まさかの新学期。

色んな国の色とりどりの万国旗が空を彩る。


忙しない音楽に、声援が広がる。



──これは、幼稚園の運動会。



競技の最後を飾る、年長さんによるリレー。



あか組としろ組に分かれた、あか組。


あたしの順番は最後から2番目。



あたしの前のまやちゃんが走り出して、コースへと出る。



受け取ったバトンのリードを広げ、一番を走り抜けていくまやちゃん。


こっちへと向かってくるにつれ、ドキドキと鼓動が速くなる。



大丈夫かな。

追い付かれずに走り切れるかな。



そんな迷いを抱えていると、あっという間にまやちゃんは走って戻ってきて。



「ひなちゃん、がんばって!」



伸ばした手のひらにポンとバトンを乗せた。



「うん!」



大きく頷いて、走り出す。



大丈夫。

いっぱい練習したもん。


絶対最後まで逃げ切れる。



──そう信じて頑張ったのに、



「あっ!」



踏んだ土が悪かったのか、ずるっと足が滑って。


あたしはズサっとそのままこけてしまった。



「っ……」



『どうしよう』と、不安に顔を歪めながらも立ち上がる。


だけどすぐに後ろまで迫ってきていた子が、あたしを追い抜いて。



「がんばれー!」


「ひなちゃん、がんばってー!」



沢山の声があたしを応援してくれている。



『頑張らなくちゃ』と思う気持ちとは裏腹に、一生懸命足を動かしているのに、どんどん距離は開いて。



「っ、ごめんっ!」



今にも涙が溢れてしまいそう。


振り絞るように精一杯の声を出し、あたしを待っていたアンカーの男の子にバトンを渡した。



「大丈夫」



ひと言微笑んで声をかけ、走り出した男の子。



とっても綺麗なフォームでグングンと差を縮め、前を走っていたしろ組の男の子に近付く。



そして──。



真横に並んだふたり。


真っ白なゴールテープを先に切ったのは、赤い帽子を被った男の子。




ハアハアと息遣いが聞こえそうなくらい、膝に手を当て肩で呼吸をする。


そして、思い出したように顔を上げ、あたしに向かって満面の笑みでピースをした。



その瞬間、フワッと大きく風が吹く。




太陽のようにキラキラ眩しい。


その男の子は──。



「──……」



ぼんやりとした視界。


ゆっくりと目を開いたあたしは、カーテンから透ける陽の光に朝が来たことを知り、身体を起こす。



……はっきりとは覚えていない。


だけど、何だかとても懐かしい夢を見ていた気がする。そして、



どうしてかな、少しだけ胸が苦しい。



何とも言えない不思議な感情に、ぎゅっとパジャマの胸元を掴む。すると、



「ひなー?……あ、起きてた。どうしたの?体調でも悪いの?」



ノックもなしに部屋のドアを開けたのは、お母さん。



「えっ、ううん、大丈夫!」


「そう?ならいいけど、早く準備しないと。今日は早めに学校行くんでしょ」



言いながら部屋に入ってきたお母さんは、シャッと勢い良くカーテンを開き、その眩しさに目を細める。



さっきとは別世界のように明るくなった部屋。


壁にかけたハンガーには、クリーニングに出したばかりの綺麗な制服がかかっていて。



