第11話
前に一度、シュテルンはコラレに聞いたことがあった。どうして灯りをつけないのかと。その問いかけに、どこか寂しげな表情を浮かべた彼女は、いつも手にしているキャンパスに《昔を思い出すから》と答えた。
その時はシュテルンも特に気にはしていなかった。しかし、今思えばコラレが口にした【昔】はシュテルンが知らない、彼女のことに関係していることだと思った。
薄暗い店内を、もう歩き慣れたように店内が明るい時と同じスピードで、シュテルンはカウンターの前へと足を運んだ。
ニッコリと笑みを浮かべるシュテルン。コラレもまた、笑みを浮かべ、彼女にキャンパスを掲げる。
《こんにちは、シュテルンさん》
《こんな天気に来てくださってありがとうございます》
「ううん。気にしないで。私が、来たかっただけだから」
いつもの笑顔。のはずなのに、いつもと違うことに気づいたコラレは、《どうかされたんですか?》と尋ねた。シュテルンはなんでもないと口にしようとしたが、目の前で不安げな顔で自分を見てくる彼女の表情にグッと胸が苦しくなった。
「ねぇ、コラレ……手、出して」
俯きながら、少しだけ震える声でシュテルンは言った。
不思議に思いながらも、コラレは彼女に言われた通りに両手を差し出した。
差し出された手を、シュテルンはゆっくりと包み込むように握った。
手を洗ったのか、少しだけ手が濡れていて、でも特に不快とは感じなかった。寧ろ、水のせいなのか、彼女の手はすごくひんやりと冷たく、そしてとてもすべすべとしていた。
始めて、シュテルンはコラレの肌に触れた。
肌と肌が触れ合い、そこから、自分の感情が相手に伝わっているのではないかと思うほどに、シュテルンの胸はひどく高鳴った。
(あぁ……好きだなぁ……)
脳を溶かすように、シュテルンの心が満たされていく。満たされていくからこそ、もっとと欲張りになってしまう。
「ねぇ、コラレ……私が知らない貴女を教えて」
彼女の手をぎゅっと握り、自分の額に押し付けながら、苦しげにシュテルンは口にした。
必死に、溢れ出しそうになる感情を抑えながら、シュテルンはコラレに答えを求めた。
「貴女が私に言っていない。私に教えてくれていない、本当の貴女を教えて……」
嫌われる覚悟だった。今まで積み上げて来たものを0にする覚悟だった。それでも、シュテルン知りたかった。愛おしくて仕方がない、彼女の本当の姿を。
だけど、スッとコラレの手がシュテルンの手の中から離れていってしまった。
肌が離れた瞬間に、どうしようもないほどの不安が込み上がって来た。
嫌われた?
もうそばにはいられない?
私が我儘を言ったから?
激しく心臓が脈を打つ。息苦しさを感じて、必死に息をする。
不意に、紙の音が聞こえる。
顔を上げれば、コラレがキャンパスを手にしていた。
書かれていたのは……
《今日はもう帰ってください》
シュテルンは膝からその場に崩れ落ちた。まるで、誰かに後ろから押されて、崖から落ちるような、そんな絶望感だった。
嫌われた、もうコラレとは一緒にいられないんだと。
その時、コラレがそばに駆け寄って来て《大丈夫ですか?》と心配そうにしていた。
自分で勝手に傷ついたのに、心配させてしまって申し訳ないと思い、シュテルンは必死に笑顔を作って「大丈夫」と返事を返した。
「ごめん……言いたくないことを無理に言わせようとして。でも、私……知りたかったの……だって、コラレのことが」
感情が混み上がり、胸が苦しくて目頭が暑くなる。気がつけば、ポタポタと涙が溢れ出て来ていた。止めたくても、高ぶった感情を抑えることができなくて、同時に喉まで来ていた言葉を口にしてしまった。
「好きだから……」
しんと静まりかえる店内に、シュテルンの涙が落ちる音と、彼女の息遣いが響きわたる。
しばらくすれば、コラレがペンを走らせて、シュテルンに文字を見せた。
《知りたい、ですか?》
「……教えてくれるの?」
