第5話(下) ハグ? 流石に構うが。
はあ……
「昨日、『今日だけ』って言いませんでしたっけ?」
返事はない。途方もなくなると解り切っているので、それへの答えを待つのは諦めて部屋の灯りを消した。
「黙らないで……まあ、別にいいんだけどさあ、暑いでしょ」
「問題ないです」
捻れたブランケットのような姿で彼女はベッドの隅にうつ伏せでいる。やはり彼女は私を信用しすぎていると思われる。私はそんなことをする気など微塵もないが、見ず知らずの男の家での振る舞いには、注意を払ったほうが良いに決まっている。私のことを意に介していないのだろうか。解らない。彼女のことはいまだ解らず終いである。
「それ、私に問題があるのを分かって言ってるよね」
また、しばしの沈黙。
「まあいいけどさ!」
大きな溜息を「聞かせ」ながら横になる。だが彼女はしたり顔でそれを眺めるだけだ。テーブルからコップを落そうとする猫というべきか、私の反応を楽しんでいると見える。
「寝るから」
「私の主人は親切ですね」
「私の同居人は稚拙ですね」
昨夜と同じく、この部屋では彼女は人格を異にするようだ。従者モードから一人モードへの変換、そう表すのが適切だろう。私が家にいないあいだもこの様子なのだろうか。ここで一人と表した理由は、文字通りの「一人」という意味を当て嵌めたかったのではなく、安心とか、無遠慮とか、一人のときにしか見せないような態度と類似するものが、彼女の一人モードと表すべきものだったからである。
空間には静寂が満ちた。私の予想に反して、今夜の彼女は積極的でなかった。普段生きていて、自分以外の息というのは滅多に意識することはない。だからであろうか、この会話の途切れがかえって言葉より大層私を揺さぶった。
彼女は長い息を吐いている。私も吐く。肺の内が空っぽになるころには、彼女はもう吸い始めている。それを追って、息をじっくりと吸う。
幾らかの息の遣り取りは、外でキャリーケースの車輪がゴトゴトと地響きさせる音で中断。やがて遠く去っていくと、私のすぐ隣でも地響きに近い衣擦れ。ずるずると布を引き摺って、首を激しく冷やす。
掌が頸動脈の上にぺたり、肩は跳ね――ず、しかし声が出ない。彼女は空いている右の腕を私の肩に寄せる。背中に人間の重みを感じる。温かい。――
「寝ますよ」
「……はい。ごめんなさい」
あった手が流れ落ちるように離れ、全身はようやく落ち着きを取り戻す。息と血が正常に循環する。よく知った体がふたたび馴染んでくる。
はっ? いまわたしなにされた? いまだ消えない重さの感覚から、衝撃で吹き飛んだ記憶の空白を手探りで埋めていく。どうやらハグ(正確にはハグのような何か)をされたらしい。幼少期に母にされたのを除けば、初めての体験だった。
そんなことはどうだっていい。流石に今の行為は、私も見過ごせるものではなかった。私の安眠を他人に奪われてたまるものか。本来一人で安心できるはずのこの時間ではなく、昼とか、とにかく都合の良い時間にしてほしいものだ。それなら、私も了解できるというのに。
「後で私は好きにしていいから」
そう言った途端、何かに障ったのだろう、まずいことを言っただろうか? ああ、一人モードは夜しか対応していなかったのだろうか? 彼女は小さな声で諭すように言う。
「ご主人、駄目ですよ。親切が過ぎます。どう受け取って良いか分かりません」
「好きにしたらいい。それで終わりだ」
「無責任です」
彼女は一層声を硬くする。先程の柔らかな息とはまるで異なり、私達を包む眠気は一歩後退する。無責任と言われるわけが理解できない。彼女の好きにした結果の責任を負うのは彼女でなく私であるのに、どうして彼女に私の責任を説く道理があるだろうか。
「自由を尊重している」
「じゃあ好きにしますから。何されても文句言わないでくださいね」
「構わない」
「こっちを向いてくださいよ」
彼女のほうに体を転がす。初めてこの暗闇で彼女の顔を見た。あのときの「美少女」という感想はやはり適切だった。とても美しい。肌は水彩絵具で夜空を注いだ硝子の器を描いたように、透き通って見える。それから私の驚嘆するのは、首、肩にかけての幽かさであった。私の見慣れた男のそれとは全く別物であって、見てはいけないものを見ていると錯覚する。
彼女は私の眼を凝視する。これは何かの罰だろうか、はたまた儀礼か。何にせよ、もう十分だと思われたのでふたたび元の向きへ体を戻す。
〈・「本当に、目が合いませんよね」(綺麗な文字)〉
彼女が月明りよりも小さく何かを囁く。当然、私には聞こえない。
「大体、君は酷いことをしようなんて考える人じゃないんだろう? 親切が過ぎるのは君のほうじゃないか」
「ご主人、私の何を知ってるんですか」
「何も知らないさ。何もね。でも、私の考えでは君は優しい人だ」
「意味わかんないです」
「じゃ、君の知る君は酷い人間なのかい?」
彼女の返事はなかった。無言という返事が、まさに彼女の親切を物語っていた。
ふたたび部屋で息と夜風が交わる。夜を恐れる子供は、何が怖いのだろうか。見えないことか? 聞こえないことか? 誰も居ないことか? ではこの毛布の中は昼なのだろうか。
「おやすみ」
「おやすみ」
段々、この狭苦しい睡眠にも心身が適応してきた。別に悪感情をこれに向けているわけではない。むしろ、興味深いと思う。彼女と話すのは、否、人と話すのは面白い。知らないことを知るのは楽しい。私とこの世界について、理解が深まるのを感じる。知能が急速に高まった誰かの話を思い出した。彼も、こう思っていただろうか。そうなら、嬉しい。
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