上海幻想倶楽部

馬渕まり

第1話 魔都上海

 昭和八年八月の末、夕暮れの上海・外灘(バンド)。汽笛の音が黄浦江を越え、石畳の街に低く響いていた。


 西洋風の建物が並ぶ通りには、欧米人と中国人が入り交じり、喧噪と熱気を巻き上げている。焼けるような赤い空に、夜の闇がじわじわと滲みはじめている。


 その雑踏の一角に、船旅を終えた一人の日本人の姿があった。


 ——元海軍中尉、二階堂修。

 東京からの船は二泊三日。三か月前から伸ばしっぱなしの髪をかき上げ、あたりを見回す。

 

 華奢な身体、罪を知らぬような優しげな顔。

特にその指は、白魚のように穢れなき美しさを持っていた。

——だがその手は、直接に、間接に、何人もの命を奪った血塗られた手だった。


 「さすが、東洋のパリだな……」


 手ぶらのまま歩き出す。今夜の宿はまだ決めていない。


 二階堂の専門は内科で、海軍では診療の傍ら、結核の防疫を担当していた。しかし、軍医という肩書きは仮のもの。本当の仕事は──情報を拾うことだった。


 一か月前に命じられた極秘任務。それは、抗日勢力や列強の動向、そして阿片の流通ルートを洗い出し、陸軍の暗躍を阻むこと。


 表の身分では動きが取りづらいと判断した上層部は、ひと芝居打つことにした。

 「上官に暴力を振るい、除隊処分となった厄介者」。そういう“役”だ。


 実際の籍は極秘裏に残され、海軍との連絡はすべて仲介者経由とされた。

 つまり、尻尾を掴まれたときは——


 「……見つかったら“事故死”ですか。気が利いてるなあ、うちの上層部は。」


 二階堂はそう言って、楽し気に笑った。

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