「あっ、うん!」



思い出したあたしは、ベッドから飛び起きた。



急いで準備をして、朝食を軽く済ませて。


玄関の全身鏡で自分の姿を確認してから、あたしは「行ってきます!」と、家を出た。



この前まで綺麗に咲いていた桜はもうほとんど散っていて、新緑の割合の方が多い。


日中は暖かく感じることも多くなったけど、朝はやっぱり少し寒いな……。



そんなことを考えながら、あたしは少し早足で道の角を曲がる。すると、



「おはよ、ひな」



あたしを待ってくれていたのは──りっくん。



「おはよう!」



あたしはパアッと顔を明るくして、りっくんの元へと向かう。



「ごめん、時間合わせてもらって。早く着きすぎない?」


「ううん、大丈夫。いつも遅刻ギリギリだったから、ちょうどいいくらい」



申し訳なさそうに言うりっくんに、「えへへ」と苦笑しながら返事する。



──4月、今日から新学期、2年生。


春休み中に会った時に、4月からは一緒に登校したいと言い出したのはあたし。


別の学校で、更にりっくんはバスと電車通学だから、一緒に歩けるのは途中までだけど。


それでも……。



「バスの時間あるでしょ?行こう」



あたしがそう言って歩き出すと、りっくんは「ん」と短く返事して、あたしの手を握る。



──まだ少しドキドキする。


だけど、こうして手を繋いで歩くことにも慣れてきた。



誰かに見られたら恥ずかしいという気持ちもないわけじゃないけれど、りっくんとは学校が別だから。


変にからかわれる心配がないぶん、堂々としていられる。



「春休み、ほんと一瞬だったよね」



「今日から2年生とか実感ない」と続けて、小さなため息をつくと、



「ひなの学校もクラス替えってあるんだっけ?」



りっくんが聞いてきた。



『クラス替え』というキーワードに、ドクンと鼓動が跳ねるのは、密かにずっと気にしていたことだから。



「……うん、あるよ」


「じゃあ緊張するね。一緒になりたい人とかいる?」



続けられた質問に、一瞬息を飲む。



だって、去年までは違う言い方をしていた。


去年までは、



『──と一緒のクラスになれるといいね』



……と、言ってくれていて。



嫌でも『彼』のことを、思い出さずにはいられない。


だけど、



「千明ちゃんと佳穂ちゃんっていう、仲の良い友達が二人いるんだけど、出来たらまた二人と一緒がいいなぁ」



あくまで普通に。

あたしは笑って、りっくんに返事する。



「もし二人が一緒で、あたしだけ別のクラスだったら、めっちゃヘコむよね」



『彼』のことは、絶対口に出さない。感じさせない。



「りっくんは離れたくない友達とかいる?」



あたしは自分から話題を逸らすように、りっくんに質問してみた。すると、



「まぁ、今クラスで仲良い奴とは出来れば一緒がいいよね」



少し考えた後に、そう返事をして。



「もしひなが一緒の学校だったら、絶対同じクラスになりたい」



穏やかに言いながら、握られた手にはほんの少し力が込められる。



去年まではそんなこと、言ったりしなかったのに。


本当はずっと、そんな風に思ってくれていたの……?



