第20話:静寂の裂け目

 早朝の街に、かすかな振動が広がった。湿った冷気が肌を刺すように漂い、薄曇りの空の下、街は静まり返っていた。


 風音 凛は、路地裏の暗闇に身を潜めながら耳を澄ませる。彼女の魔法——音波操作——を使い、事件現場の内部の会話を盗み聞いていた。通常、音を拾える範囲は半径数十メートル。しかし、今朝は意識を集中し、その範囲をさらに広げた。


「調査を進めた結果、この人物は“焔堂 陽炎(えんどう かげろう)”と判明しました。指名手配中の犯罪者です。殺人の前科があり、さらに警察官数名の殺害に関与している可能性が高いとみられています。ただし、これらの事件の死因がいずれも“異常な低体温”によるものであり、従来の捜査手法では決定的な証拠が得られず、確定には至っていません。」


 事件現場の近くで交わされる声が、脳内に直接響く。凛は目を閉じ、音の波に集中する。警察の会話は細かいノイズの中に埋もれ、一定のリズムを持って耳に届いてくる。


(やはり、警察も気づき始めている……)


 凛は心の中でつぶやく。このまま情報を集めれば、他の魔法使いの動向を掴めるかもしれない。魔法使いの名前が出る可能性もある。


 そのときだった。


 急に音が聞こえなくなった。


(……何?)


 まるで世界が一瞬、静寂に包まれたかのようだった。事件現場の音に集中していたため、周囲の異変に気づくのが遅れた。耳がふさがれたわけではない。むしろ、音の流れが不自然に変化している。


 ——ズゥゥゥゥゥン。


 地面が微かに震える。壁に伝わる振動が、まるで心臓の鼓動のように脈打っていた。静かだが、確実に何かが近づいている。


(誰かが、この振動を……?)


 一瞬、全身の血が凍る。


 凛の魔法は「音波を操る」ことであり、それが無意識のうちに空気や地面に微細な振動を引き起こすこともあった。そして、それを察知できる能力を持つ者がいる。


 轟 創——振動を操る魔法使い。


(まさか、感知された……!?)


 路地の奥、薄暗い街灯の向こう側に、一人の男の影が立っていた。


「……お前か。」


 重い声が、朝の静寂の中で響く。


 轟 創は、じっとこちらを見つめていた。その目には、驚きも焦りもない。ただ静かに、確信を持っていた。彼は、音を感じ取るように足元に触れる。そして、次の言葉をゆっくりと発した。


「無駄なことをしているな。お前の音は、俺の振動を通してすべてわかる。」


 凛の背筋に冷たい汗が流れた。すでに逃げ場はない。轟 創は、一度察知した「振動」を逃がさない。


(どうする……戦うしかないのか? いや、それよりもまず逃げ道を探すべきだ。)


 凛は逃げる手段を探しながら、反射的に音波を放った。衝撃波が空気を震わせ、周囲の壁や地面にぶつかる。


 次の瞬間、建物の窓ガラスが一斉に砕け散った。警報がけたたましく鳴り響き、瓦礫が地面に落ちる音が混ざる。周囲の物が悲鳴のような音を立てながら崩れ落ちた。


 しかし、その音の余波が地面に届くや否や、轟 創の足元から広がる振動に吸収される。波紋が水面に溶けるように、凛の音波は完全にかき消されていった。


 さらに、増幅された振動が壁や建物を伝い、凛に跳ね返る。しかし、凛は素早く音波を操作し、干渉波を発生させることで衝撃を相殺した。


 手元には武器もなく、頼れるのは自身の魔法だけ。しかし、それを見越していたかのように、轟 創は無言で地面を踏みしめる。


 その動きと同時に、凛が放った音波のエネルギーが逆流するように拡散する。衝撃が全身を包み込み、鼓膜がビリビリと震えた。息が詰まり、思わず片膝をつく。


 ——ゴゴゴゴッ……。


 静寂が破れ、地面が低く唸る。足元がわずかに沈み込み、空気が張り詰める。


「始めようか。」


 朝焼けの薄明かりの中、音と振動の戦いが、今始まろうとしていた——。


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