3話「重い筆」:夢乃side
「ただいま」
「おかえり」
疲れた体を、やっとの思いで家へと送り届ける事が出来て、パタリと扉が閉まる。それとほぼ同時に、誰かが私の言葉に返答した。
「あれ、兄さん。今日バイトは?」
「急に休みになった。マスターが色々試作したからって」
「そうなんだ。というか、上着てよ」
上裸の兄さんは、大きな欠伸をしながら「はいはい」と返答する。見慣れた光景。ただ、もう季節が季節だから風邪を引かないか心配になる。
のらりくらりとした感じだけど、見た目に反して真面目だし、私のことも気にかけてくれる。私が一番ひどかった時期、両親以上に私のことを心配してくれていた。
「さっさと着替えてこい」
大きな欠伸を一つして、軽く手を振るような仕草をしながらそう口にする兄さん。着替えるのはいいけど、それは自分がちゃんと服を着てから言ってほしい。説得力がない。
「あー、そうだ夢乃」
部屋に戻ろうと階段を登っていた兄さんが、不意に何かを思い出したように振り返る。
兄さんはあまり表情豊かな方じゃない。だから、振り向いたときの顔はいい事を話すときのものなのか、悪い事を話す時のものなのかわからない。
「マスターが、お前に絵を描いて欲しいんだと」
どっ、と心臓が激しくなる。息苦しさを感じて思わず自分の胸を抑えた。
兄さんから告げられた内容は、私にとっては悪い話だった。
「ぁ……え、と……」
「……んじゃあ、断っとくな」
私の反応を見て、兄さんはすぐにそういって上に登った。
必死に息を吸い、胸の苦しみを落ち着かせる。だけど、手はまだ少しだけ震えている。自分で思っている以上に、私は絵に対しての拒絶が酷いみたいだった。
「あら、夢乃帰ってきてたの?」
「あ、うん。ただいま」
リビングからひょっこり顔を出すお母さんに着替えてくると伝えて、自分の部屋に行く。薄暗い部屋。荷物をおいて着替えるだけだから、ベットサイドの電気だけをつける。
そのまま足は服の入ったタンスではなく、机へと向かい、一番上の引き出しを開ける。
綺麗に整理している筆記用具の中、一つだけ妙にその存在感を示している白い塊。その白い塊を手にした瞬間、自嘲気味になる。
「前は、こんなに重く感じなかったのにな……」
白い塊を解いていけば、中には一本の筆。この家で、唯一残っている画材道具。
これは、一番最初の筆。どんなに買い替えても、これだけは処分をしなかった。私の原点と言えるものだった。
それが、たった数グラムのそれが酷く重く感じる。重く、そして見ているだけで胸が苦しくなる。
「ごめん、ごめんね……」
何度も、何度も筆に向かって謝罪の言葉を口にする。
それは誰に対する懺悔なのか、自分でもわからない。だけど、この筆を見るたびに罪悪感に襲われる。
それにさっきのことを思い出す。兄さんが絵の事を話してきたあれは、きっと兄さんなりの確認だったのかもしれない。私が、また絵を描けるかという。
「夢乃」
部屋の外、扉がノックされると兄さんが声をかけてくる。
「飯いくぞ」
「あ、うん。着替えたらいく」
「早くしろよ」
「……うん」
部屋の前から、兄さんの足音がどんどん遠くなっていくのを感じる。
僅かに、下にいる両親と兄の声が聴こえる。楽しそうな会話、いつもの家族の声だ。
「大丈夫。これが、私の全部じゃない」
もう一度筆を包み直して、そのまま引き出しに戻す。
筆を手放すと同時に手が軽くなったような気がする。実際はそんな事ないけど、私にはそう感じた。
「絵は、もう……」
———— 夢乃先輩の絵が好きです
なぜか、彼女のことを思い出した。
純粋に、私の絵を好きでいる彼女。だけど、どんなにあの子が求めたって、私はもう絵を描かないと決めた。
他人の欲を満たすために、私は自分自身を苦しめたくなんかない。
*
「ゴメン、お待たせ」
着替えを済ませてリビングに足を運べば、すでにテーブルには料理が並べられていて、家族みんなが席についていた。
テーブルに並べられているのはオムライスとサラダ。それと卵スープ。私が好きな料理だった。