りっくんの言葉が嬉しくて、胸の奥からじんわり熱くなる。


だけど、その反面で──。



「……あたしも」



あたしは微笑んで、りっくんの手を握り返した。





バスに乗ったりっくんを、手を振って見送ってから、あたしは一人で歩き出した。


するとすぐに「ヴヴッ」と、ポケットの中で震えたスマホ。


取り出して見てみると、



『ちょっとでもひなに会えて嬉しかった。学校まで気を付けて』



りっくんからメッセージが届いていた。



少しでも一緒に登校したいと言い出したのはあたしなのに、マメで優しいりっくん。


穏やかな幸せに顔を綻ばせながら、胸の奥がチクンと痛む。



今日から新学期。


今日からまた学校が始まるから……だから、りっくんに会いたかった。



あたしが意識せずとも、『彼』の噂は絶えなくて。


何もなくても姿を見ることは避けられない。



だから──。




「おーはよっ!」



スマホを片手にそのままボーッと歩いていると、後ろからポンッと肩を叩かれた。


軽く振り返ると、声をかけてきたのは佳穂ちゃん。



「おはよ」と、あたしが挨拶を返すより先に、



「なになに?もしかして彼氏?」



スマホを覗き込まれそうになり、あたしはパッと画面を隠す。



「あー、やっぱり彼氏なんだぁ。いいなぁ。春休み中にも遊んだりしたの?」



隣に並んで、歩きながら話しかける佳穂ちゃん。



「……そんなには会えなかったけど」



赤くなりながら、あたしがボソッと小声で答えると、「会ってんじゃん!いいなぁ〜」と、さっきよりも大きな声で言われた。



「わたしなんか、彼氏とか全然無縁な春休みだったし。遊んだの、ひな達とだけだよ?」



ため息混じりに、佳穂ちゃんは肩を落とす。


「でも、千明ちゃんと3人で遊んだのも楽しかったよね」と、返すと、



「楽しかったけど……そんなことはいいの!ひなの話で彼氏出来た気になるから、もっと聞かせてよ」


「ええー……」



佳穂ちゃんのとんでもない無茶振りに、あたしは素直に嫌がる声を上げた。




多少からかわれつつ、佳穂ちゃんと喋りながら歩いていると、いつの間にか学校へと着いていた。


いつもより早く登校してきた……にも関わらず、玄関前には大勢の人の姿。



人集りの理由は──クラス分け。


みんなが集まってワイワイと騒いでいるあの中心のホワイトボードには、きっとクラス発表の用紙が貼られている。



「うわ、なんか緊張してきた」


「だね……」



気さくで明るい性格で、友達の多い佳穂ちゃんでさえ緊張するんだもん。


あたしはもっと緊張してる。



もし、仲の良い友達がいないクラスだったら……。


そう考えると怖くて、なかなか足が前へと進まない。そこに、



「あっ、ひな!佳穂!」



ぶんぶんと手を振りながら、人集りから出てきたのは千明ちゃん。



「ふたりともおはよ。佳穂、また同じクラスだったよ」


「えっ、ガチで?」


「うん」



頷く千明ちゃんに、「腐れ縁すぎだし」なんて口では言いながら、どこかホッとした様子の佳穂ちゃん。


対するあたしは落ち着くどころか、さっきよりも鼓動の音が大きくなってる。



だって、佳穂ちゃんだけに言うってことは……。



「あ、あたしは?」


「ひなは……別のクラス」


「え……」



シュンとした感じで千明ちゃんに言われて、頭の中が真っ白になる。


あたしだけ別のクラス……。


一番起こって欲しくなかった最悪の事態に立ち尽くしていると、



「と、とりあえず一緒に見に行こ!」



佳穂ちゃんがあたしの手を取って、人集りの方に向かって歩き出した。



「すみませーん」



周りの人に謝りながら、グイグイと前まで進んでいく佳穂ちゃん。


そして、ホワイトボードの左側に貼られた、『2年生』という用紙の前で立ち止まる。



1組から5組、この中から何の手がかりもなく自分の名前を見つけるのは、なかなか大変そう。


誰か気兼ねなく話せる子と一緒ならいいけど……。


とりあえず1組から順に、自分の名前を探そうとした時だった。



「え、藤沢くん2組なんだけど!」


「マジで?離れたじゃんー」



横から聞こえた話し声に、ドクンと鼓動が跳ねる。



2組、なんだ……。


そう思うと同時に、自然と目の先が2組の欄に向かう。



大丈夫。今までどんなに願ったって、同じクラスになれたことないもん。


今回もきっと、別のクラスに決まっている。



そう信じて、2組の欄を頭から順に確認していく……けど。



「え……」


うそ……。



見つけた名前に、思わず小さく声を上げた。



『藤沢大地』という名前を見つけたと同時。


彼の名前のひとつ上にあったのは、『葉月ひな』



それは……あたしの名前。



「どう?ひな、見つかった?」



