ラプラスの遊戯
るいす
第1話:異変
会社からの帰り道、結城 悠斗(ゆうき ゆうと)は山本 結衣(やまもと ゆい)のことを考えていた。
(次の週末は結衣と久しぶりに旅行に行こう。そう決めていた。箱根なら、温泉も観光も楽しめるし、結衣も喜ぶだろう)
結衣とは付き合って三年になる。明るくて、少し天然なところもあるけれど、どんな時でもそばにいてくれる存在だった。忙しい日々の中で、彼女の笑顔や何気ない言葉が、悠斗にとってどれほどの癒しになっていたか、言葉では言い尽くせない。仕事で疲れて帰った日、彼女が作る温かい料理と、他愛もない会話。そんな何気ない日常が、悠斗にとっての幸せだった。
結衣との出会いは、三年前の春だった。桜が舞う公園で、迷子になった子供を一緒に探したのがきっかけだった。彼女の優しさと行動力に惹かれ、何度か会ううちに自然と距離が縮まった。二人で見た夜桜、初めてのデートで行った映画、クリスマスに一緒に作ったケーキ——すべてが宝物のような思い出だ。
最近はお互い仕事が忙しく、デートの回数も減っていた。だからこそ、次の週末の旅行は、二人にとって特別な時間になるはずだ。箱根の温泉でのんびり過ごし、自然の中を散歩し、美味しいものを食べて笑い合う。そんな時間を思い描きながら、悠斗は自然と笑みを浮かべた。
夕焼けに染まる街を歩きながら、彼女の笑顔を思い浮かべる。忙しい日常の中で、彼女と過ごす時間は何よりの癒しだった。だが、その平穏な日常は、一本の電話で一瞬にして崩れ去った。
スマホの着信音が、夕焼けに染まる街並みに不釣り合いなほど鋭く響いた。悠斗は歩みを止め、ポケットからスマホを取り出す。画面に表示されたのは、『東都総合病院』の文字。
心臓が、ドクリと跳ねた。
鼓動は一瞬で速まり、指先が震える。『病院』という単語が、現実を非現実へと変えてしまう気がした。まさか、何か悪い知らせでは——そう考えた瞬間、指が勝手に通話ボタンを押していた。
「もしもし、結城さんですか?」
電話口の向こうから、聞き覚えのある声がした。病院からの電話なのに、話しているのは結衣の友人、美咲だった。声はひどく動揺し、何を言っているのか最初はうまく聞き取れない。
「美咲? どうしたんだ、結衣は?」
「ゆ、悠斗くん! それが……結衣が……その、急に……っ!」
美咲の声は涙交じりで、言葉にならない。その必死さが、悠斗の胸をさらに締め付けた。
「落ち着いて、美咲。結衣がどうしたんだ?」
「……運ばれたの……救急車で……!」
「え……?」
『運ばれた』という単語が耳に届いた瞬間、悠斗の全身から血の気が引いた。
「今どこだ!? 結衣はどこにいる!?」
「東都総合病院……集中治療室に……!」
美咲の言葉を最後まで聞く前に、悠斗は駆け出していた。タクシーを捕まえ、病院へ向かう道中、胸の中には不安と焦燥が渦巻いていた。車窓から見える街並みは、いつもと同じはずなのに、彼の目にはモノクロの映画のように映り現実感を失っていた。
(まさか……)
最悪の事態が頭をかすめる。だが、すぐにその思いを振り払った。
(結衣に限って、そんなことはあるはずがない)
そう信じたかった。
病院に到着し、受付に名前を告げると、すぐに集中治療室へ案内された。白い壁、無機質な機械音。悠斗の足音だけが、廊下に響く。消毒液の匂いが鼻を刺し、空気は張り詰めていた。
(頼む、無事でいてくれ……!)
扉を開けた瞬間、ベッドに横たわる結衣の姿が目に飛び込んできた。蒼白な顔、弱々しい呼吸。まるで、命の灯が消えかけているようだった。
「結衣!」
悠斗は駆け寄り、彼女の名前を叫んだ。
「しっかりしてくれ、結衣!」
だが、返事はない。悠斗の声は、空虚に病室へと吸い込まれていく。
「一体、何があったんですか?」
悠斗は担当医に詰め寄った。石川と名札をつけた医師は、困ったように首を振る。
「原因不明です」
「……原因不明?」
「はい。検査の結果、どの臓器にも異常は見つかりませんでした」
信じられない。そんなことがあるはずがない。
「もっと詳しい検査をすれば、何か分かるはずです!」
「もちろん、あらゆる検査を行いました。しかし、やはり原因は特定できませんでした」
「……そんな」
頭が真っ白になる。医師は申し訳なさそうに続けた。
「現在、山本さんはいつまでもつのか分からない状態です」
「……っ!」
集中治療室の前で、悠斗は立ち尽くした。結衣の顔は、痛みに耐えているように眉をわずかに歪め、唇は血の気を失って青白く乾いていた。かつての柔らかな温もりは、まるで遠い夢のように感じられた。悠斗はその冷たさに触れることさえ恐れ、ただ彼女の名を何度も心の中で叫ぶしかなかった。
(嘘だ……。こんなの、現実じゃない)
何度も頬を叩いた。だが、現実は変わらない。『原因不明』、『意識不明』——その言葉が、悠斗の脳裏を駆け巡る。
(結衣……!)
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