第3話 誘う瞳
人いきれが立ちこめる街の通りを、沢村修一はただ無表情に歩いていた。
生きた心地のしない会社員たちや、絵に描いたようなカップルがひしめき合うビル街。
少し湿った風が肌をかすめるたび、胸の奥に暗い火がちらつく。
それは、うずまくサディズム――いつどこで噴き出してもおかしくない危うい欲望だ。
どこかに“踏みにじる対象”を探して、獲物を求める捕食者のように意識を研ぎ澄ませる。
そんな中、見つけたのはガラス張りのカフェ。
「……ここで休むか」
大して行きたい場所などない。たまたま目についた場所に流れ込むように足を向ける。
表向きは何の感情もない顔だが、心臓はどこか落ち着かない。
自分の薄汚れた内面を誰かに見抜かれやしないか、と神経を張り詰めているのだ。
カウンターでコーヒーを注文し、奥まった席に腰を下ろしてから、ふいに強い視線を感じた。
ざわり、と全身の血が逆流するような感覚が走る。
「……誰だ」
視線を返すと、入り口近くのテーブルにいた女性が、まるで修一の存在を見透かすようにこちらを見ている。
艶のある長い髪、淡白な色のコート、無機質な表情……なのに、瞳だけは底知れない闇を湛えているようだ。
人混みのカフェでは普通なら気にも留めない他人――それが、まるで修一の“内側”をのぞき込んでいるかのように思えて仕方ない。
「……妙だな」
警戒というより、この奇妙な視線に妙な興奮が先立つ。
修一がそのまま相手を見返すと、女性は視線を逸らすどころか、むしろかすかに頬を染めたようにも見える。
まるで「あなたをもっと感じたい」という合図じみた挑発。
修一の胸に、つい最近までくすぶっていたサディスティックな衝動がさらに燻り始める。
女性の方は本を開いたまま、指先でそのページをなぞっている。
だが、注意は明らかに修一のほうへ向かっているらしく、時折こちらをちらりと盗み見ては、本へ視線を落とす。
「こいつ……何なんだ。俺のことを知ってるのか? それとも」
まるで毒牙を隠した獣が、舌なめずりをしてこちらをうかがっているように感じられる。
いや、もしかしたら「喰われに来た獲物」なのかもしれない――その両極のイメージが、修一の脳裏を刺激する。
コーヒーを飲み終わる前に、修一は思いきって席を立った。
自分が“捕食者”として彼女を狙うのか、それとも逆に“喰われる”のか。
その区別さえ曖昧だが、なぜか突き動かされるように近づかずにはいられない。
「あの……ここ、いいか」
ぎこちなく切り出した声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。反応は薄い。
ところが、その瞳は先ほどと同じ暗い奥行きを漂わせ、修一の存在を丸ごと呑み込もうとしているかのようだ。
「……どうぞ」
小さくうなずいた声は低く、湿度を含んだ響きがある。
無意識に修一の血が騒ぐ。
まるで獲物を見つけた狼が、じゅるりと唾を飲み込むときの感覚。
いや、相手からも似たような波動が伝わってくる――まさにサディストとマゾヒスト、あるいは捕食者と捕食されたい生き物が、無言で惹かれ合っているような奇妙な空気だ。
「読書ですか」
薄っぺらな会話を装いながらも、修一は刃先を隠し持って相手の反応を伺う。
実際、本なんか読んでいないに等しいだろう。
むしろ彼女は、修一の歪んだ獰猛さを感じ取り、その牙にわざわざ近寄ってきたのではないか――そんな予感が湧きあがるから怖い。
「普段は……だけど、今日は少し違うかも。あなたが気になったの」
その言葉に、修一の心臓が一瞬だけ暴れる。
見たところ彼女は、無防備に見えながらも奥底で「喰われたい」と願っているような、倒錯した魅力を放っている。
抑圧されたマゾヒズムの香りがむせ返るほど漂ってくるのだ。
「俺……変な奴かもしれませんよ」