並べられた名前が信じられなくて呆然としていると、佳穂ちゃんに話しかけられた。



「あ、うん……2組」


「2組?……あ、ほんとだ。てか、藤沢くんと一緒じゃん!」



「いいなー!」と続けられ、あたしはどう返事したら良いか分からず、苦笑いを返した。



千明ちゃんと佳穂ちゃんと離れて寂しいとか、大地くんと同じクラスでどうしようとか、一気に色んな感情がごちゃまぜになる。




どうして今さら、しかもこのタイミングで……同じクラスなんて。



***



「ひな、さっきから顔色良くないけど大丈夫?」



2年2組の教室の前で、心配そうに顔を覗き込んでくれたのは千明ちゃん。



「うん、大丈夫。ちょっと緊張してるだけ」


「そっか。休憩時間とか話しに来るからね」


「授業中もDM送るから!」


「バカ、佳穂は良いけどひなが怒られたらどうすんの」



ペシっと軽く頭を叩いた千明ちゃんに、佳穂ちゃんは「ひどい!」と頬を膨らます。


そんな二人の様子に苦笑しながら、あたしは「ありがとう」と、手を振った。 



 

……どんなにショックを受けたところで、クラス替えの結果を変えることなんて出来ない。


あたしは5組へと向かう二人の背中を見送ってから、2組の教室の引き戸に手をかけた。



ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、知らない新しい空気。


ちらりとこっちを見た視線も感じたけれど、すぐにフイッと目は逸された。



2年生ってこともあって、既に出来上がっているグループもある。


あたしは楽しそうにお喋りする女子達を横目に、自分の席へと向かった。



初めは必ず出席番号順で、廊下側の引き戸に席表も貼ってあった。



あたしの席は、廊下側2列目の後ろから2番目。


そして、あたしの後ろの席は──。



まだ誰も座っていない、荷物もない、空いたままの席に、少しホッとしたのも束の間。



そのまま自分の席に向かったあたしは荷物を下ろし、椅子を引いて座ろうとした……けれど。



「あっ」



ガラガラガラッと、音を立てて開けられた教室の引き戸。


その瞬間、誰かが上げた声があたしの耳にも届いた。



クラスメイトとなる一人の男子が入ってきただけ……なのに、あたしが入ってきた時とはまるで違う空気。



女子を中心に静まって、


「やば」

「カッコ良すぎ」


なんて声が小さく聞こえて来る。



教室に入ってきたのは他でもない……大地くん。



クラスメイト達に釣られて、視線を向けてしまったあたしは、目が合いそうになって慌てて逸らした。



「藤沢くん、おはよう!」


「また同じクラスだね!」



次の瞬間には、大地くんを取り囲む女子達の声。


相変わらず凄いな……なんて思いながら、あたしはそのまま椅子に座った。



どうしてこのタイミングで同じクラスになっちゃうんだろう。


しかも、出席番号が前後とか……。



自然とギュッと手に力が入る。



大地くんと会うのは、あたしの誕生日だった“あの日”以来。


“あれ”以来、あたしはずっと大地くんに会わないように、必死に彼を避けて過ごしていた。



“あれ”は、きっと何かの間違い。


もう二度と顔を合わさなければ、忘れられる。



流した涙と一緒に、全部なかったことにすると決めた。


それなのに──。



「藤沢くんは春休み何してたの?」


「ねえねえ、今日の放課後遊ぼうよ」



どんどん近くなる女子達の声。


大地くんの声はしないけど、必死に話かける女子達の声で、こっちに向かって来ていることは分かる。そして、



ドサッとすぐ後ろで荷物を置く音がして。



大地くんが後ろにいる、それだけでドクンドクンとあたしの鼓動は大きくなる。



手が、勝手に震える。



どうしよう、もう少し佳穂ちゃん達と一緒に居れば良かった。


今からでも……ううん、もうすぐチャイムが鳴る。



だったら早く時間が過ぎてと、祈るような気持ちになった時だった。



「ひな」



突然、呼ばれた名前。



さっきまで騒がしかった女子達が、急にしんと静まり返る。



「おーい、ひな、シカト?」



この教室であたしのことをそんな風に呼ぶのは、真後ろに座るあの人しかいない。


でも、なんで……。



さっきよりも手が震えている。


本当は反応なんかしたくない。、


だけど、教室でこんなの無視するわけにはいかなくて、あたしはゆっくりと振り返った。


すると、



「やっとこっち向いたし」



真後ろの席に座る大地くんはフッと鼻で笑って、



「同じクラスとか、何年振り?これからよろしくな」



にっこりと満面の笑顔を浮かべて、あたしに言った。



今まで見向きもしなかったのに、どうして。


あんなこともしておいて、これからよろしくとか、どうして平然とそんなことが言えるの?