「累がいるの久々ね。家族揃っての夕飯はいつぶりかしら。ふふ」
「1ヶ月ぶりじゃね?BARの方が休みの時は別のバイト入ってるし」
「バイトもいいが、勉強もちゃんとやるんだぞ。進級できなかったら……」
「わかってるって。勉強もちゃんとやってる」
兄さんは家族でも干渉されるのが嫌いだ。なのに、他人には深くは入り込まないけど、表面的に干渉してくる。矛盾、だけどそれが兄さんで、そういうところが助かったりしている。
「いただきます」
食事中は静かだ。特に会話なんてものはない。それでも昔は、少しは会話があった。私がまだ、絵を描いていた頃の話だけど。
あの頃は無邪気に、兄さんに「うるさい」と言われるぐらいにはたくさん会話をしていたと思う。だけど今じゃ特に話題もなくて。というよりも、両親は遠慮して会話をしないだけ。兄さんは元から食事中は無口だし。
「あ、そうだ。夢乃さ、部活やってないだろ?」
「え……うん」
過去のことを思い出していると、突然兄さんに話をふられて、戸惑いながらも返事を返した。
「もう一個のバイト。カフェの方なんだけどさ、今人手足りなくてさ、お前やんない?」
いくつもバイトを掛け持ちしている兄さんのバイトの一つ。駅近くのおしゃれなカフェで、私もたまに本を読みに行っている。
学校はバイト禁止ではないから、申請書の提出とかはしなくていい。
学校が終わった後は、用事がなければ真っ直ぐ家に帰るだけ。やれないこともない。だけど……
「私、接客は……」
兄さんは料理ができないわけじゃないけど、見た目がいいからホールでの仕事をしている。もう一つのBARの方も実力よりも見た目採用の方が強い気がする。
兄さんは結構人当たりいいし、無口で人からの干渉を嫌う割りには友達が多い。
対して私は兄さんよりも友達が少ない。クラスメイトとも必要最低限の会話しかしない。人間的に接客向きじゃなかった。
「キッチンの賄いは美味いぞー。特にオムライスがな」
「う……そ、それズルくない?」
ニヤニヤしながら私を誘惑してくる兄さん。確かにあそこのご飯はすごく美味しい。あれが、タダで食べれるというのはとても魅力的だ。とんでもなく動悸が酷いけど。
「あら累、それじゃまるでお母さんのご飯は美味しくないって言ってるみたいに聴こえるのだけど?」
ふふふ。とお母さんは笑っている。だけどあくまでそれは表面的で、実際は怒っている。
気のせいだろうか、お母さんの顔に影が刺してるように見える……怖い……
「いや、別にそんなこと一言も……」
「夢乃もバイト始めちゃったら、2人分だけで作りがいがないわ。お父さん、もうご飯食べても美味しいって言ってくれないし」
わざとらしくため息をつくお母さん。隣にいるお父さんは何も言わずにもぐもぐとご飯を食べる。少しだけ汗が滲んでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
「でも、夢乃だって買いたいものだってあるだろ?小遣いじゃ足りないようなもの」
「それは……」
無くもない。いつも貰うお小遣いだけじゃ到底手が出せないもの。そんなもの、たくさんある。たくさん……
「接客に関しては俺がしっかり教えるしフォローもする。学校もあるし、基本的にシフトも週3〜2ぐらいで入ってくれれば助かるって店長も言ってたしな」
それだったら全然問題ない。お母さんも「それならまぁ」と許してくれた。お父さんはどうだろう。ちらっと視線を向けると。すでに食事をすませて食後の珈琲を楽しんでいた。
「夢乃の好きにしなさい。その代わり、累と同じで勉強に支障が出たらやめさせる。いいな」
「……うん、わかった」
「それは、やるってことか?」
隣の兄さんがそう尋ねる。
放課後、本を読む以外に時間をもてはやしていたし、兄さんがいるなら不安もないだろう。何より、バイトがあればあの子に会うこともない。
「うん、やる」
「決まりだな。俺、明後日シフト入ってるから学校まで迎えに行くな」
「目立つからやめて」
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