第6話【炎を放て】
剥がれ落ちた天井。
崩れ落ちた扉、棚や、椅子。
ここはある時打ち捨てられた場所だから、時が止まったようにそういうものが残されている。
(時が止まった場所か)
本当に時が止まった場所なら、本来何の害も無い。
静かだ。
ここには多くの人間が潜み、住み着いているのに今は静まり返っている。
つまり、息を潜めているのだ。
入り口から流してきた灯油の缶を、そこに置いた。
銃を手にする。
フェリックス創始の監獄。
自分が新人としてこの街にやって来た時も、先輩の同僚から、曰く付きのこの場所の話はされた。犯罪の温床になっていること。犯罪者の根城になっていること。当然何故そんな場所を早く取り壊さないだろうと思ったのもよく覚えている。しかし新人の自分でも分かることが、街の警官に分からないはずがないから何か面倒な理由があるのだろうと聞かなかった。
フェリックスの街では突然発砲を受けるようなこともあるし、突然の銃撃戦もある。
しかしメザーハーツはそれとは違う。
創始の頃から、これはここにあり続けた。そこにある危険だったのだ。
街中に偶発的に転がる危険では無いが、ここでずっと待ち構えている。
……そういう場所に、一瞬の油断から安易に踏み込み、自分ではなく部下を死なせた。
子供の頃から孤児で、苦労して来て、ようやく幸せになろうとしていた部下を。
きっと何の意味もないことだ。
何をしようともう、エバン・グラハムは戻って来ない。
油は撒いた。あとは外に出て火を付ければいいのだ。それでもう全て終わる。
部下は戻ってこないが、二度とこの場所のせいで誰も死ななくなる。
それでいい。
帰ろうとした。
数歩歩いてアッシュは舌打ちをすると、すぐに振り返り駆け出した。
メザーハーツ刑務所内部は迷路のようだ。
幾重にも建物が無理に増設され、しかも囚人達の逃亡を防ぐために高い塀に囲まれているため、外にでも入り口は四カ所以外に無い。だがアッシュは内部の構造は詳しく知っていた。
指輪を探すために何度も入ったから分かる。
迷わず、崩れた壁を通り過ぎ、その場所へ向かった。
エバンが発見された場所だ。
扉が壊れた独房の一室で彼は発見された。金目当てで奪われた指輪が今更そんなところに残っているわけがないのに、どうしても足が向いた。
何も無い。
遺体も、指輪も。
分かり切っていたのに。
入り口の所から部屋の中を見て、どうしようもない喪失感に襲われた。
だから背後に立った敵の気配には、いつもなら怒りが湧いて奮い立つのに、その時は銃を持ったまま下ろしていた腕は動かなかった。
「パトロールか。警察がこんなところで何してやがる?」
エバン・グラハムは気の優しい男だったが、優秀なたちで、新人時代慣れない環境に目は回していたけれど、仕事に慣れるのは非常に早かった。武器の手入れの仕方、機材操作の仕方、書類のまとめ方、人の顔も覚えるのが早く、仲間も敵も顔はとにかくすぐ覚えたから、こいつに必要なのは環境に慣れることだけだと判断したアッシュは新人時代からすぐに自分の側に副官と共に置いて学ばせた。
家族がいなかったので、早く仕事を覚えたいと家に帰るのすら惜しんで自ら仕事を学んでいった。独りで生きていたため危機感も強く、自らがバーナードやアッシュのように例え単独で敵に囲まれたとしても、意地で戻ってこれるようなタイプではない自覚を持ち、仕事は学び慣れていっても、最後まで慎重な男だった。無謀な単独行動など一度としてしたことがない。
敵をこれ以上追えないと判断し、撤退命令をここで出した時、その一瞬だけだった。
油断したのはエバンではなく、部隊長だった自分だ。
ここは油断ならない敵の根城だったのだから、まず部下の撤退を見届けてやるべきだった。単独に決してなるなと命じながら。
アッシュはあの時このメザーハーツがまだ、自分達フェリックス警察の縄張りだと思っていたのだ。犯罪者が逃げ場に困って逃げ込んでいたとしても、仮の宿。警察がその気になれば一網打尽に出来る程度の連中だと思い込んでいた。
間違いなく自分の失態だ。
ここはとっくに、手を出せない敵の神殿になっていたのだから、気安く小隊で入るべきではなかった。
「どうでもいい。こんな奴がいたら警察に居場所がバレる。さっさと殺して地下に埋めようぜ。どうせ奥までは奴らは入って来れないんだからよ」
