第九話 叶斗という男、あるいは生首
餌やりという名の食品廃棄を終えた李衣は、帰るのかと思いきや、じっと私の顔を見つめ、井戸のそばから動こうとしない。
「……ねぇねぇ、ちーちゃんはさ、いつもお化粧してないよね? 嫌い?」
「……嫌い、というわけでは……。両親が厳しかったので」
「じゃあさ! 李衣がお化粧してみて良い!?」
「え?」
「李衣ね、お化粧のお仕事したかったんだぁ。メイクアップアーティストっていうやつ。専門学校にも通ってたんだよ。中退しちゃったけど」
マスクの上で輝く瞳が、まっすぐに私を見つめている。
これまでの人生でされたことのない申し出に面食らう。だけど、断るための適当な理由もなくて、私は戸惑った。
無言を拒否と捉えたのか、李衣は不安げな上目遣いで私の顔を見つめる。
そういう顔には――弱い。
「……ダメ、かな?」
「い、いえ、ダメではない、ですけど……」
「やったー! ちょっと待っててね。道具取ってくるから!」
ぱっと華やいだ表情になった李衣は、大はしゃぎと言った様子で駆け出していく。弾んだ足音に取り残されて、私はようやく自分がパジャマのままであったことに気がついた。
寝室に戻り、着替えを済ます。適当なトレーナーに、デニムのロングスカート。両親が他界してから切っていない髪は普段より長く、鎖骨の下当たりまで伸びている。
化粧以前に、ここしばらくは見た目のことなど気にもとめていなかった。
もう、外見について、両親からとやかく言われることはない。けど、今更自由になっても、自分がどうしたいかなんて段階は、とっくに過ぎていた。
カタン
突然背後から音が聞こえ、私は慌てて振り返る。
「……あ、どうも」
外に面した窓ガラスの向こうから、白に近い金に髪を染めた若い男が、気まずそうに覗いていた。
悲鳴を上げそうになった口を、すんでのところで手で抑える。幸い窓の鍵は掛かっているが、その気になれば窓くらい割れる。逆上されたりしたら、危険だ。
「違うんです違うんです! 着替えが覗きたかったわけではなく!」
しかし、怯える私に向かって、男はものすごい勢いで首を振る。
「あの、管理人さん? ッスよね、ここの」
「……はい」
情けなく眉を下げて尋ねる彼に、悪意はなさそうに見える。私は少し胸を撫で下ろして、問いかけに頷いた。
改めて顔をよく見てみるが、こんな住民はいなかったはずだ。では、宅配業者か、入居者の誰かの関係者だろうか。
「オレ、
「ああ……李衣さんの」
――ちーちゃーん、お化粧道具、持ってきたよぉ
タイミングを見計らったように、玄関から李衣の声が私を呼んだ。
叶斗は彼女を探しに来たのだろうか。では彼女を呼んだほうがいいのか。
そう尋ねようとした矢先、私の耳は深く息を呑む叶斗の声を拾い上げた。
叶斗の顔を見る。彼は李衣のいる方向を凝視して、目を剥いていた。その瞳孔は開ききっていて、顔は蒼白だ。白い肌を極限まで白くしてガタガタと、顔全体を揺らしている。震えている。
尋常な様子ではない。明らかに、彼は恐怖していた。
「あの、大丈夫ですか?」
「……助けてください」
「え?」
「オレを……あの女から……助けて……」
叶斗の両目から、ぼろぼろと涙が落ちる。目元に化粧をしているのか、アイシャドウが黒いラインになって流れていく。
「助けて? 何かされてるんですか? ……警察、呼びますか?」
「マスクの下」
「あの」
最後に一言そう言って、叶斗は消えた。
慌てて窓に駆け寄るが、彼の姿はどこにもない。そして私は、ようやく一番の違和感の正体に気がついた。
ここは二階だ。窓の外は、バルコニーのようにせり出しているので、成人男性ならば、脚や腕の力でなんとか這い上がれるだろうが――
……腕?
さっきの叶斗の顔を思いだす。ずっと顔だけが見えていた。バルコニーにしがみつくなら、角度からして腕が見えていないとおかしいのに。
不自然に、顔だけが現れて、消えた。
背筋に薄ら寒いものを感じ、私は慌てて階段を駆け下りる。玄関では李衣がにこにこと笑いながら、両手にメイク道具の入ったポーチを抱えていた。
――李衣ねぇ、彼氏と同棲してるんだよぉ。叶斗って言ってね。もともとはホストで李衣が姫だったんだけどね。ずーっと好きでいたら、付き合えたんだぁ。
叶斗はね、元ナンバーワンなんだよ。年間三億も売ったすっごいホストなの。顔もかっこいいしとっても優しいから当然だよね。それでもね、今は李衣一筋なの。えへへ、ずっとずっと、諦めなくてよかったなぁ。親にも友達にも反対されたけど、今の生活が李衣はね、とっても、とっても……
幸せなんだあ――
彼女が常につけている黒いマスクごしにも、彼女が蕩けるように微笑んでいるのが、よくわかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます