第六話 運命は巡る
ここは大学構内の研究所の一室。窓の外には大都会を大写しにした美しい夜景が広がっている。私の右手には黒い拳銃、足元の床には、たった今、殺害されたばかりの同僚の無残な遺体が転がっている。むろん、私が彼を殺したのだ。生まれて初めて人の命を奪った動揺のために、利き腕と両ひざが、がくがくと激しく震えている。
私の罪は四年前に遡る。当時、通っていた大学の構内の庭園で昼休みの休憩を取っていたところ、自国の諜報機関の人間に話しかけられて、そのままスカウトされた。
「我々の調査によれば、君には国家のために働く素質がある」とそのように言われた。大学の難しい授業には、なかなかついていけず、すっかり落ちこぼれて、退学寸前にまで追い込まれていた私は、多額の報酬のかかったその話に乗るしかなかった。
私はその後、偽名を与えられて、アメリカのK大学の遺伝子研究所に送り込まれることになった。大金と命がかかっていることもあり、今度の大学では懸命に授業についていかなければならなかった。それと同時に、研究所内の機密文書を他のスタッフの隙を見ては探し当て、本国の諜報機関宛てに送り続けた。この時点では罪悪感は微塵も感じられなかった。
単位や授業料のことを何も心配しなくていい大学生活は、快適そのものであり、何不自由なく、この地で三年の時を過ごした。しかし、約一年ほど前から、同室のアレフというもの静かな学生が、(この名前こそ、無限とか永遠とかいうテーマを、我々に感じさせはしないだろうか?)私の行動の一つひとつに不信を抱くようになっていった。率直に言ってしまえば、彼は私の裏切り行為、スパイ活動に感づいていたのだ。
私は彼の純真な人格をいたく気に入っていたが、正体が明かされてしまうことは、私にとって死を意味する。大人しく破滅を受け入れる諜報員は存在しない。もはや背に腹は代えられなかった。自分の未来を救うために、この夜、彼を抹殺することにした。
深夜、アレフが自室で机の引き出しを開けて探し物をしている隙に、後ろからゆっくりと接近すると、その後頭部を拳銃で撃ちぬいた。この殺人行為は、想定していたよりも、ずいぶんと上手くいった。
声ひとつ漏らすことなく、彼は息絶えた。人を殺してしまったことに激しい動揺はあった。しかし、後悔は少しも感じなかった。彼を消さなければ、消されるのは自分の方である。ふたりは気心の知れた友人であったが、いずれ、こうなる運命だったと割り切る他はなかった。
私は本国の役人がもっとも必要としていた最後のデータを、アレフのPCから奪い取ると、そのファイルを自国の諜報機関宛てにメールで送信した。そして、迷うこともなく、この国の警察に携帯電話から一報を入れた。
「つい先ほど、K大学の研究所ビル五階三号室で同僚を撃ち殺した。すぐにパトカーを寄越せ」
動揺冷めやらぬ中で、早口でそのように伝えた。受話器の向こう側の声は「事情は分かった、なるべく現場をいじらずに、そのまま、大人しく待っていろ」と冷静な声で答えてきた。
捕えられれば、おそらく、厳しい尋問が待ち受けているだろう。私がすぐに自決しなかった理由は、高度な遺伝子研究に欠くことのできない重要なデータを、すっかり盗み取られた大国アメリカの動揺と驚きを、我が目で確かめてやりたかったからだ。
やがて、警察の特殊部隊がこのビルに突入してくるだろう。奴らと派手な打ち合いを演じて、その結果としての死を受け入れるのも悪くないと思っていた。私の身体をどれほど蜂の巣にしてみても、彼らに得となる事態は何も起こらないからだ。深夜の静寂の中に、おそらく、私とアレフの遺体はすぐに発見されることだろう。決して解けない謎だけが、後に残されるのである。
そんなことを考えながら、しばし呆然としつつ、パトカーの到着を待っていた。なぜだろう、電話で通報を入れてから、一時間近くが経っても、この現場には何者も現れなかった。この研究所の入り口には、厳重なセキュリティーが張り巡らされているから、警察側もそれを破ることができずに四苦八苦しているのかもしれない。
