流せない涙
美貴は橙色の光を見ていた。
それはひっきりなしに動き、一定の形にとどまらない不定形の光だった。細かくゆるやかに、ゆっくりと速く、ときおり荒々しく激しく動いた。
大きくなり、小さくなり、右に揺れ、左に流れる。その動きを永遠に続けていくように思われた。
そんな不安定な動きを繰り返す光に、美貴は癒やされ、安らぎを覚えていた。
これが涙というものなのだろう。
自分は涙を流したことが無い。どんなに悲しく、心を揺さぶられるときでも涙を流したことが無い。涙を流すことができないのだ。
だが、涙を流す者を見たことはある。
甘木公介だ。
ただし、それは彼女に銃弾を浴びせ、鉄の箱に閉じ込めた甘木公介ではない。その甘木公介は荻野パーツにいた彼より年嵩だった。30代半ばといったところだった。
湖の畔にある小さな街だった。その街に小さな家があった。
その家で美貴は生まれて初めて甘木公介に出会った。
そのとき、甘木公介は泣いていた。
彼の両目から止めどもなく涙が流れていた。赤みを帯びた瞼の下の目は、瞳孔が溶けてしまうほど涙で溢れかえっていた。
きっと彼の視界には自分の姿はボンヤリとしか映っていなかっただろう。それほど彼の両目は涙に蹂躙されていた。そのとき彼の目に映っていたのは、今自分が見ているような常に揺れ動き、形が定まらない光の塊だったにちがいない――
美貴は海底にいた。
生い茂る藻が揺れ、ときおり魚がそばを横切る海底の岩場で美貴は仰向けに横たわり、海面から差し込む太陽の光を見ていた。
不定形な橙色の光はやがて茜色へと変わり、徐々に暗色へと色褪せて青黒い闇が訪れた。太陽がすっかり水平線の下に隠れ込み、青黒い闇へと変わった海の底で、美貴は海底遺跡に転がっている塑像のようにじっとしていた。
甘木公介の偽者に欺かれ、どこかに連れ去られようとしていた。自分を閉じ込めた試着室から出ようとしたが、部屋の壁は厚く硬く、開けることも突き破ることもできない。
試着室全体が動いていた。部屋ごとどこかへ運ばれていくようだった。部屋の照明は点いたままだったが、それがかえって不安と恐怖を煽ることになった。
また騙された――
強烈な怒りが込み上げ、不安と恐怖を凌駕した。見えない蓋が弾け飛び、そこから歯止めの効かない奔流が暴発した。奔流は瞬く間に美貴の全身に行き渡り、滾り立った。
狭い試着室の壁を手で押した。壁に突いた手が黄金色になっている。手だけではなく全身が黄金色だった。
突いた手が試着室の壁に穴を開けた。美貴の手は試着室の壁を溶かしながら長く伸び、伸びた手に引きずられるようにして美貴は外に飛び出した。
飛び出した時、何かにぶつかった。その何かを一瞬で焼き尽くし、コンクリートの地面に着地した。
雲のような輪郭から人の形へと姿を整えたとき、自分を取り囲んで銃を撃つ者たちを見た。そのうちの二人を殺し、偽者の甘木公介を捕まえた。
だがその男に固執するわけにはいかなかった。よくわからないが、海沿いの駐車場のようなところにいた。近くの建物からこちらを見ている人の姿がある。
騒ぎになり、人が集まってくる。逃げられなくなる。逃げるために強引な行動に出て無関係な人間を巻き込むわけにはいかない。荻野パーツで敵を死に至らしめたときでさえ、あれほど後悔と悲しみに責め立てられたのだ。
すぐそばに海がある。そこへ飛び込んだ。海へ飛び込むと同時に、激しい水蒸気が上がった。海水は煮えたぎり、煙のように濃い水蒸気が彼女の周囲から立ち上がる。
水蒸気が自分の居場所を知らせることになる。美貴は怒りをセーブした。怒りの情熱で超高温になっていた
超高熱を発する金色の姿から、美貴はアイボリー色のワンピースを着た姿に戻った。そのまま海中に潜り、美貴は沖へ向かって泳ぎだした。半時間近くも闇雲に泳ぎ続けた。その間、一度も息継ぎをしなかった。呼吸をしなくても自分は動き続け、生き続けることができるのだと知った。
どこか適当なところにとどまっていることにしよう。美貴は全身の力を抜き、海の底へ向かって落下していった。ヘドロの中に身体が潜り込み、舞い上がった泥が視界を覆った。
灰色のヘドロに視界を奪われることを嫌がり、美貴はそこから抜け出て別の場所へと泳いでいった。あまり水が濁っていない岩場のような場所を見つけた美貴はそこに身を落ち着けた。永遠に浮き上がらない水死体のように、美貴は海底の岩場で仰向けに横たわった。
自分を追う敵から身を隠すために、美貴はそこで暫くの間じっとしていることにした。そのまま何気なく海面から差し込む光を見つめているうちに、涙を流す甘木公介のことを思い出したのである。
日が暮れ、海の中が暗闇で満たされると、視覚に注がれていた美貴の意識は甘木公介についての記憶へと焦点が移った。
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