信じる者は祓われろ

透峰 零

1章 探偵と女子大生

はじまり

 闇が行く手を阻んでいた。

 街灯だけがポツポツと灯る暗闇の中を、来原くるはら沙耶香さやかは早足で歩いていく。

 時刻は午後十時を少し過ぎたあたり。今日はサークルの飲み会があり、二次会には参加しなかったものの、いつもより帰宅が遅くなってしまったのだ。

「はー、寒っ……。早く家に帰らないと凍えちゃう」

 帰ったらまずは熱いお風呂に入りたい。最近疲れが溜まってるから、入浴剤も入れてしまおう。

 頭の片隅にわずかにうずくまる真逆の思考から目を逸らすように、沙耶香は帰宅してからのバスタイムに思いを馳せる。

 大学入学と共に借りたアパートの風呂場はユニットバスタイプではなく、セパレートタイプ。それも、トイレと洗面所が別の三点セパレートだ。家賃以外に沙耶香がこだわった、唯一の点である。そして家賃が安い代わりに、駅からは遠い。その遠さが、寒風と共に身に染みる。

 街灯に切り取られた白い空間を無意識に渡り歩きながら、沙耶香は小さくため息をついた。

 どういうわけか、今日は周囲に人の姿が見えない。駅を降りてしばらくは他にも人がいたはずだが、いつの間にか一人になっている。

 そこまで考えたところで、沙耶香は不意に足を止めた。

 一瞬、後ろから音が聞こえた気がしたのだ。

 立ち止まって耳を澄ませる。

 だが、他に足音などの物音は聞こえない。広がる闇にすべて吸い込まれてしまったかのような、無音。

「……」

 振り返らないまま、沙耶香は再び足を進める。

 すると、またしても音が聞こえた。気のせいか、先ほどより近い。カチャ、カチャという、軽くて硬いものがアスファルトを規則的に叩く音。

「……っ」

 無言のままで足を早める。振り返って確認する、という当然の行為はなぜか頭に浮かばなかった。

 むしろ、決して振り返ってはいけないという思いの方が強い。

 そのまま沙耶香はひたすら歩き続ける。もう一度立ち止まれば、次に歩き出す時にはもっと音が近づいているかもしれない。

 そんな妄想を掻き立てられる程には、後ろからの音は存在感を持って沙耶香へと迫っていた。


 ――知ってる? このアパートね、んだよ

 ――確か子供の霊だったかなぁ。私もよくは知らないけど、小さな手が窓を叩くんだって


 脳裏に蘇ったのは、最近隣人から聞いた嫌な話だ。


 闇の気配が、一層濃くなった気がした。

 背後からの音は最初こそ沙耶香の歩調に合っていたが、徐々にズレていき、今となっては完全に別の不協和音となって響いていた。こうなってはもう、気のせいで済ますには無理がある。

 沙耶香はさらに足を早めた。知らず、息が荒くなる。


 早く、一刻も早くあの音から離れないと。


 頭の中で、その考えだけがぐるぐると回る。駅を出てから、すでに十分以上は歩いただろう。マンションまでは徒歩で十五分だから、もう少しで着くはずだ。

 目の前に十字路が迫っている。そう、あの十字路を右に曲がればすぐに――

 と、そこで沙耶香は足を止めた。愕然とした思いで、十字路の真ん中に立ち尽くす。

「ここ……どこ?」

 沙耶香が立ち尽くしてしまうのも無理はない。何しろ、そこは彼女がまったく知らない場所だったからだ。

 物音に気を取られすぎて、いつの間にか迷ってしまったようだった。

 だとしても、近所であれば見覚えの一つくらいはある。だが、ぐるりと周囲を見渡してみても、沙耶香が知っている光景は何一つ見当たらない。どうして、今までその不自然さに気が付かなかったのか。

 この場所はおかしい。

 背筋が冷たくなる沙耶香に追い討ちをかけるように、すぐ側の街灯がバチリと乾いた音を立てて瞬いた。

 それも一つではない。前方の街灯も同じような音を立てて明滅しているし、後方もまた然りだ。


 ……カチャ


 乾いた音の合間を縫うように、硬質な音が響いた。明滅する灯りの中、沙耶香はふと己の足元に視線をやる。偶然ではなく、そこで何かが蠢いたのに気がついたからだ。

 すぐ右脇に立つ背の高い街灯。沙耶香から見てやや後方からの光に照らされ、足元には彼女自身の影が黒く浮かび上がる――はずだった。

 だが、沙耶香はぎょっと目を見開く。

 あるはずの自身の影がない。

 代わりに、背後から伸びていたのは大きな獣の影だ。尖った耳と、四つ足をそなえた長い胴体に長い尻尾。

 その影が、沙耶香の方に向けて手を伸ばしている。先端が尖っているのは、爪が鋭いからだろう。

「っ……!」

 全身の血が、音を立てて引いていく。首筋に冷たいものが触れた。

「い、いやっ……!」

 叫び、弾かれたように沙耶香は走り出す。そこそこ大きな声だったにも関わらず、周囲の家から人が出てくる気配はない。

(やっぱりこの場所、変だ……!)

 だが、今はとにかく逃げなければ。

 他人行儀に冷たい光を灯す家々の間を駆け抜ける沙耶香の耳に、再びカチャカチャという音が届いた。

 辺りを見回した沙耶香は、すぐ傍の建物に目を留める。それは、古びた小さなビルだった。背はあまり高くなく、窓の配置からしてせいぜいが三階建てだろう。

 一軒家と集合住宅が雑多に混在する住宅地にぽつんと立つ白い建物は、いかにも場違いで浮いた存在だった。

 だが、沙耶香が惹かれたのはそこではない。

 そのビルの二階部分から零れる明かりだけが、無性に温かく見えたのだ。何らかの事務所だろうか。

 だとすれば、正面のシャッターが閉まっていても、複数の人間が残って仕事をしている可能性は高い。

 瞬時にそこまで考え、沙耶香はその建物に向かって走り出す。

 二階への入り口は、建物の右側で口を開く階段だろう。一段目に足をかけたところで、わずかに残った自衛心が二階部分の窓に目をやらせた。予想通り、正面側の窓には事務所の名前が貼ってある。光の加減で全ては読み取れないが、かろうじて「所」の文字だけが読み取れた。

 それ以上は確認する余裕もなく、沙耶香は一気に階段を駆け上がる。

 暗く、狭い階段だった。街灯の明かりが届くのも最初の五段ほどで、その後は真っ暗だ。ぼんやりと廊下の白い灯りが漏れる上方へと、沙耶香は懸命に足を動かす。

 長いようで短い暗闇を抜けると、外観通りの古びた通路が目の前に現れた。かつては白かったであろう壁にはあちこちに細かな罅が入り薄汚れているし、天井の石膏ボードは所々が歪んでいる。

 それでも、すぐ左側に張り付いた薄っぺらな茶色のドアが、今の沙耶香にとっては唯一の希望であった。

 ノブを握る。回った。鍵はかかっていない。

 ノック、と気がついたのはすでにドアを押してしまってからだ。開いた隙間から、フワリと煙草の香りが漂う。

「助けてください! 追われてるんです!」

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