そもそも椎名さんとはどうなってるの?




──1限目、体育館で始業式。



聞きたいことは山ほどあるのに、あたしはその中のひとつさえ、真後ろに立つ本人に伝えられない。



あの後、まるで友達みたいに話しかけてきた大地くんに、教室中が騒然とした。



「もしかして新しい彼女?」


なんて、関係を聞かれたりもしたけど、


「いや、なんていうの。幼なじみ?」


と、大地くんはあっさり返して……。



もともと、3日で彼女が変わるような人。


幼なじみと聞いてみんな納得したのか、それ以上詰め寄られることはなかった。



……でも、何となく新しい友達は出来づらくなった気がする。


ただでさえ、出来上がっているグループも多いのに。


変な目立ち方をしたせいで、1年の時に同じクラスだった子も話しかけてくれなかったし、このまま一人だったらどうしようと考えて、不安になる。


それに……。



何で大地くんと一緒のクラスなんだろう。


全部なかったことにするって決めたけど、本人を目の前にして忘れられるほど、あたしは強い人間じゃない。



正直、今も動揺してる。



振り向いたらすぐ後ろにいる、この距離が苦しくて……って、あれ?なんか身体が変かも。



──そう思った次の瞬間だった。



急に目の前が真っ白になって、力が抜けて、あたしは膝から崩れ落ちる。



だめっ……。



前のめりになる身体に、『倒れる』と思った。


だけど、



「っ……」



誰かがあたしのお腹に腕を回し、ギリギリのところで抱き止めた。



フワッと香る甘い匂いに覚えがある。



「あぶねっ」



あたしだけに聞こえるくらい、小さく呟いたその声にも。




──大地くん?




