からないものか普通」
「あ、あはは……飲み物欲しさにとち狂いました……」
――落ち着けー。落ち着くんだ梅花……相手は菊城くんだぞ……。
「はぁ……また暴れられたら困るしやるよ。それと一応言っておくけど今は授業中だ。あんまり騒ぐと誰か来るかもだから静かにしてろよ……つかそっぽ向いてるならこれは要らないってことか?」
「あ、えっとぉ……そのぉ」
――欲しい……欲しいけど……うわぁぁん!
彼女の行動が面倒だと感じた忍は、また暴れないように今が授業中であることを伝え、先ほどちらつかせた飲みかけの飲料を差し出す。
それを横目で見た梅花は一瞬にして顔が更に茹で上がる。直ぐに視線を下へと持っていき、あれだけせがんでいたのがまるで嘘のように口篭って何も言わなくなっていた。なにせ差し出されたそれを取り、ひとたび口に運び飲んでしまえば間接キスとなるから。
別に恋人同士でなくとも関節キスを気にしない人も中にはいる。忍はその中の一人で、彼同様に気にしなければ問題は無い。しかし中々どうしてか、先程顔が近くに迫った事で変に意識してしまい受け取るべきか、やっぱりいらないと断るべきか頭の中がぐちゃぐちゃになっており、もじもじとしつつも両手の親指をくるくると回している。
彼女がそう悩んでいることをつい知らず、彼女の「どうしたらいいの!?」という心の声になにがだよ――とはさすがに言えずにもう一度息を吐く忍。梅花の心の声が聞こえていたとしても、彼女が襲われている辛さは何一つ理解していない。
だからかあたふたとしている彼女を、まるでゴミでも見るような冷めた目で見るとこう言った。
「なんだよ、さっきから気持ち悪いな」
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