愛を拒み続けた病弱令嬢が最期に見たのは、孤独ではなく涙と優しさでした
ぱる子
第1話 夜会に広がる噂
深い紺青の空が広がる夕刻、王都の中央区画にそびえる華麗な邸宅には、きらびやかな灯がともされていた。今宵は貴族たちが一堂に会する夜会の開かれる日。大理石の床に赤い
音楽隊が奏でる優雅な旋律に合わせ、床を滑るようにステップを踏む貴族令嬢たち。磨き上げられたシャンデリアの光が、ふわりと広がるドレスの裾を照らしてきらきらと反射し、部屋のあちこちに
やがて、会場の入り口から一人の若い女性が姿を現したとき、大広間の空気が少し変わる。人々の視線がそちらへ向かい、その瞳には警戒とも侮蔑ともつかない、不穏な色が宿る。華やかな夜会の場にふさわしい仕立てのドレスを
遠巻きに彼女を見つめる若い令嬢たちは、ひそひそと声を潜める。きらびやかな場における噂は、往々にして尾ひれがついて広がるものだが、リリアーナの評判はとりわけ苛烈だった。彼女は高慢で、誰に対しても冷徹な態度を崩さず、ときには面前で他人を見下す発言をする、傲慢な女性――そんな話が、すでにこの夜会に集まったほとんどの貴族たちの耳に届いているのだ。
「またあの伯爵令嬢が来たわ。よくもまあ、堂々と顔を出せるものね」
「聞いたところによると、使用人を泣かせたうえに平然としていたとか。ほんとうに恐ろしい方だわ」
自分たちと同じくらいの年頃の女性とは思えぬほどの迫力を帯びた立ち居振る舞い。近くにいるだけで息が詰まるような圧迫感を感じるという者すらいる。その噂話がどこまで真実かはともかく、彼女に関わると面倒に巻き込まれそうだという空気だけは、完全に社交界に染み渡っていた。
リリアーナはそんな周囲の目を
グラスを手にした貴族の青年たちが、彼女の動向を気にしつつも、声をかけるのをためらっている様子が伺える。いざ話しかけて冷たくあしらわれ、貴族としての沽券にかかわるような
しかし、リリアーナはまるでそんなことに頓着していないかのように、一際目立つ長椅子の席についた。そこには彼女の侍女とおぼしき女性が控えているが、リリアーナは横目もくれず、まるで
「ふん、ここも相変わらず騒がしいだけね」
低く吐き出すその声を、侍女はどう受け取ってよいか分からないのか、目を伏せて黙り込む。すると、リリアーナはちらりと侍女を見やり、わずかに口の端を釣り上げた。それはまるで意地悪を楽しんでいるかのようにも見え、周囲の者たちがぎくりとして視線をそらす。
彼女が本当に冷酷な性格の持ち主なのか、それとも単なる噂に過ぎないのか――その真相を確かめようとする者は少ない。なぜなら、少しでも踏み込めば自らが矢面に立たされかねないからだ。社交界はきらびやかであると同時に、ひとたび誰かの評判が下がると、立場を失うまで噂や批判が拡散し続ける怖さを持つ。リリアーナの近くに寄ることは、その渦中へ飛び込むも同然なのである。
実際、ある伯爵家の次男坊が彼女に声をかけた際、「あなたのような小者に興味はないわ」とあっさりと突き放され、それがもとで周囲の笑いものにされたという話が、数週間前から貴族たちの話題にのぼった。彼女がどのような意図でその言葉を放ったのかは知る由もない。ただ、その一言で相手のプライドを粉々に砕いたのは確かであり、今夜会場に姿を見せている人々の記憶にも鮮明に残っているようだった。
「今宵はどんな騒ぎを起こすのかしら。少し離れて様子を見たほうがよさそうだ」
「お近づきになる利点が見当たらないわ。あれほど気性の荒い方を説得できるなど、夢のまた夢ですもの」
ささやき交わす令嬢たちは、リリアーナの姿を横目で追いながら、できるだけ彼女と視線を合わさないよう気をつけている。彼女と真正面から向き合うと、その冷徹な目に射すくめられてしまいそうだという恐れが、いつのまにか夜会の空気に充満しているからだ。
ところが、そんな張り詰めた空気をよそに、リリアーナは自ら立ち上がり、音楽隊のほうへ足を向けた。夕暮れの光が完全に落ち切った今、会場を照らすのは無数の蝋燭とシャンデリアの明かり。そこに、薄暗い影を帯びたリリアーナが近づくと、いっそう際立って見える。その美貌や装いは、まるでこの世のすべてを征服しているかのような高慢さを引き立てていた。
彼女に話しかけようと考える者は、ここまでのところ誰もいない。あるいは、一人くらいはいるかもしれないが、その意志を見せる前に周囲が止めてしまうのだろう。「あなたまで彼女に目をつけられたら大変よ」と。
「演奏が退屈ね。もう少し耳障りのよい曲はないのかしら」
音楽隊の指揮を執っている男性に向かって、リリアーナが言葉を投げる。その声は決して大きくないが、冷え冷えとした響きが広間の一角を包み込む。指揮者はびくりと肩を震わせ、慌てて楽譜をめくりはじめた。
「か、かしこまりました。次は華やかな曲を――」
「華やかかどうかはあなた方の判断でいいわ。私が心地よいと思える演奏をしてちょうだい。それができないなら帰ってもらったほうがいいわね」
