第5話 囁きと嘲り

 人々のざわめきがうつろに響く夜の街。

その雑踏を、沢村修一は小さな缶コーヒーを片手にただ眺めていた。

誰もが通り過ぎていく中、彼の意識はそこにはない。

視線の先にあるのはただ一つ――「奴の存在」。

抑えきれない淫靡なサディズムを抱えた捕食者である自分が、ついに歪んだ理想の被食者として出会ってしまった、早川澪のことだけだ。


 彼女との付き合いは、いつの間にか異常なほど急速に深まっていた。

とりわけ夜になると、お互いが何も言わずとも当然のように引き寄せ合う。

何かの符丁のように交わす短いメッセージ、それだけで、人気のない裏通りや狭いバー、あるいは誰の目も届かない部屋で密会するのが暗黙の習慣になっていく。

まるで二人の歪んだ“渇望”に抗うすべがないかのように。


「……今どこ? 会いたい。」


 その夜も、修一のスマホに届いた短いメッセージが胸をぎゅっと締めつけた。

彼女もまた、この倒錯した欲望の共鳴に振り回されているのだという証拠。

修一はすぐに返事を打ちたくなる衝動を堪え、わざと数分放置する。

そんなじらしの行為さえ、彼のサディストとしての小さな愉悦を満たす手段。

しかし、次の瞬間には結局、我慢できなくなった自分に苛立ちを覚えつつ、待ち合わせ場所の指定を送っていた。


 いつものように雑居ビルの二階にある小さなバーで落ち合う。

外からはネオンすら漏れない隠れ家じみた空間。

扉を押し開けると、微かに古びたランプの光が揺れていた。

その薄闇の奥、澪が既にカウンターでグラスを傾けている。

「……早いな。俺を待ちわびてたのか?」

修一の口調は嘲るようだが、澪はグラスを置いて色っぽく笑みを浮かべる。

「待ってた。……いいかげん、あんたに会わないと息が苦しいのよ」


 言葉と裏腹に、その瞳には黒い影がちらつく。

抑えきれない淫らなマゾヒズムがむせ返るほどに宿っていて、彼女自身もその底知れぬ飢えに侵されているのがはっきりわかる。

修一は空いた席に腰かけ、店主を睨むように一瞥してから目を伏せる。

互いに会話はわずか。

だが、淡々と酒を口に含みながら、濃厚な緊張が二人の間に漂っている。


「……お前、どうしてそんなに、俺に会いたがる?」

挑戦めいた言葉を投げる修一に、澪はかすかに肩をすくめる。

「そんなの、あんたが一番わかってるでしょう。だって、お互い似てるんだから」

似てる――サディストとマゾヒスト。捕食者と被食者。

どちらかが一方的に追い詰めるだけの関係ではなく、喰らい尽くす側も喰らわれる側も、実は同じくらい異常な熱を求めてやまない。

そういう「歪んだ理想の相手」がようやく出現したのだと、二人とも薄々感づいているのだ。


「ふん……俺がいつお前を踏みにじると決めた?」

嘲笑交じりにそう突き放すと、澪はひどく愉快そうに微笑む。

「だったら、私があんたを踏みつける? それでもいいけど……ねえ、どっちが先に我慢の限界を超えるかな」

言うなり、澪は赤い舌先で唇を軽く舐める。

誘惑というより挑発――被食者でありながら、相手を破滅させる快感すら味わいたいという歪んだ欲動。

修一はそんな様子に苛立ち半分、興奮半分の複雑な衝動を駆り立てられる。


 結局、その夜もバーを出て、人気のない建物へ潜り込む。

二人とも無言のまま、路地裏を抜け、階段を昇り、ただ施錠もままならない一室に転がり込む。

湿ったシーツと埃のにおいが鼻を突き、わずかに生温い空気が肌にまとわりつく。

「……何だよ、この部屋」

「文句があるなら帰れば? 私、あんたと会えれば場所なんかどうでもいいの」

短い舌戦を交わしながら、修一は澪に近づく。

彼女はベッドの縁に腰を下ろし、ゆっくりと足を組む。

その動作すら、サディストの視線を引く計算があるように見える。

「……余計な芝居なんざいらねえ。お前の汚い欲望を、そのままぶちまけりゃいいんだよ」

修一の冷たい言葉に、澪はかすかに笑う。

心底うれしそうに、というより、ぞくぞくするような得体の知れない愉悦に溺れながら。

「これが私の“汚い欲望”なの。あんたに喰われて、あんたを喰らってみたいのよ」


痺れるほど醜悪で淫靡な台詞に、修一は思わず唇をひき結ぶ。

負けず劣らずに、「じゃあ、喰ってやろうか?」と返したくなるが、自分の胸の中でサディズムの槍が暴れ出す。

どこかで「こいつを貪り尽くしたい」という飢えと、「こいつに貪り尽くされたい」と思わせる奇妙な倒錯が同時にうごめくのだ。


「お前、ほんとに……喰われたいのか?」

険のある声で聞きながら、修一は澪の胸元へ視線を落とす。

