第22話「笑えない、泣けない夜も味方でいるから」

 雨は、今日も降り続いていた。

 空から舞い落ちる水滴が、石畳を小さく震わせる。

 王都の朝、いつもと違うのは、ピアウズ王子が手に傘を差して、少しだけ足取りを速めていたことだった。


 ――ここにいないはずの誰かに、会いに行くために。


「……降ってるな」


 雨粒が顔に当たるたび、ピアウズはほんの少しだけ笑みを漏らした。

 いつもは笑わないこの顔が、温かく揺れている。


 彼が目指すのは——「陽だまり」。雨の日限定で現れる人魚姫レイーアが、こよなく愛する場所だ。

 数週間前、ピアウズは静かな決意を胸に抱いた。

 レイーアが歩くために魔力を使うたび、その後に疲労を背負う姿を見るのがつらくなったのだ。


「魔力の時間制限を延ばすためには、安定した体力と睡眠が必要だろう。ならば、無理して来なくていい——でも、会える場所を安全にしよう」


 そう考えた彼は川沿いに小さな植林計画を始めた。

 柳と楠、小さなオリーブの樹を選び、川風を遮らず、でも日差しから守るやわらかな木陰を育んだ。


「ここなら、湿気があっても日差しはやわらかくなるだろう。魔力負担も減るはず」


 王子の小さなプロジェクトは、いつしか密かな町の噂になっていた。

「川沿いに木が増えた」「雰囲気がいい木陰ができた」と。


 雨の日に必ず通うルートが、安全で心地よいものになるように。

 それは恋心と相まって、誰にも知られず、少しだけ道を変えた優しさだった。

 それからしばらく、ピアウズは毎週決まった時間に、木陰を通って「陽だまり」へと傘を揺らした。

 その日の風景も、いつもの香りも、いつもの店主も、すべてがレイーアのために用意された劇場のように感じられた。


 しかし心のなかでは、晴れ間のような、自信と隣り合わせの焦りが広がっていた。


「晴れた日が3日以上続くと、ため息ばかり出てしまう……」


 そんな彼の苦悶に、バウアーとアンナはこっそり茶を噛んで笑いながらからかった。


「王子、もはや雨乞い始めましょうか」


「アンナ、そこまでして雨頼みたくないんじゃないか?」


「まぁ……結婚して人魚国と提携すれば、雨も降りやすくなる……?」


 バウアーが真顔で呟いた。


「……国と僕の恋は、関係ないんだ」


 ピアウズは胸を張った。

 愛と政治は違う。シャケの皮と卵焼きと、雨に咲く笑顔を、自分一人で掴みたいのだ。

 ある週末、王国会議の調整や街の準備事案が重なったにもかかわらず、驚異的な集中力と気力で乗り切ったピアウズ。


“いつも通り”に翌朝には陽だまりへ足を運んだ。


「今日、降ってるがあまりにも雨足が強い。彼女は大丈夫だろうか」


「“雨模様の恋”が続いてるからでないっすかね」


 絵留の軽口に、ピアウズはくすりと笑った。その時、ちょうどタイミングを見計らったかのようにレイーア姫がやってきた。土砂降りの雨だというのに、濡れた髪が一層美しさを引き立たせる。


「今日もまた、来てくれた…」


ピアウズはラミスからそっとタオルを借り、レイーアに差し出した。


「ありがとう。あなたの顔を見に来た。いつもあなたの食べっぷりが好きなんだ」


 姫はほんの少しだけ照れながら言った。


 二人はそれぞれ


「卵焼きを、甘いのと、しょっぱいの両方。それだけでいいよ」


「鮭定食、シャケの皮を追加トッピングで」


 と注文し、二人はゆっくりと朝食を味わいながら、時折目が合うと頬を赤らめていた。


 そんな甘酸っぱい様子に、常連の客たちもなんだかほんわかとした気持ちになっていたのだ。


 そして会計も終わり、店の外へ出た二人。レイーア姫はような表情でピアウズを横目で見つめていた。


 そんな彼女を見て、ピアウズは一歩足を詰めた。


「かっ…帰りは、僕に任せてくれ」


 勇気を出した彼は、そっとレイーア姫の手を握ったのである。


 その言葉に、行動に、彼女の目に小さな涙が光った。自分の気持ちが、溢れそうになる。それを必死に抑えようとした。


 雨に濡れた木陰を一緒に帰り道。ピアウズはずぶ濡れになりながらも、優しくエスコートしていた。


「あの、傘は?」


「えと…その…、店につく直前に壊れたんだ。だから、気にしないで」


「ね、もうここまででいいよ?あなたは人間…身体が冷えれば病気になる」


「……今日は、ただ君と同じ雨に濡れて歩きたかった。それに僕はこう見えて鍛えている!」


「ピアウズさん……」


ピアウズは立ち止まり、一度深呼吸すると、レイーアに向き直った。


「僕は、君と——姫と過ごす日々が何よりも大切だと思う。国も、立場も関係ない。ただ……君が、好きだ」


 ピアウズは小雨になってきた雨が顔を流れても、一切瞬きせずにレイーアを見つめて言った。


「私…私は人魚なんだよ?住む世界が違う」


「関係ない。好きだ」


 小雨が上がった。


「未だに王国と人魚国は提携していないし、きっと大変な目に遭う」


「関係ない。好きだ」


 曇天が薄くなる。


「私っ…だって私っ…!」


「関係ないっ!好きだぁぁあああ!」


 太陽と青空がやってきた。去っていく雲の隙間から、二人を陽射しが優しく照らす。


 ピアウズは、力強く、だが割れ物を扱うかのように優しくレイーアを抱きしめた。二人の耳には、お互いの緊張した心臓の音だけが聞こえてくる。


 レイーアは溢れ出る涙を我慢しないことにした。全て自分の気持ちに素直になり、受け止めた。


「だったら、私から言っちゃおうかな——」


 レイーアの声は震えていたが、強く真っ直ぐだった。


「私は……ピアウズさんとずっと一緒にいたい。だから……結婚してください!」


 ――その言葉は、たった一言だった。

 でも川面が揺れるように、深く、王子の心には響いた。


「あっ…あはは!僕が言わないといけないはずなのにねっ」


 その一瞬、ピアウズは笑って涙を落とした。


「結婚しよう!」


 やわらかな木漏れ日のような笑顔を交わした。二人の影が、そっと重なった。


 川沿いの小さな植林が、陰陽の恋をそっと祝福するかのように、風に揺れている——


「……これからは、晴れの日も一緒に来られる?」


「もちろんだ。いつだって——君となら、雨の日でも晴れの日でも。」


 木陰を通る風に紛れて、二人の笑い声と約束が交わされた。

 シャケの皮と卵焼き、そして雨の中で始まった異種族の恋に、ついに二人は同じページを開いたのだった。


閉店。

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