その言葉に、周囲の者はますます息を呑む。音楽隊の演奏を楽しむために呼んでいる夜会なのに、そんな言い方をしては彼らが気の毒だ。だが、誰もが口をはさめず、ただ様子を見守ることしかできない。音楽隊の指揮者は「あ、はい」と何度かつぶやき、押し黙ったまま新しい曲の指示を出した。
リリアーナはその場に立ち尽くす指揮者に背を向け、大広間の中央へ戻る。人々は避けるように道をあけ、彼女はまるで水が引いてできた空間を悠々と歩く。見事なもので、ここまでくると「彼女には手を出さないほうがいい」という暗黙の了解が生じているようにも見える。
しかし、リリアーナの表情をよく見ると、その瞳はどこか虚ろだった。力強く見せようとする態度の奥に、何か冷えきった感情を閉じ込めているような気配がある。そして、ふとした瞬間に見せる
音楽は、先ほどよりも華やかな曲調へと変わる。軽快な弦の旋律に合わせて、令嬢と紳士が踊りに誘い合う。だがその中心に、リリアーナの姿はない。彼女はまるで興味のないものを見るような目つきで、踊る人々を眺めている。それでも、一度たりとも伏し目にならないのは、彼女の強いプライドの現れか、それとも別の理由があるのか。
しばらくして、リリアーナの前に一人の侯爵家の子息が進み出る。ぎこちなく微笑みながら、よく通る声で彼女を踊りに誘おうとするが、その言葉は彼女の冷たい視線に遮られる。
「どちらの方だったかしら。存じ上げないわね」
「そ、それは失礼を――」
「ええ、興味がないの。どうぞお引き取りになって」
その冷酷な断り方に、周囲は再びざわついた。若い令嬢たちの中には、明らかにリリアーナを見て身震いしている者もいる。相手に対する配慮や敬意がまったくない。もはや、ここまでくると彼女がどんな目的でわざわざ夜会に来ているのか、分からないという声すら漏れ始めた。
にもかかわらず、リリアーナの耳は周りの噂話を聞こうとしないかのように閉ざされている。高価な宝石をあしらった扇をひらりと広げ、扇の向こうにほのかな笑みを隠す。まるで、「誰にも踏み込ませない」という強固な壁を感じさせるしぐさだった。
遠くでその様子を眺めていたとある伯爵夫人が、小さく舌打ちする。彼女いわく、リリアーナがあの態度を取り続ける限り、今後どれほど世間から責められても自業自得だろうと。確かにその考えにも一理あるかもしれないが、ただ、あまりに強い拒絶や高慢ぶりを見せられると、人はそこに何かしらの裏を疑わずにはいられない。
とはいえ、この夜の段階では、ほとんどの人間がリリアーナの噂を
その様子をかたわらで見ていた侍女が、心配そうに声をかけようとする。しかし、リリアーナは小さく首を振ってそれを制する。言葉にすれば、ほんの一瞬で社交界に飛び火するかもしれない。彼女の侍女が「ご気分でも悪いのですか」と問いただそうものなら、翌日には「リリアーナ・フォン・エヴァンスはわがままを言って夜会を台無しにした」と騒がれかねない。まして、彼女が冷たい態度のまま退席すれば、「やはり我慢ならなかったのだ」などと憶測が飛ぶだろう。
だがそれでも、リリアーナは堂々と場に居続ける。自ら招いた孤立ともいえる状況の中、彼女が感じているものは何か。それは、この大広間に集う誰も知らない。本人以外に推し量れるはずもないが、彼女の背筋は終始まっすぐに伸び、その視線が揺れることはなかった。
夜会はまだ続いている。だが、音楽の調べが鮮やかに盛り上がるほど、かえってリリアーナの存在は大広間の隅でより暗い影を落としているように見える。まるで目立つために来ているのか、あるいはこの空気をかき乱すために出席しているのか――そんな
そのうちに、ある程度の者たちは舞台上で繰り広げられる華麗な演奏や、他の令嬢との交流へと目を向けてゆく。リリアーナのそばには誰も近寄らず、彼女もまた自ら距離を詰めようとしない。
時計の針が深夜を指し示す頃、ようやく夜会も終わりの合図を感じさせる雰囲気となってきた。人々は談笑の締めくくりに入り、明日の予定などについて語り合いはじめる。しんがりを務めるのは、いつだって音楽隊の最後の演奏だ。ところが、リリアーナはその演奏が始まる前に静かに立ち上がり、ひとり出入口へと足を向ける。徹底して誰とも目を合わせず、あらゆる申し出を跳ねつけるかのように、わずかな隙間からするりと会場を後にする姿は、まさに無言の圧力を振りまく幻影のようでもあった。
誰もが「やはり常軌を逸した高慢な令嬢」だと、改めて認識しただろう。令嬢仲間からも、感心どころか
こうして、リリアーナ・フォン・エヴァンスの冷徹な評判は、今夜もまた新たな尾ひれをつけて、貴族たちの間を駆け巡ることとなる。夜会を後にした彼女の足音が、静かな廊下に吸い込まれるように消えていったとき、そこにどんな思いが宿っていたのか。周囲が理解するのは、まだまだ先のことになりそうだった。
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