それもそうか、笑い声が聞こえた。背後の気配は二、三人ではない。
やはり警察が入ってきたら監視を命じられているような人間がいるのだ。組織的に動いている。
「そういや前にもその部屋で死んだ警官がいたな」
振り返ったアッシュと目が合った男は嗤った。
「なんだお前の知り合いか?」
「前に俺らを追ってここに入ってきた警官がいたんだよ。結局何にも見つけられなくて出て行ったんだが、そのうちの一人が鈍い奴でな。モタモタしてやがったから……」
勤務二十年で、とんでもない荒れくれた街に務めた。
それでもアッシュは、自分の自覚では「ぶちキレた」ことは一度としてなかった。
たった一度も。
――一度たりとも‼
◇ ◇ ◇
銃声が鳴って、慎重に灯油の後を追って入ってきたマックナイフは、ハッと前方を見遣り走り出した。
続けざまに銃声が響く。
油の匂いが蔓延していた。
しかし迷わず駆けていく。
「ロウさん!」
敵が銃を構えている姿が見えたので、咄嗟に柱に隠れて撃っていた二人を続けざまに撃ち倒した。何人かがこちらを見て発砲して来る。暗闇の中で、一瞬だけ地に倒れた人影を見た気がする。一気に全身に鳥肌が立った。
「隊長‼」
柱を盾にしたまま、発砲してくる敵を躱して、もう一度叫んだ。声は返らない。
銃声の直後にすかさずそちらに向かって撃つと、叫び声がして、倒れる。
ここに潜んでいる敵の規模は正確には分からない。時間が経てば経つほど敵に囲まれる。一刻も早く出なければならない。
マックナイフは柱から駆け出した。すぐに複数の銃声がしてこちらを狙って来る。すかさず応戦して二発撃つと、一発が敵に当たった。
別の銃声がして、マックナイフが外した敵が、声を上げて倒れたのが分かった。
「カイルか! 何故来た‼」
アッシュの声が聞こえ、柱を背に、マックナイフは一瞬天を仰ぐようにした。
生きている。倒れていたのはアッシュではなかった。
そういう人なのだ。ただの優しい上官だったら、ここまで慕って付いてきたりはしない。
マックナイフがアッシュを信頼し付いてきたのは、間違いなくアッシュ・ロウの警官としての強さに憧れたからなのだ。
確かにエバン・グラハムを失った時、彼がいつにない顔を見せた。
今まで耐えられたことが、今日は耐えられなくなることがある。
そういうのが人生だから。
それでもアッシュならきっと乗り越えて行ってくれると思っていた。
エバンの死に打ちひしがれている彼がどうしても気になって、普段全く酒は飲まないのに、一緒に飲みに行くようになった。アッシュも一度だけ涙を見せたあの日以来はそういうことはなく、エバンの話もしなかった。他愛のない日常の話だけして、帰る。マックナイフもろくなことは話してやれなかったと思う。
マックナイフは子供の頃から大切に思うものが何も無かったから、環境は裕福でも、心は貧しすぎて、強い人付き合いを避けて生きて来た自分には、気に懸けていた部下を死なせてしまったアッシュに言える言葉など何も無い気がして余計何も言えなくなった。
ただ共にいて、自分が新人時代そうだったように、孤独の中でアッシュが崩れていかないように出来る限りそうするだけだった。
だから。
ある時、メザーハーツに火を放ちたいと思っていると打ち明けられた時、マックナイフがどんなに嬉しかったか、アッシュは知らないだろう。
それを聞いた時、それがアッシュの傷の乗り越え方なのだと、選んだ方法なのだと分かった。
悲しみをただ飲み込んで耐えるやり方もあるけれど、悲しみを怒りに換え、戦う意志に変える。猛烈に駆け抜けていくフェリックス警察の激務の中で、何人もの人間が辞めていくのを眺めながら、そこに残り続けたアッシュ・ロウの、それが乗り越え方なのだと。
だからマックナイフは自分を連れて行ってくれと願ったのだ。共に戦いたいと思ったから。
「貴方がそういう人だと知っているからですよ!」
問われたから、思わず怒鳴り返した。
ここであんたが殺されるようなことがあれば、絶対葬儀には行かないし、絶対墓石叩き壊してやる。マックナイフは強くそう思って、自分を奮い立たせた。
苦境を、怒りで乗り越える。
そう、怒りだ。
絶望した者や、生きることを諦めた人間が持っていないもの。
怒りは、鮮烈な生きようとする意志を連れて来る。
マックナイフがフェリックスに来て会得した処世術は、怒ることだった。
自分の為、