彼女は明らかに妖艶な呼吸をしていて、薄いシャツの隙間からうっすらと汗ばむ肌がのぞき、甘く湿った匂いさえ漂ってくる。

これは単なる女の色気ではない。

獲物が捕食者を誘う匂い――あるいは、捕食者が獲物を狩るときに垂らす淫らな唾液の香り。

「もちろん。あなたにメチャクチャにされたいの。踏みにじられ、蹂躙されて、二度と元に戻れないくらい……でもね、あなたもただじゃ済まないわよ」

その意地悪な笑みは、まるで毒をもった獲物だ。

喰おうとした捕食者をも内部から食い破るような、狂気に溢れるマゾヒズム。

互いの弱さや闇を突きあううちに、快感が増殖していく。


「だったら、試してみろよ。どっちが先に耐えきれなくなるか、な」

修一がそう吐き捨てると、澪は足を開くようにしてゆっくり立ち上がり、彼に近づく。

夜のビルの一室、誰もいない湿った空気が一層濃密になる。

まるで周囲の世界が消し飛んだように、二人だけしか存在しない閉塞感。

「そうね……とことん踏みにじって。だけど、終わるのはあなたかもよ」

艶やかな声音を響かせ、澪は修一の胸元に手を置く。

その指先はあからさまに震えていて、恐怖と悦びが混ざり合っている証拠だ。

どこまでも被食者としての恍惚を味わおうとしながら、相手をも飲み込む意志を秘めている。


 部屋の照明は弱く、二人の影がうごめくように壁に映る。

修一は徐々に昂ぶりを隠せなくなる。

自分の中のサディズムは、相手を完膚なきまで虐げたい、支配したいという飢えを叫び続けている。

一方で、澪の顔には明らかな陶酔が浮かんでいる。捕食される立場でありながら、その歪んだ愛撫に心を奪われるのを待ち焦がれているかのようだ。


「……狂ってやがる。お前も、俺も」

修一は吐き捨てながら、澪の細い肩を掴む。

彼女は嬉しそうに目を細め、喉を鳴らす。

「狂ってるから、こうして出会えた。まともだったら、絶対にお互いに近づかない。……だけど、いまはあなただけが欲しい」

破滅的すぎる甘言。

危険極まりないのに、耳に心地よく響くあたりが恐ろしい。

修一はその言葉に心を揺さぶられながら、さらに腕の力を強くこめる。

澪は少しだけ苦しげな声を漏らすが、それを嫌がるどころか、かすかな笑みを浮かべるのだ。


「待ってたのよ、こんなにも……歪んだ相手を」

互いが互いを“理想の獲物”“理想の捕食者”と呼ぶような出会い。

それは快楽と破滅が背中合わせに螺旋を描き、いつか二人を共倒れにさせるに違いない。

それでも、もう止まる術はない。捕食者が美味しく貪りつくし、被食者は貪り喰われる自分の姿に恍惚の笑みを浮かべる。

その危険な描像が、部屋の薄暗い空気のなか、はっきりと浮かび上がっている。


 そして二人は、言葉にできない衝動に身を任せるまま、まるで暗い淵へ沈むかのように重なり合う。

究極の“捕食”と“被食”の狭間で、どちらが主導権を握っているのかすら分からない。

むしろお互いが相手を支配し、同時に支配されている。

このデタラメな共犯関係こそが、彼らを狂わせているのだ。


 やがて、汗ばんだシーツの上で二人はわずかな会話を交わすでもなく、ほのかに微笑んでいる。

捕食者としての修一は確かに彼女を喰らった。

けれど澪もまた、“喰われながら喰う”という歪んだ快楽に陶酔している。

その背中合わせの倒錯に、修一は半ば呆れつつも自らも落ち込んでしまう。


「……ごちそうさま、って感じか」

修一が嘲りを混ぜて言うと、澪はクスリと笑う。

「私も、お腹いっぱいだわ。……でも、不思議と、もっと欲しくなる」

グロテスクなほどの幸福が、部屋の空気を充満させる。

表面上はささいな皮肉を交わしているだけに見えるが、その内側では双方の暗い熱がさらなる高みを欲している。


「まだ……終わりじゃねえよ」

修一の呟きに、澪は小さくうなずく。誰もが踏み込めない闇の底で、歪んだ愛を育てる者同士。

いつか本当に壊れきるまで、この危険な捕食と被食の関係を続けるのだろう。

同じように、澪は心の中で「喰われて死ぬまで、きっと離れられない」と囁く。

死ぬまで互いを喰らい合う関係――それが幸せか、破滅か、その見分けなどもうつかない。


 何を失っても、ふたりは共依存をやめられない。

サディズムとマゾヒズムという歪んだピースが噛み合い、捕食者と被食者が渇望しあっている。

夜の闇がますます深くなり、やがて外で始発電車の音が鳴り始めても、誰もいない湿った部屋の中、二人はただ互いの存在を確かめあうように静かに呼吸を繰り返していた。

破滅の匂いに埋もれたまま、甘美で致命的なひとときを貪り続けるのだ。

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