第四章 忌み火占い⑨
大気が割れ、ラムラとジュネクは大地へと圧し出された。勢いに立っていられず、二人は地面に転がった。隔世の感を禁じ得ないが、戻ってこられたことに胸をなで下ろした。
「ジュネク、ラムラ! ああ良かった、二人ともう会えないんじゃないかって、あたしは心配で、心配で……」
トラーシィは突如顕界した歪んだ炎の渦に吸い込まれた二人が、同じく歪んだ炎に連れられて目の前に帰還を果たして再度現れたのを見て、次は放すまいと抱きしめた。そんな彼女は全身が傷だらけで憔悴しきっている状態であるのがわかった。
「うん、わたしはもう大丈夫。だから、もう嫌なことは終わらせよう。生き残った皆で、落としどころを見つけよう」
ラムラはトラーシィの背後で呆然と立ち尽くしている、顔や身体に火傷を負った娘に視線を移した。
「イオ」
イオと呼ばれた娘は弾かれたようにその身を震わせた。
「もう傷つかなくていいよ」
ラムラの言葉に、イオは激しく首を振って否定した。
「私は傷ついてなどいない。そんな慈悲などいりません。私には私の一族のために戦う使命があるのです! 邪魔立てするなら、悪神であろうと容赦しない!」
吠えるイオの剣幕を受け止めるラムラの心は、いきり立つ心と反対に落ち着きが訪れていった。
イオは彼女なりのやり方で集落人を守ろうとしてきた。それは偽りではなく、真実なのだろう。話し合っても無意味だから、主張を押しつけるために暴力で宣戦布告を試みた。通じないのなら、己が正しいと思わせよう。そういう思惑があるのだ。
「もしそうなのだとしたら、なぜ、イオは泣いているの?」
イオの顔が益々歪む。その頬には涙がつたっていた。
「……なぜ、私を助けたのですか? 私は、あなたを利用しようとした。目的のためなら、あなたが死のうと使い潰されようと、どうでもよかった。私はあなたの信頼を踏みにじっていたというのに。怒りをおぼえ私を憎むどころが、ラムラさまは私を救った。怨んで当然の私を、身を挺してかばうなど……‼」
言わんとすることは理解した。
ラムラは一度俯き、それからゆっくりと顔を上げて視線を合わせて泣き笑いを浮かべた。
「そうかなぁ……もしそうなら緑火祭のときわたしを庇ったりしなかったと思う。わたしにとっては、わたしと接してくれたイオの姿がすべてだったから。それ以外になにもないよ」
踏みにじられたとは思わない。イオの気持ちをこれまで考えてこようとしてこなかったのだから。少なくとも、イオがラムラに向けていた視線のやさしさは本物だと思うから。
「こんなにも、胸が痛むなんて思わなかった……」
イオは喪失感に耐えきれず、絞り出すように訴えた。
己がしてきた行為がどれだけ刃となり、傷を与えたか。失ってでも得たいものがあったはずなのに。こんなにも胸が苦しい。
「私の命など、どうでもよかったのになぁ」
「ぼくはどうでもよくない‼」
ジュネクがイオに怒鳴った。
「ぼくたちの一族は繋がりを大事にする。血筋で物事は決めない。家族と決めたら、そのときから家族になる。姉さん、家族が、本当に必要なものを見つけられないでいるのを、放っておけるか!」
イオは皮肉交じりに笑った。
「曲った根性しているくせに、どの口が言うのよ」
ラムラも少しだけ笑った。イオの身体の強張りが抜けるのを、感じたのだ。
「副皇はこの混乱の隙を突いて死穢野を離脱して、禁軍と戦争することにしたらしい。この地に残されたのはあたしたちイルㇽだけ」
今なら安全な場所へ逃げられる、とトラーシィは口を挟みイオを見た。あらゆる感情を殺して、睨み付ける。
「あんたのしてきたことを今だけは不問にしてやる。あんたはネイセリンなんだから、帰る居場所があってしかるべきだ。一緒に来るなら、来い。すべての決着を着けるのは、その後だ」
差し出された手を一瞥し、イオはしばらく目を伏せて血の滲んだ唇を噛む。やがて、ゆっくりとかぶりを振った。
「逃げた私に、なにが残るというの」
「あんたが残る」
トラーシィは真っ直ぐ返答し、刹那の沈黙が訪れた。
「姉さんが失ったものは大きい。でも、その築き上げた過去は姉さんだけのもので、もう選びきった手記だ。ただの記録なら、それに縛られる必要はないはずだ。未来もまた、姉の手の中にある」