仲間の為、
生きるために、それを邪魔をするものに対して、怒りで立ち向かう。
怒れる限りは、生きる意志が必ず湧き上がってくる。
アッシュは生きているが、一瞬過去に引きずられて指輪を探しに奥に入った。
自分の命を手放しかけた。
マックナイフは自分の左胸を鼓舞するように一つ、叩いた。
もはや彼とは上司と部下でも、先輩後輩でもない。
同じ立場の同僚だ。
もしアッシュの心が生きることに迷うようなことがあれば、自分が怒り、彼を必ず連れ戻してみせる。
「動けますか!」
警戒しながら柱から顔を出し窺えば、発砲は来なかった。
アッシュが撃ち倒したのだろう、地面に倒れている人影が呻いている。
立ち上がる影があった。片腕を庇っているように見えた。重傷では無いが、被弾したのだ。
「ロウさん」
「来るな、カイル。俺は動ける……」
アッシュがこっちへやって来るのが見え、マックナイフは周囲を強く警戒した。
さっきはまだ数人いた気がするが、今は周囲に気配が無くなっている。恐らく、逃げたのだろう。だが潜む敵の規模はあんなものではないから、仲間を呼ばれたらすぐに包囲されかねない。
カイルは敵がいないと確信したので、柱から出て、こっちへやって来るアッシュの元に駆けつけた。アッシュは肩から血が流れていた。
「余計なことをするなとあれほど言ったのに……」
思わず舌打ちが出た。止血をしようとしたが、アッシュが手で制する。確かに外に出る方が先だ。
「早く、外へ」
ガッ、と肩を強い力で掴まれた。
「カイル。こいつがエバンが死んだ時のことを知ってる」
地面に倒れている男は被弾した目の辺りを押さえたまま、呻いていている。目を庇う手からは血が溢れていた。アッシュが撃ったのだろう。彼の力量なら殺そうと思えば殺せたはず。生かしたのは情報を得たいからだ。それは分かった。
マックナイフは見下ろしてから、男の体を邪魔だ、というように足で蹴って乱暴にどかした。
「それがどうしたんですか」
アッシュがこっちを見る。
無残に殺されたエバン・グラハムの最後の様子。それが分かって。
「なんの意味が‼」
マックナイフは怒鳴った。アッシュが息を飲む。
暗がりに、マックナイフの青い瞳が強く輝いているのが見えた。
ふっ、とアッシュの体から力が抜け、一瞬倒れそうになった。マックナイフが引き上げる。
「……そうだな。お前が正しい……道は分かるか。俺は今の銃撃で完全に見失った」
「油をずっと撒いてきたので大丈夫です。辿れます。さぁ、早く!」
「ずっと撒いて来たって自覚があんなら簡単に何発も発砲すんじゃねえよ……。引火したら一瞬で火の海だろ。絶対全然大丈夫じゃねえ」
こんな状況で愚痴ってきたアッシュに、彼を引きずるようにして歩きながらマックナイフは奥歯を噛み締め、唇の端に笑みを浮かべた。
自分に、ここで終わっても別に世界の終わりじゃないと、
教えてくれたのはこの人だった。
だからいつだって希望を持てるようになった。
大切なものを持っていなかった自分が、今はそれが手の中に確かにあると思える。
「一刻も早く外に出ますよ。バーナードがもうすぐ到着する。モタモタしてたら本気で容赦なく火を放たれます!」
感傷に浸るという感性が完全に欠落している同期の顔が、マックナイフの一言で思い出され、アッシュは思わず笑ってしまった。
そうだな。
その死に方が一番最悪だ。
◇ ◇ ◇
不測の事態に備えて銃を構えたまま、外で二人が出て来るのを今か今かと待っていた第二部隊の者達は、入り口から現れた姿にハッとした。
「隊長!」
「カイルさん!」
すぐに二人駆け寄り、もう二人が入り口から内部を警戒する。
「怪我を……」
「俺は大丈夫だ。肩に一発食らっただけだから心配いらない。そんなことより機を逃すな。直ちに火を放つ。建物は囲んである。被害を受けないところまで全員撤退しろ。今すぐにだ」
「分かりました!」
「よし、撤収しろ! 離れるぞ!」
メザーハーツ刑務所は谷間に建造されている。
刑務所自体が地上より下にある感じだ。逃亡防止のために選ばれた場所で、周囲は崖に囲まれており、反対側には海しかなく、そちらも鉄線を張り巡らされた高い塀がある。
通常街から逃亡した犯罪者が、逃げ込まない場所なのだ。それでも逃げ込むのはこの内部に味方がおり、手助けを受けられるという確信があるから。
警官たちが壁の上に陣取って、見下ろす。
