第20話影への第一歩(2)

 中犯罪者区域に足を踏み入れると、露店から油と焦げた匂いが漂い、行き交う罪人たちの声がざわめいている。重犯罪者区域ほどの重さはないが、雑多な空気には淀んだものが混じっていた。


「ここを通るの? 慣れる気がしないわ……」

「慣れなくていいでしょう。今後必要な時は、僕を使ってくだされば」


 わざとらしく胸に手を当てアピールに余念がないルカに溜息をつく。変装も案内も助かるけれど、信用はできない。ここぞという瞬間に、裏切るかもしれないのだから。


 ルカの案内に従いながら歩いていると、路地から見覚えのある影が現れた。


「クーゼル?」


 ヒルダが驚きの声を上げると、男は一瞬立ち止まって目を伏せる。


「先生……こんなところで何してるんです?」


 彼の声は酷く疲れ切っていた。ルーディックが亡くなった日、屋敷で盗みを働いたあの従僕だ。私は言葉を失うが、ヒルダが一歩彼へと進む。


「それよりあなた……大丈夫なの?」

「大丈夫に見えます? 俺はもう終わったんですよ、先生なら分かるでしょ?」


 彼は苦く笑って首を振った。もう終わった、という言葉にはどうしようもない諦めが滲んでいる。


「そんなことないわ。私は、あなたが終わっただなんて思わない。ここは贖罪都市だもの。罪を償って生きればきっと、やり直せる」

「贖罪? 笑わせないでくださいよ、先生。笑うのだって疲れるんだ」


 クーゼルがふらりと道の端に座り込んだ。その目は暗く、希望のひとつも浮かんでいない。


「働いて飯食って寝るだけの生活で、何が贖えるって言うんです。……ほんとは俺だって、お屋敷で真面目に働いてたかったさ」


 その言葉に胸が締め付けられる。この都市は、罪人を償わせる場所ではなく、ただ生を浪費させる檻に成り下がっている――そんな思いが湧き上がった。


 全て投げ出すようにクーゼルは目をつむる。その近くから動けずにいると、ルカが「いつまで突っ立ってるおつもりで?」と急かしてきた。


 私は悔しさに唇を噛みしめながら前を向く。ヒルダは何度も振り返り、それでも何も言わずについてきた。今の彼に言えることは、なかったのだろう。私達の言葉は恐らく届かない。


 変えなきゃいけない。いつか、必ず。私はそう胸に刻み込んで、ダイダリーの深部へと向かった。


 徐々に張り詰めていく空気に、重犯罪者区域が近付いていることを感じる。


「ここから先はちょっと危険ですよ、なるべく足を止めないで」


 それに返事をしようとした瞬間、ルカの避けた布の塊が人だと気付いて、小さく悲鳴を上げてしまった。ゲホッ、と重たい咳をして顔を起こした男のことを、私は知っている。


「あなた……ダリル?」


 頬は痩せこけ、目も落ち窪んでいたが、面影は残っていた。倉庫からスクロールを横流しした衛兵だ。いや、元衛兵か。彼のせいで傷付いた喉元がわずかに痛むような気がした。


「あぁ……領主様、か」


 ヒルダが素早く周囲に人影がないことを確認する。ルカが通りから外れた場所を選んでいたおかげか、他に人はいなかった。あるいは、ダリル自身が人目を避けているのかもしれない。


「今はそう呼ばないで」

「何をしているかは聞かないが……止めといた方が良い。この先に良い話はないぞ」


 その忠告は、彼の良心から来るものだろうか。道を誤ったとはいえ、元は衛兵だ。かつては志があったのだと思いたい。


「それでも行くしかないのよ。クレイヴの話を聞かないと」


 半ば独り言のようにそう言うと、ダリルはハッと目を見開いて唇を震わせた。しかし、出てくるのは掠れた咳の音ばかりだ。


「ゲホッ……クレイヴ、か……俺からスクロールを買い取った奴も、そう名乗っていたな」

「……! 本当に!?」


 思わぬ手がかりだ。私は詰め寄りそうになったが、ヒルダに肩を押さえられた。ルカは一歩離れた場所で、何かを考え込むような顔をしている。ダリルは掠れた声で続きを話してくれた。