《貴女がそれを望むなら、構いません》
「……うん。でも、コラレが嫌ならいいよ。好きな人が嫌がることはしたくないから」
シュテルンは言ってしまったからと開き直り、苦笑しながらそう口にした。
コラレは、またキャンパスにペンを走らせていた。いつもよりも長めに、何ページにも書き綴っている。
《それでは、明日の深夜に、海岸にきてください》
《そこで、シュテルンさんの知りたいことを教えます》
《でも、私は話すことができません。色々説明するのに、このやりとりは大変です》
《なので、詳しいことを知りたいのであれば、ジェムさんに話を聞いてください》
次にコラレがページをめくった時、紙は真っ白だった。
コラレからの話が終わり、シュテルンは口を開いた。
「ジェムさんとは、どういう関係?」
《昔からの知り合いです》
《私のことを唯一知ってる人です》
二人が知り合いだということは昨日店の外でジェムと鉢合わせたときからわかっていた。彼も、シュテルンとコラレが知り合いだということも知っている。
「わかった。じゃあ、今日は帰るね。明日の夜、また会おうね」
《はい。また明日》
店を出たとき、雨は止んでいた。
雲の隙間からは日差しが差し込み、久しぶりの雨は終わりを告げた。
また明日から、快晴の日々が続く。
*
翌日、昨日の雨が嘘だったかのように、雲ひとつない青空が広がっていた。
町の人々も、家の外に出ており、楽しくおしゃべりをしていた。
「おや、シュテルンちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは、ジェムさん」
この日、シュテルンはバイト先の常連であるジェムの家へと足を運んでいた。
彼の家は、海岸近くにある林の奥にポツリと建っており、ここから歩いて数分のところには、コラレのお店があった。
「お菓子は好きに食べていいからね」
「お構いなく」
ひとつひとつの動作がゆっくりだ。無理もない、彼も随分といい年だ。明日お迎えが来てもおかしくないほどの年月を彼はもう生きている。
「よっこらせっと……それで、シュテルンちゃんがここに来たのは、コラレさんのことじゃろ」
「はい」
「……それで、どこまで知っておるんじゃ?」
「何も知りません。ただ、今日の夜に海岸で会う約束をしました」
「そうかい……」
お茶をすすり、一息ついたジェムは、ぼんやりと自分の家の天井を見上げる。その眼差しは、どこか昔を懐かしんでいるようだった。
「シュテルンちゃんは、人魚のお話を知っとるかい?」
「えっと……ひきづりこむ方ですか?」
「あ、いや。わしらの方じゃない。今の子たちが、親から読み聞かせをされている方じゃよ」
「はい。小さい頃、母によく読んでもらいました」
「あの話はのう。この村ならではの話なんじゃ」
あげていた顔を下ろし、ジェムはコップに映る自分の顔をじっと眺める。
シュテルンは、その話が何の関係があるのだろうと思いながら、彼の次の言葉を待った。
「コラレさんは、人間ではないんじゃ」
「え……」
ジェムの言葉に、どっと心臓が高鳴る。コラレが人間じゃない。いや、そんなはずはない。彼女には自分と同じように手足があって、体も……服の下を見たわけではないが、確かに同じだと。
でもどうしてか、彼女が人間ではないとわかっても、納得してしまう。
シュテルンは思う、彼女の容姿は明らかに普通の人とは違う。人間離れした美しさと神秘性を持っていた。
「あの人は、元は人魚じゃったんじゃ」
「人、魚?」
「そう……あの子は、人間の男に恋をし、海の魔女と取引をして人間となったのじゃ」
その話を聞いて、何となくシュテルンは察した。彼が先ほど、シュテルンが何回も母親に読み聞かせてもらった物語の話をどうしてしたのか。
「コラレさんが、あの物語に出てくる人魚そのものなんじゃ」
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