急転

「そういえば、さっきルーシャと呼ばれていましたけれど。可愛らしい響きですね。」

市場をみまわり、ゆっくりと宿までの道を歩きながら、ふとミシェルは先ほどのことを思い出した。


「ああ。この地方では仕事でもお互い愛称で呼ぶことが当たり前なんです。俺もセルゲイのことはセリョージャって呼んでますし、アーニャの本名はアンナです。」


「なんだかそれだけで人との距離が縮まって素敵ですね。イスカの方々が温かい理由が分かった気がします。」


「生まれた時からこれが当たり前なので、改めてそう言われるとちょっと照れくさいですけどね。ミシェル嬢だったらそうだな…。」


ルスランは顎に手を当ててしばらく考えると、屈託のない笑顔で「ミーシャ。」と呼んだ。

不意打ちの呼び捨てで赤面する彼女につられて、ルスランもすみません、と顔を赤らめた。


しばらくなんともいえないムードになり、どうしようかとミシェルがまごついているとルスランが「あっ。」と声をあげた。

「待ってください。探しているルネと言う方は女性ですか?」

ミシェルはそう聞かれて、祖母との会話を思い出した。


「確認していませんが、祖母の交友関係から考えててっきり女性だとばかり思っていましたけど。」

「もしルネが愛称だったとしたら…男性という可能性もあります。」

「えっ…?」


二人の間に沈黙が流れた。同じことを考えて、先に口を開いたのはミシェルだった。

「若い頃に亡くなったそうですが、もしそのルネと言う方が男性だったとしたら…。」

「かなり親しい間柄だったのかもしれないですね。」


親しくしていた女性ならば、埋葬された場所がわからなくても、彼女の生家なり嫁ぎ先なりがわかっていたはずだ。

何も知らないということは、祖母の中で一度は消した過去だったのではないだろうか。


加齢による記憶の混濁が始まらなければ出てこなかったかもしれない名前。それを今更探し当てて本当にいいのだろうか。

ミシェルの心に迷いが生じはじめていた。


「ニワトコの生垣の教会に5つ並んだ墓石。60年前に亡くなったルネという若者…。男性ならば、一か所だけ心当たりがあります。今から行くには遅いので、明日になりますが。」


祖父母は政略結婚だったと聞く。結婚する前に想い人がいたとしても不思議ではない。

祖父は、厳格で寡黙な人だったが、声を荒げたり手をあげるようなことはしなかったし、二人は夫婦としてお互いを信頼していたように思う。


ルネも祖父も亡くなって、祖母だけが残った。その祖母が、はっきりした声で探してくれと頼んできたのだ。

探し当てて後悔するより、なにもせずに帰るほうがきっと後悔するだろうし、今更何かが壊れるわけではない。ミシェルは覚悟を決めた。


「案内をお願いしてもよろしいでしょうか?」

「もちろん。」


楽しかった休日から一転して、墓地探しは山場を迎えようとしていた。


 

翌日、二人はネズヴァル家の馬車に乗って街から離れた場所にある墓地へとやってきた。

小高い丘の上にあり、周囲に教会はない。

敢えてそうしているのだろう、小高い木やニワトコでぐるりと墓地を囲んで目立たないようになっている。

一か所だけ生垣が途切れた場所からは、陽光にきらめくイスカ湖が見えた。


「ここは、ネズヴァル家が当時のイスカ騎士団の殉職者たちのためにもうけた場所なんです。イスカ大聖堂に慰霊碑があるので、そこに埋葬されたと勘違いされるのですが、英雄レナトゥスもここに眠っています。

彼は、当時のネズヴァル家の当主の弟だったんです。そしてレナトゥスの愛称は…」


「ルネ、なんですね。」


二人の間にはサワサワと葉擦れの音だけが響いていた。

祖母に確認していないが、おそらくこれが真実なのだろうとミシェルは目を瞑った。


「英雄と呼ばれる前から、彼には紛争中だというのに山ほど縁談が届いたそうですよ。だけどレナトゥス…大叔父は誰とも結婚しなかったそうです。」


ーあなたはなんのしがらみもなく、好きな人と結婚しなさいね。


いつかの祖母の言葉が思い起こされて、ミシェルは口元を覆った。

あれは、娘が駆け落ちをしてしまった後悔からだけではなくて、好きな人と結ばれることがなかった過去を振り返って出た言葉でもあったのだ。


恋人と引き裂かれ、先立たれて、それでも嫁ぎ先で凛としてふるまっていた祖母イルゼ。そんな彼女を受け容れて、生涯を共にした祖父。

たとえレナトゥスと血のつながりはなくても、彼らの軌跡の先に自分がいる。

目の前に眠るこの人のが、とても他人だとは思えなかった。

ミシェルは長い間彼の墓の前で祈りを捧げ続けた。


「ありがとうございました。」

彼女が膝を折っている間、傍でしずかに待ち続けたルスランは

「大叔父も喜んでいると思います。」と答えた。


「これで祖母の待つ家に帰れます。」

晴れやかに笑うその顔に、ルスランは胸が締め付けられる思いがした。


ああ、そうか。自分は彼女に恋をしていたのだ。

今まで誰かを本気で好きになったことがなかったから、ずいぶんと気付くのが遅くなってしまった。

このまま別れたら、二度と彼女には会えない。

領主の息子とはいえ家督を継がないただの騎士に、彼女を引き止めるだけの資格があるだろうか。


彼女は市井での自立を目指すといってはいたが、王都にもどれば相応の縁談が舞い込むのだろう。

その中に、もしかしたら彼女の心を動かすにふさわしい男がいるかもしれない。


ルスランは差し出しかけた手をひっこめると、ぐっと拳をにぎりしめた。

「出立はいつになりますか?よければ最後に見送りをさせてください。」


お墓が見つかればすぐに王都に帰る。

分かっていたことなのに、いざルスランにそう聞かれるとミシェルは答えにつまった。


まだここに残っていたい。

もう少しだけ。そばにいられるだけでいい。

彼の隣にいる時が、一番自分らしく生きられるのにー

けれど、ミシェルには帰らなければならない場所があった。


「明日の午後の馬車で戻ります。」

「そうですか。」


無事に目的が達成されたというのに、二人の声は暗い。

お互いそれには気付かないふりをして、しばらくの間ふたり並んでイスカ湖を眺めるのだった。

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