「どこからお袋のことを知ったのかは分からないが……金に困っているなら、力になると声をかけてきた。俺はそれで……それで……」


 ダリルの顔が悲痛に歪む。クレイヴの顔立ち、服装……聞きたいことは山ほどあったが、それ以上問い詰めることはできなかった。私が言葉を飲み込むと、ダリルの目から涙が零れ落ち、薄汚れた頬を伝った。


「お袋は、無事なのかな……俺はちゃんと、償えてるのか? もう、何も分からない……頭がぼーっとするんだ……」


 だんだんとダリルの目が虚ろになり、再びぐったりと布の中に埋もれていった。その異様な様子に、私は違和感を覚える。これは単なる疲労ではない。


「様子がおかしいわ。酷い顔色……すぐに医者を――」


 私の言葉を遮るように、ルカがきっぱりと首を振った。


「クレイヴの情報はともかく、これ以上の時間はかけられませんよ」

「でも!」


 思わず反論しかけた私に、ルカは鋭い目を向ける。


「……彼はもう手遅れです」


 冷たい宣告に、心臓が跳ねる。


「手遅れって、どういうこと?」


 ルカはダリルを一瞥し、低く呟いた。


「あの男のやり口です。裏の顔を知る人間を、こうやって消していく」


 喉の奥が冷たくなった。ルカの言葉が、ゆっくりと脳に染み込んでいく。


「まさか……薬を?」

「そうでしょうね。本人は気付いていないでしょうが、少しずつ、じわじわと……ああいう男は、証拠を残さないようにするものですよ」


 ルカの声は淡々としていたが、その瞳には鋭い警戒が浮かんでいた。


「このまま放っておけば、記憶も曖昧になり、やがて動けなくなる。そして……ある日、そのまま誰にも気付かれずに死ぬ。疑われず、痕跡も残さず。とてもスマートなやり方だ」


 足元がぐらつくような感覚に襲われる。ダリルの衰弱は、罰ではなく、計画的なものだったのだ。


 クレイヴは、確かにここにいる。


 私は唇を噛みしめ、ダリルを見下ろした。もう彼にできることはないのか。助ける術はないのか――。

 しかし、その答えを出す時間は、今はない。


「行きましょう、ロゼリア様」


 ルカの静かな声に、私はゆっくりと目を閉じ、ダリルに背を向けた。


 贖罪都市ダイダリーの在り方が、歪められている。歴史がそうさせた部分もあるかもしれない。ただ、ダリルから贖う道すら奪ったのは、クレイヴだ。彼の情報は絶対に掴まなければならない。私は固く誓いながらルカの後ろを歩いた。


 重犯罪者区域との境界が近づくにつれ、空気はより冷え込み、周囲の視線が鋭くなる。


「こっちです」


 ルカが先導し、壁沿いの細い路地へと入る。何の変哲もない石畳の道に見えたが、奥へ進むと大きな鉄格子の門が現れた。その先には、地下へと続く暗い階段が口を開けている。


「ここが影の市の入り口?」


 ヒルダが問いかけると、ルカはにやりと笑った。


「ええ、正式な入り口の一つですよ。ただし、出入りできるのは『資格』のある人間だけですが」


 そう言いながら彼が軽く扉を叩く。すると小さな覗き窓が開き、中から冷たい視線が覗いた。


「合言葉は?」

「月は隠れ、闇だけが微笑む」


 ルカが低く呟く。すると鍵の外れる音がして、重たい門がゆっくりと開かれた。地下へと続く階段からは、湿った空気と共に、喧騒が微かに漏れ聞こえてくる。


「さあ、ご案内しましょう」


 この先に、私が知るべき真実がある。ルカが差し出した手を取り、私は影の市へと足を踏み入れた。

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