久保川弥七のしあわせについて

 このマンションのこと? 佐藤さんと明野さんのところに行ってきたんですか?

 ……いえ、ちょっと、怖いんですよね、彼女たち。とくに……佐藤さん。いや、男から見ると、どうもね……。


 うちはいじめたりはしていませんよ! タロ、ブン太、茶々。子どものころから僕と一緒にいてくれた、愛犬たちです。……くっつけちゃったのは、しかたないじゃないですか。このマンション、ペットは一匹までだし。どの犬も大切で、選べなかったですし。


 ……よしよし。いい子だなぁ。あ、この口と舌は茶々のです。鼻がピンクでしょ。この歯と足は、ブン太。肉球が黒いんです。こっちの鼻としっぽはタロ。

 みんな雑種犬ですよ。今はミックスっていうらしいですね。


 出身が田舎でね。みんな外飼いの番犬でした。俺は小学生のころ、体が小さくてよくいじめられてたんですけど、いじめっこに猛然と吠えて助けてくれたりして。俺の大事な家族で、友達です。みんな。


 *


 久保川さんは、彼の横に寝そべる毛の塊を愛おしげに見つめながら、その手触りを楽しむように撫でさする。それはくぅん、と犬のような声を出して、手の甲にすり寄った。

 飼い主と犬の心温まる触れ合い。素直にそう思えないのは、見た目のせいだろう。

 

 ぱさついた茶色、黒、白の毛が、地肌の八割程度を覆っている。毛の生えていない部分のところどころに薄桃色をした地肌が見えたり、もっと生々しい――表皮の下にあるべき筋組織が露出していた。

 ときおり白っぽい石のようなものも頭を出している。おそらくは、骨だろう。

 

 犬の目、鼻、耳、口、歯――三体分のそれが、ばらばらに配置されている化け物――そうとしか言い得ない見た目のそれは、潤んだ黒目でじっと、健気に久保川さんの顔を見つめていた。


 *

 

 ちょっと前までサラリーマンだったんですよ、俺。新卒で、初任給に目がくらんで入った先がブラック企業で、順当に病んで。気づいたら布団から起き上がれなくなってました。

 電気もつかない部屋の中で、ずっと泣きながらごめんなさいって謝る日々が続いて……死のうとするのは時間の問題でしたよね。


 で、ちょっと調子の良い日に、力を振り絞って、近所の廃ビルに這い上がって。

 その時、こいつらの遺骨も持っていきました。

 死ぬときに、昔飼ってたペットが迎えにくるっていう漫画をSNSで見てね。そうだといいなぁって思ったんで。

 はは、ロマンチストですね。恥ずかしい。


 でも、いざ屋上から下を見ると……怖いわけですよ、やっぱり。そこで躊躇してるときに、大善さんに声かけられた。

 

 彼女、ボロッボロな俺の話、聞いてくれたんです。……自分も死にたいと思ったことがあるから、って言ってました。天使みたいな人ですよ。俺にとっては。


 で、このマンションに来たっていうわけです。 

 

 ん? ああ……そうですよねぇ。古今東西、どんな物語だって、死者をよみがえらせるなんて、簡単にできるわけないですよねぇ。漫画でだって「等価交換」なんて言ってるくらいだし。


 俺は、自分なんかどうなってもいいから確認してなかったんですよ。でも、ひょんなことからわかちゃったんでっすよね……。代償、ってやつが。

 

 半年前かな? ずっと家の中なのもかわいそうかなって。こいつらを抱っこして、マンションの前のベンチで日向ぼっこしてたんです。あのあたり、人通りなんて滅多にないから。

 そしたら、知らない女の子がふらっと現れて。小学校……高学年くらいかな。

 

 びっくりした顔してましたけど、こいつらに興味をもったみたいです。生きてるのって聞かれたから、そうだよって言って。撫でていいって聞かれたから、いいよって言いました。

 

 その子はおずおずと手を伸ばして、ブン太の鼻先に触れて、茶々の額を撫でた。タロの舌が、彼女の手をペロッと手を舐めました。

 嬉しそうにしてましたよ。動物好きなんだって。


 しばらく撫でてたんですけどね。五分くらいたったころかな。「あれ?」って上を見上げたかと思うと、彼女の眼球がすごい勢いでぐるぐる動いて。

 そのまま勢いよくばたんって倒れちゃったんです。まるで、糸がきれたみたいに。

 

 慌てて助け起こしたんですけど、びっくりするくらい死んでました。あはは。

 

 死体って、全然生きてる人間とは違うんですねぇ。もう、全然、体から出るオーラが違う。心臓の音や呼吸なんて普段意識してないんですけどね。なくなると、ものすごく違和感がありました。それが「死」っていうことなんでしょうね。


 大善さん曰く、「こうなった人間の魂は戻せない」っていうことで。かわいそうですけど、体は肉の木にお供えしました。

 申し訳なかったな。そうなるって知ってたら、触らせなかったんですけど。


 あ、えっと、だから言いたいのは。多分、こいつらに触るたび、吸い取られてるんですよ。寿命とか、生気とか、そういうのが。俺も、佐藤さんや、明野さんも、きっとね。

 

 でも俺はこうして生きてる。吸われてるのはどのくらいの量なんでしょうね。俺が八十くらいまで生きるとして、ここで暮らした一年分、どのくらい吸われてるのかわかりませんけど。

 まあ、いいです。もう、こいつらのいない人生、生きていけるわけないんですから。

 

 俺より遥かに余命の長そうだったあの子が、すぐに倒れちゃったのは気の毒ですけど。でもきっと、寿命だったんですよ。放っておいても、近いうちに死んでたんじゃないですかね。事故とか、そういうので。仕方ないことだったんです。かわいそうにね。

 

 ――知瀬さんも、撫でてみますか? ふわふわで、かわいいやつらですよ。ああ――しあわせだ。


 *


 久保川さんの背後、部屋の片隅に、小さな机が置いてある。写真立てと生花の置かれたそれは、簡易な仏壇のように見えた。

 

 写真の中で微笑む、あどけない少女。それは私がこのマンションに訪れた初めの日――「探しています」という文字の書かれた、貼り紙の写真と同じものだった。

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