ぼんやりと霞む視界。



あたしは抱き止めてくれた人の顔を確認する前に、意識を失った──。




***



あれ、ここは……。



ゆっくりと目を開くと、視界に映ったのは白い天井。


少し視線をずらせば、あたしが横になるベッドをぐるっと一周囲むカーテン。



知らない場所にびっくりして、起き上がったあたしはカーテンを捲る。すると、



「あ、気がついた?」



あたしを見て、そう言って微笑んだのは白衣を着た優しそうな女の先生。


見たことのある先生の顔と光景に、ここは保健室だと理解する。



「貧血かな。始業式の途中に倒れたの」



言いながら席を立ち、こっちに向かって歩いてくる先生。



「大丈夫?とりあえず今日はもう早退した方がいいと思うんだけど」


「はい……」



そっと肩に触れられ、座るように促されたあたしは、抵抗することなくベッドの上にストンと腰を下ろす。



「うん、じゃあ担任の先生にお話してくるから、もう少し休んでて」



ニコッと笑顔を浮かべ言うと、先生はそのまま保健室を出て行った。




そっか、あたし倒れちゃったんだ……。



急にサーっと血の気が引いて、気分が悪くなった記憶まではある。


だけど、それ以上のことは……。



思い出そうとして、ふと脳裏に過ぎったのは──彼の顔。



いや、まさか。

そんなことあるはずない。



少し考えただけで胸が苦しくなるような気がして、あたしはそのまま倒れるようにベッドに横になる。



今、休憩中なのかな……。



ひとりきりの保健室。


廊下の外から、グラウンドから、生徒達の声が微かに聞こえてきて、あたしは静かに目を閉じた。



まだ少し気分が悪い気がする。


もう少し眠らせてもらおうかと考えた……その時だった。



ガラガラガラッと、音を立てて空いた引き戸。



先生が戻ってきたのかと慌てて身体を起こすけど、カーテンの下から見えた足は先生のものじゃない。



深い紺のチェックのスラックスは、男子の制服。



先生の姿がないからか、入ってくるなり一度止まった足は、何故だかこっちに向かって歩いてきて……あたしは咄嗟にベッドに寝転んだ。



誰だか分からないけど、先生なら今いないから、早く出て行ってほしい。


声をかけられたりしたくなくて、あたしは寝ているフリをしようと目を閉じた。


だけど、



ゆっくりと近付いてきた足音に、シャッ……と静かにカーテンを開く音。



まさか近付いてきた人物に、『えっ』と驚いたのと同時。




「……ひな」




他には誰もいない空間に、響いた声。



呼ばれた名前とその声に、思わず身体がビクッと反応しそうになった。


だって……。




「寝てんの?」



小声で小さく問いかけられた質問に、あたしはさっきよりもずっと、返事することが難しい。



え、うそ、なんで、本当に?



静かな室内とは対照的に、色んな感情が入り混ざり合ってうるさい心の中。



目を閉じているから、詳しい状況は分からない。


だけどギシっとベッドが沈む音がして、すぐ近くに感じる人の気配。



ちょ、ちょっと待って!



ドクンドクンと胸の鼓動は大きくなるばかりで、呼吸の仕方さえ分からなくなりそうで。



だめ、これ以上寝てるフリし続けられない。



どうしようと焦りながら、目を開けてしまおうかと思った時──。




「……ごめん」



──え?



ひと言、ぽつりと、寝ているあたしに向かって落とされた言葉。



教室の中なら間違いなく聞き逃しているだろう小さな声。


だけど、物音ひとつしない保健室の中で、その声ははっきりとあたしの耳に届いた。



……でも、なんで?


『ごめん』って、何が?



言葉の意味が分からず、硬直したまま。



すると、ギシっと再びベッドが軋む音がして、気配が遠ざかる。


そのままカーテンを閉める音が小さくして、あたしは思わず起き上がっていた。



揺れるカーテンの向こう側、一瞬見えた姿。




「あ……」



今の今まで寝たフリしていたくせに、自分が何をしようとしたのか分からない。


保健室を出ようとしていた彼に、あたしは咄嗟に声を掛けようとして──。



「あれ?どうしたの?」



ベッドの上から降りようとしていた。

その動きは、聞こえてきた声にピタッと止まる。



「体調不良?」


「いえ、葉月さんの荷物を持ってきました。寝ていたのでベッドの横に置いてます」


「そうだったのね、ありがとう」



先生との会話が聞こえてきて、ふと隣を見るとベッド横の丸椅子に、あたしのリュックが置かれていた。



荷物、持ってきてくれたんだ……。



先生に頼まれたのか、自分で進んでなのか、どちらか分からない。


だけど、彼が荷物を持ってきてくれたという事実に複雑な気持ちになる。



それに『ごめん』っていう、あの言葉──。



あたしがボーッと、残された荷物を見つめていると、「それじゃ失礼します」と、先生に挨拶する声が聞こえて。


保健室の引き戸が閉められる音にハッとして、ベッドに横になろうとした時にはもう遅かった。



「葉月さん……って、あれ?起きてたの?」


「えっ、いや、あのっ……」



遠慮がちに開けられたカーテン。


驚いた顔をする先生に、あたしはバツが悪くてしどろもどろになる。


すると先生はフッと笑って。



「今、葉月さんの荷物を……名前何て言うんだっけ?同じクラスの男の子が持ってきてくれたみたい」



丸椅子に置かれたリュックを見ながら言うと、



「彼氏?」


「ちっ、違います!」



少しからかうように続けられた質問に、あたしは声を大きくして否定した。


でも、それは返って逆効果だったかもしれない。


きっと何かを勘違いした先生は、あたしの反応にクスクスと笑って。



「そうなの?でもあの子、すごくカッコいいよね。そういえば、倒れた葉月さんを運んでくれたのもあの子だったよ」


「えっ……」


「またちゃんとお礼言わなきゃね」



ニコッと笑って言った先生。


あたしは驚いて、目を丸くした。

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