アッシュとマックナイフが降りて行き、銃を構えた。
発砲した瞬間、囲うように撒いた油に引火し、刑務所の壁伝いに真紅の炎が凄まじい速さで走った。刑務所に撒きつくように炎の帯が広がって行く様は、まるで蛇がうねるように見えて、壁上の警官たちからどよめきと歓声が上がった。
――歓声である。
罪悪の念など、これだけの距離を取った場所でも感じる熱気が、吹き飛ばして行ってくれる。
炎は瞬く間に内部にも侵入し爆ぜた。
凄まじい火柱が上空に吹き上がり、血の気の多い警官たちは指笛や歓声や囃し立てる声を立てて喜んでいる。死者を悼む気持ちなんてこの場には一つも無い。
「ここも危ない。私達も高台に移動しましょう」
マックナイフは側のアッシュに声を掛けたが、腕を組んだまま燃え上がる刑務所を見上げている彼は、ここでいい、と小さく言って動かなかった。
「……お前の言う通りだな」
マックナイフはそれ以上移動しようとは言わなかった。
「俺の『悲しみの箱』ってやつは、もういっぱいらしい」
これだけ大勢死んでも、涙一つもう出ない。
マックナイフは友の背に触れた。
「いっぱいになること自体は悪いことじゃないですよ。気付かず、悲しみに触れ続け、壊れてしまうことが悪いんです。もう限界だと思えば休めばいい。これからはなるべく悲しみから遠ざかって生きて行けばいいだけです」
これから……、
その四文字を思って凄まじい火柱を見上げた時、呆気なくアッシュは涙が溢れて来た。
俺はここにいる犯罪者が何人苦しんだって構わない。
犯罪者の命も命だ、なんて議論は捨てた。
ここにいる連中が何人死んだっていい。
それでも、平穏に愛する者と暮らしたくてここから離れようとしていたあいつだけは、これからも生きて幸せになって欲しかった。
「……恩に着る。カイル。お前を巻き込んだな」
「気にしないでください。これでも俺は今、結構幸せですよ」
幸せか。
お前はいつも極端なんだよ。
アッシュは笑ってしまった。
くしゃくしゃ、とマックナイフの髪を、いつぶりか掻き混ぜた。
◇ ◇ ◇
「ド派手に打ち上がってんじゃねえか」
バーナードがやって来た。
「隊長」
第三部隊の者達が敬礼する。
「街の方は?」
「おう。大騒ぎになってやがる」
ざまーみろ。
警官たちが笑った。
「よし。第三部隊は俺と一緒に来い。そろそろしぶといネズミどもがネグラから出て来る頃だ。メザーハーツの出口は北と南。封鎖してこいつらを全員網に掛ける。
いいかァ! 一人も逃すんじゃねえぞ‼」
警官たちは威勢よく声を上げてすぐにバイクに乗り、散って行った。
バーナードは腕を組み、満足げにその部下たちの動きを見ている。
このメリハリだ。楽しむだけ楽しんだら、しっかりと仕事をする。感傷に浸るような奴は他所の街に行けばいい。
ふと、彼が「部隊の一番末」と呼んだラシュアン・イーヴが壁上にしゃがんで、煙草を吸いながらまだ火柱を見ている姿があった。
「ラシュアン」
こっちを振り返る。
「なんだ。あんまり過激な花火過ぎて腰が抜けたか?」
「いや。何人死んだのかなあって思って」
炎と煙が立ち上って行く、フェリックスの空を見上げている。
「罪悪感か?」
「いや。違うんすよ。ただ何人かなって思っただけ」
「少ない方がいいか」
ラシュアンはきょとんとする。
「……いや……どうせ悪人なら出来るだけ多い方がいいけど……」
その答えにバーナードが目を見開いてから、あっはっは! と笑った。
「仕事だぞラシュ。新人が一番のんびりするじゃねえ。見ろ! あいつらの『犯人捕まえて来い!』って言った時の素早い反応を! ボール取って来いって言われた時の犬だぞ。まあ、あそこまで行ったらおめーも立派なフェリックスの警官になったと言ってやっていい」
「ほんとだー。みんなすげー早いな」
「さっさと行くぞ小僧!」
「隊長のバイク運転させて下さいよ。乗ってみたいっす」
「乗ってみたいってお前がこれ乗ったら俺は何に乗るんだよ……」
「んーと……それはもう……徒歩で……」
「てめー! 誰に徒歩で歩けとか言ってんだ‼ ほんといい根性してやがんな‼」
「いでででであああああ! すいませんすいませんやっぱいいですいい! 全然! 乗りたくない!」
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