第5話:残された時間
悠斗は静かに病室の扉を開いた。窓から差し込む淡い陽の光が結衣の顔を照らしていた。彼女は相変わらず意識を取り戻していない。人工呼吸器の一定のリズムが、悠斗の鼓動と重なる。
「……おはよう、結衣。」
返事がないことは分かっていたが、それでも言葉をかけずにはいられなかった。彼女の手をそっと握ろうとしたが、ためらった。だが、躊躇っている時間はないと自分に言い聞かせ、意を決して彼女の手を握った。結衣の手は冷たかったが、わずかにぬくもりが残っている気がした。
「悠斗くん、また来てたの?」
振り向くと、美咲が病室の入り口に立っていた。手には小さな花束。
「そりゃ、来るさ。」悠斗は軽く肩をすくめる。
「でも、悠斗くん、少し疲れてない?」
「……大丈夫だよ。」
悠斗は思わず視線を逸らした。美咲は鋭い。少しでも弱みを見せると、心配されてしまう。だが、本当は大丈夫なんかじゃない。彼女を救う手立てが見つからないまま、時間だけが過ぎていく。
「医者から話を聞いたけど、結衣の状態は変わらないって。」
「ああ。安定はしてるけど、原因が分からない以上、良くなる見込みもないってさ。」
悠斗の声は硬かった。医師の言葉はまるで凍える刃のように心をえぐる。何もできないまま待つことしかできないという現実が、悠斗の焦燥を募らせた。
美咲は悲しげにうつむきながら、結衣の顔を見つめた。
「悠斗くんも無理しないでね。」
「……ああ。」悠斗は小さく頷いた。
美咲はしばらく結衣の顔を見つめた後、静かに花瓶に花を生けた。
「また来るね。」
「うん、気をつけて。」悠斗はそう言い、軽く手を挙げた。
美咲が病室を出て行くと、悠斗は一度、深く息を吐いた。
(俺には、もう後がない——。)
彼は最後にもう一度結衣の顔を見つめ、病室を後にした。
病院を後にした悠斗は、河川敷を歩いていた。歩く人々の喧騒の中に、自分だけが異質な存在に思えた。
「魔法を使うには運動エネルギーを供給しなきゃならない……。」
悠斗は思考を巡らせる。ラプラスの話を聞いた時は半信半疑だったが、実際に魔法を発動させた時、その法則が確かに存在することを実感した。
「つまり、魔法を使うには、事前に運動エネルギーを蓄えておく必要がある。」
悠斗は試しに思い切り駆け出した。数メートル全力疾走し、止まると同時にベクトル操作を試みる。だが、力は上手く発動しない。
「ダメか……。体力を消耗するだけで、これじゃすぐに限界が来る。」
次に、動く車を観察した。信号待ちで停車している車が、青になると一斉に動き出す。これを利用できないかと考えた。
「車の運動エネルギーを利用できれば、もっと効率的に魔法を使えるはずだ……。」
しかし、試しに手を伸ばし、通り過ぎる車のエネルギーを感じ取ろうとしたが、何の変化もなかった。
「くそ……他の物のエネルギーを、どうすれば取り込める?」
悠斗は唇を噛んだ。自分の中にあるエネルギーを解放することはできても、周囲のエネルギーを意図的に利用する手段が分からない。戦うためには、何かしらの方法を見つけるしかない。
結果が現れたのは、突発的な事故が、悠斗のすぐ目の前で起こったときだった。悠斗が街を歩いていると、工事中のビルから突如として鉄骨が崩れ落ちてきたのだ。上空から突如響く金属の軋む音に、周囲の人々が一斉に顔を上げる。「危ない!」という叫び声が飛び交い、誰もが我先にと逃げ出した。母親に手を引かれた幼い子供が転びそうになり、若者が慌てて支える。中にはその場で立ちすくんでしまう人もいた。周囲の人々が悲鳴を上げて逃げ惑う中、悠斗も反射的に身を引き、手で前方を防御した。
「……!」
その瞬間、悠斗の手のひらに何かが伝わってくる感覚があった。鉄骨が地面に叩きつけられる直前、まるで見えない力に引き止められたかのように、鉄骨は不自然に停止した。まるで何かがエネルギーを吸収し、衝撃を消し去ったかのように、鉄骨は跳ねることなく沈黙した。周囲の人々が息をのむ中、誰一人として鉄骨の直撃を受けていないことに気づき、ざわめきが広がった。「今の……何が起こったんだ?」「跳ね返らずにそのまま止まった?」と、困惑した声があちこちから聞こえてくる。近くにいた作業員が何度も鉄骨を確認し、「奇跡だな……」と呟いた。悠斗は自分の手のひらに未だ残る不可解な感覚を確かめながら、信じられないようにその光景を見つめた。
「これなら……使えるかもしれない……!」
悠斗は再び、ベクトル操作を試みた。今度は、わずかではあるが、手のひらに違和感を覚えた。
「これが……魔法を発動させるための運動エネルギーか。」
だが、問題は安定性だった。この方法では、常に高所や落下物を用意しなければならない。実戦でそんな余裕はない。
「効率よくエネルギーを集める方法を見つけなければ、まともに戦えない。」
悠斗は深く息を吐いた。
結衣を救うためには、戦わなければならない。だが、戦うためには、自分の力を使いこなす方法を見つけなければならない。
悠斗は再び歩き出した。
迫る戦いに向けて、残された時間は少ない——。
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