ジュネクが重ねた言葉に、イオは死穢野の先の戦場を眺めた。視線の先には、きっと副皇がいる。間違っていると理解していても、引き返したくはなかった。それしかないのだと思いたかった。
「手記、か……」
冷たい空気に、呟きが解けた。
己の物語の結末を書き記すとしたら、なにがいいだろう。過ちだらけの物語の道の果ては、望みのかたちのほうが願ったりだ。
「————もう、じゅうぶんです」
そう考えると、決意は早かった。
「たったいま、居場所を見つけました。ネイセリンと言ってもらえただけで、余りある幸せをいただいています」
口許に穏やかな笑みを滲ませて「そうか」と背を向けたジュネクに嫌な予感をおぼえたラムラは、鋭く息を吸ってイオを見た。
「一緒に行こう。わたし、イオといたい」
手を伸ばすと、イオはラムラを抱きしめる。頭一つ分高い背丈の彼女が、縋る娘を強く抱擁した。
「これまでの無礼の数々、どうかお許しください。そして側仕えを辞し、身勝手な行いをすることも、お許しください」
「駄目だよ……許さない。わたしの側仕えを辞めるのも許可しない!」
「こればかりは、どうしようもないのです。私は私なりに、育った土地を思いやりたかった。それも真実なのです。たとえ邪な心が含まれていたとしても」
涙を流すラムラの頭を撫でながら、イオは天を仰ぐ。
アソカが権現樹を手にしていた。彼女たちは別のやり方で集落を再興させようとしているのだ。考えれば考えるほど、一度型にはまってしまった頭では、その再興した土地で暮らす己の姿が想像できなかった。
「私の未練に、けじめをつけさせてください」
ラムラは揺るがぬ決意を感じ取った。止めたところで、彼女は進み続ける。
「……約束して」
イオは抱擁を解き、ラムラの顔をのぞき込んだ。噎せ返りながらも己のために泣き続けてくれる存在がいるのだと、心に刻みつける。
「生きて、戻ってきて」
嗚呼、こんなにも。
「約束しかねます……ですが、おぼえておきます」
イオは初めて生まれた自然な笑みを浮かべて、ラムラから身を離した。
「————どうか、ネイセリンをよろしくお願いします」
イオはラムラたちから背を向け、死穢野を駆け抜けた。
その背を、ラムラとジュネク、トラーシィは見送った。
「イオ……」
深い息を吐き、崩れ落ちたラムラの頬に大粒の雫が流れ落ちた。頬をなぞり、落ちた雫が地面で弾け、染みこんでいく。すすり泣く声は、遠くの喧噪がかき消した。
「ラムラ、しっかりするんだ。残されたあたしたちは、ネイセリンを避難させる。それには、あんたとジュネクが必要なんだ」
トラーシィはしゃがみ込み、泣きはらした頬を両手で摑んで上を向かせる。彼女の瞳には懇願に似た覚悟の色が浮き上がっていた。
「お願いだ、窪手衆の地へあたしたちを案内してくれ。窪手衆だけが、頼りなんだ」
トラーシィの言葉が遠く聞こえた。風の音や自分の息づかいすら遠く聞こえた。
「姉さんは姉さんの意志で動いただけだ」
ジュネクの言葉がやけに鮮明な響きとして響いた。
「戦って死んでいったネイセリンは、ラムラが神威で作法通り弔ってくれた。それを見たあたしたちには、もう失った住処に未練はない。あたしは首長代理だけど、サウエの安否が不明なら皆を導く役目がある。そしてあんたもネイセリンだ」
我々の家族。
ネイセリンから託された、代え難い居場所。
悪神はラムラの神威をそのままにした。神の力を必要としているのだと言った。
だが、その力を政争に用いるのは違うはずだ。
「この戦は祝皇側の勝利で幕を閉じる」
ジュネクが考えをくみ取って口を開いた。
神威による結果を求めてしまえば、あの神さまの言うとおりになってしまう。
「ともに行こう」
イオの帰る場所も、己の帰る場所も、そして一緒に歩いてくれる人たちの帰る場所のためにも。
己が信じるもののために、思う限りの情を返そう。きっと報いは然るべきときに、しかるべきかたちで訪れるのだから。
ラムラは頷いて立ち上がった。
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