第8話(上) 無理に、構わなくてもよい。
「おかえりなさい」
「ただいま」
日が経つにつれ普通のこととなっていくであろうこのやり取りにも、感情は確かにその存在を主張する。今日のただいまは、昨日のただいまよりも揺らいでいた。彼女なら気付くだろうほどに。
そのまま微妙な空気にするのも嫌なので、頑張って会話を続けてみる。
「ねえ」
「……?」
「君って幽霊だったりする?」
もちろん確実に幽霊ではない。それに、彼女がいかなる返答をしようと、いかなる存在であろうと、確実に一人の独立した「人間」であることは変わらない。そんな、何の意味も持たない冗談だった。
「なんでそんな馬鹿みたいなことを聞いてくるんですか。――そんな素っ頓狂な顔してどうかしましたか?」
笑った。一瞬、確かに笑っていた。半ば呆れ笑いみたいなものではあるが。しかし初めて見た、彼女の笑顔。それは例えるなら、いや何ものにも例えがたい微笑であった。救われた気がした。
「……いや、弁当が美味しかったから」
「意味が分かりません。大体、どうしてそんな幽霊みたいな女を部屋に住まわせているんですか? ……ありがとうございます」
予想では彼女が「違います」とだけ言って会話が終わったのだが、存外に食い付きがよかった。
「好きに住んでもらって構わないが」
「それ、私以外に言わないでくださいね。おそらく部屋が共有スペースになってしまいます」
長続きした会話は終わった。分かったのは、彼女は笑うということ。それから、多分幽霊ではないこと。下らない冗談の成果にしてはこれ以上ない。そうだ、折角のことだから、この問いの提唱者にも教えてやろう。
『どうやら幽霊ではないらしい』
霧谷に連絡を入れるとすぐに返事が来る。普段から頻繁に連絡するわけでもないが、今のところ、大体は即時に応答されている。
『なら良い』
『名前聞いとけ』
確かに名前を訊くには絶好の機会だ。だがはたしてそれを知ってどうなるのか。彼女に固有名詞が定まっていない状態でも生活は破綻しなかった。だから今更になって名前を知ろうとしなかったのかもしれない。もしくはこのとき、彼女が名前を知られたくないと思っていると、心のどこかで薄ら感じ取っていたのかもしれない。いつ彼女が居なくなっても驚くべきことでないのは重々理解しているのだが。
ついに、名前を知ろうとはしなかった。
『やめとく』
この後も、二人の関係性はまるで変わらなかった。しかし、精神的に相手を知るというのは大事なことである。殊更その相手が、同居人とか友人とか、近しい人物である場合は。
私は彼女の名前を知らない。誕生日を知らない。どこから来たのかも分からない。それでも、それらの何十倍も彼女のことを知っていると言える。彼女がこの家に訪れてから四日、同居人となってから三日となる。明日は金曜だ。
「そういや、浴槽ってまだ洗ってないよね?」
「ええ。洗うなと言われましたね」
「明後日にでも洗おうかな。引っ越した後の清掃は大変らしいからね。丁度休日だ」
「ご主人が?」
「そうだけど」
突然、彼女は平静を若干乱す。態度が崩れるなんて表層の乱れではなく、何か、彼女の根幹をなす何かが揺れていた。
「私の仕事を奪わないでください」
「何も問題ないように思えるが」
「私の存在価値を奪わないでください、と、言いました。伝わりましたか?」
彼女は凛とした表情を保ってはいたが、足が震えている。
本当はもっと言い返したかった。自身の存在価値を彼女がそんなにも低く見積もっているのも嫌だったが、私が彼女をそんなにもあっさりと見捨てるように思われていることが私への比類なき衝撃だった。そのことが私を二の句も継げなくさせたのだ。彼女が私を見捨てるならまだしも……
「私はこの家に居たいですから」
彼女に悔しさを抱かされることはあった。今度も彼女の勝ちだ。彼女は敗者に目を遣ることなくステージを悠々と降りる。私はその小さな背中を、黙って眺めることしかできない自分がとても悔しかった。
やっぱり彼女から私を見捨てさせたほうがよほどマシだ。
私はその思いを、食器の擦れる金属音、風呂の壁に打ち付けられる水音、ドライヤーの音の中でも失うことは無かった。川底のヘドロのように、石の下に隠そうとしたのが拙かったのかもしれない。知覚したくもないほど不快なものは、一度それに気付いてしまえば撤去するのに時間がかかる。見えなければよいというわけにもいかないのだ。
しかしこの孤独は誰の責任でもない。誰もが皆飼っている孤独が今、偶然、少しばかりの活力を携えて檻から出てきたに過ぎない。私達は果敢にも、孤独を個人で抑え込もうとする。だから、もっと悪い病となる。
「君が、私の機嫌を取るために同衾しているのなら、意味のないことだからやめたほうがいい」
「え殴りますけど」
勉学にしろ労働にしろ、「慣れ始めが危うい」といった文言が頻りに引っ張り出されるが、今夜がその時機だった。
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