この部屋の主要な電灯はすでに落としてある。扉の上に付いている非常灯の明かりだけが、仄かに輝いていて、部屋の内部と廊下の一部をぼんやりと照らしていた。
ふと、このフロアの廊下をこちらに向けて歩んでくる、たったひとつの小さな足音がこの耳まで響いてきた。人殺しを知らされ、息せき切って駆けてきたばかりの警察官の足音にしては、ずいぶん大人しい登場に思われた。
やがて、この部屋の扉が控えめな強さでノックされた。私は武器を携えたまま駆け寄ると、その扉を勢いよく開いた。そこには、(私が期待していたような)銃器を構えた警官たちの姿はなく、三十代半ばと見られる、みすぼらしい中年の女性が佇んでいた。もちろん、こんな中年女に見覚えはない。
「君は何者だ? この大学の学生ではないようだな。何用があって来たんだ? いや、それよりも、入り口のセキュリティーをどうやって通過できたんだ?」
その女は虚ろな顔をしたまま、立ち竦んでいて、私の質問には何も答えなかった。
「しかも、君は警察側の人間でもないだろう。少なくとも、彼らと同じような制服も着ていないようだ……。いったい、何者なのかね?」
「私が誰だか分からないですって? それはないでしょう。他人の人生を粉々にしておいて……」
女はまるで亡霊のような静かな口調で、そのように訴えてみせた。その責めるような口調に私はたじろいだ。
「君より十五年ほど前に転生したから、今日という日をずっと待っていたんだよ……。私は先ほど、君に撃たれたばかりのアレフだよ……。私を殺害したばかりの君に、早く出会いたかったんだよ……」
私にはその台詞の意味がなかなか理解できなかった。しばらくの間、言葉を失くしていると、その女は何度となく同じことを訴えるのだった。
「なぜだ……、なぜ私を裏切り、殺したんだ……。その訳を教えてくれ……。それと、君はいったい何者なんだ……。」
地面の下から響いてくるような重苦しい声で、女は何度も何度もそう尋ねてきた。私の中には、気持ちが悪いなどという表現を遥かに超えた恐怖と畏怖と不安に似た感情が芽生えてきた。この女は本当にアレフの生まれ変わりなのか? 彼女が述べていることが、もし、真実であったらどうしよう?
そのうちに、平静を保つことができなくなり、私は一度テーブルに置いた拳銃を再び取り出すと、女の顔に銃口を向けて躊躇なく引き金を引いた。冷酷さからではなく、極度の恐怖心がそれを撃たせたのだった。女の顔面の一部が後方に吹き飛ばされて、大量の血液と共に床に落ちた。不思議なことに、一人目の標的を殺したときほどの動揺は感じられなかった。人はこうして殺人と死というふたつの異質な感覚に慣れていくのだろうか……。
しかし、ああ……、こんなことが信じられるだろうか……。それから五分も絶たぬうちに、再び廊下を歩くひそやかな音が聴こえてくる……。それは迷いもせずに、こちらへと近づいてくる……。
何ということだ……。奴は何度も転生を繰り返して、私を問い詰めるべく迫ってくるのだ……。やがて、その小さな足音はこの部屋の前でピタリと止まる。そして、すでにふたつの遺体を内包したこの部屋のドアが、先ほどと同じようにノックされる……。
拳銃の弾丸がすっかり尽きてしまった私には、この恐怖の連鎖から抜け出すことは難しいだろう……。この一件において、誰よりも重い責任を持つのはこの私だが、こんな残酷な責め苦が延々と繰り返されるとは……。
私は『恐怖から逃れるために』自分の破滅を強く願った。この最悪の事態から逃れるには、もはや、『名も知れぬ誰かがここへ飛び込んできて、事件の加害者であるこの私の頭部を速やかに打ち抜いてくれる』という、決してあり得ない偶然に期待するしかなかったからだ。
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