わざと相手を試すように言い放つが、女性の瞳はまるで「もっと危険になれ」と誘っているかのように笑っている。
言葉にはしないが、その微かな微笑が、「私を好きにしていいのよ」という倒錯的なサインに見えて仕方がない。
二人の会話は他愛もないはずなのに、まるでカフェの中だけがサウナのように蒸しあがっている。
彼女の呼吸が、かすかに荒い。
指先は本の角を弱く撫で続けている。
その姿が、まるで「この手で首を絞めてほしい」とでも言わんばかりの淫靡さを漂わせていた。
「あなた……もしかして、私と似てるの?」
ふいに彼女が口を開き、深みのある瞳で修一を見つめる。
修一は返す言葉を探せない。
似ている、か。
たしかに、まともじゃない雰囲気を感じ合っているのは確かだが、具体的に何が同じなのかは言えない。
ただ、お互いの中に隠した狂気や飢えがシンクロしている気がする。
「……似てる、かもな。俺も……変だって言われることあるんで」
辛うじてそう返すと、彼女は唇に僅かな弧を描いた。
それは、隠しきれない期待と悦びの笑み。
捕食されたい獲物が、自ら虎の檻へ入る姿に酷似している。
あるいは、喰う側がその弱った獲物を好むように、もしかしたら“強い捕食者”を欲している雌狼なのかもしれない。
どっちがどっちでもいい――そう思わせるほど、空間が官能的な狂気に満ちていく。
結局、互いの名前を明かさないまま、会話は途切れた。
修一は湧き上がる興奮を抑えきれず、早々に席を立つ。
名残惜しいような彼女の瞳が「また会いましょう」と誘っているようにしか見えない。
「……じゃあ、また」
生返事を返しながら店を出ると、夜の風がひどく生々しい。
心臓がドクドクうるさい。
あの瞳――決して弱々しいだけではない、
ある種の狂気を孕んだ瞳。
自分が長年抱いてきたサディズムを受け止めたうえで、さらに深みへ誘うような……そんな倒錯の匂いを放っていた。
翌日も、落ち着かない気分のまま同じカフェへ足を運んだが、彼女はいない。
代わりに見つけたのは、近くの書店で働いている彼女の姿だった。
エレベーターで上階に上がり、柱の陰からそっと覗き込む。
彼女の、あの白い指先が本を整理しているのが見えた。
驚くほど静かな書店。その陰鬱な照明が彼女によく似合っている。
「ここか……なるほど」
思わず柱の影に身を隠す。
会話もままならないくせに、少しでも近くに行きたい衝動が抑えられない。
彼女の動きひとつひとつに呼吸が乱れる。
獲物を見つけた捕食者が、しかし逆に獲物から手招きされている――そんな倒錯が、修一の体を熱くする。
棚越しに気配を察したのか、彼女はふいに手を止め、視線を投げかけてくる。
「……!」
ばちり、と視線が合う。
焦って身を引くが、すでに遅いかもしれない。
どこか含みのある笑みがかすかに浮かんだ気がする。
恥ずかしさよりも背徳的な悦びに近い感情がこみ上げ、修一は冷や汗をかく。
まるで「隠れてないで出てきてよ。あなたに喰われたいの」と言いたげな、誘う瞳の残像がまぶたに焼きついた。
逃げるように書店を飛び出した帰りのエレベーター。
ガラス張りの壁に映る自分の表情は、まるで飢えた野獣のようにギラついていた。
「なんだ……この感じ。まるで向こうから自分をおびき寄せてるみたいに」
胸の奥で暴れる衝動が止まらない。
すぐにでも彼女の手を掴んで、自分の部屋に連れ込みたくなる。
あるいは、彼女の前で思いきり暴力的な態度をとり、そこでひたすら服従させてみたい――そんな危険な妄想がぐつぐつと煮え立っている。
だが同時に、彼女もまた、自分の餌になりに来ているのではなく、むしろ自分を喰らい尽くすつもりなのかもしれない――そんな予感さえある。
サディストとマゾヒストが入り混じった倒錯的な欲望を持つ者同士だからこそ、お互いを傷つけながらも求め合うのか。
「あいつ……たぶん、同じ匂いを感じたって言ってたよな」
小さくつぶやく声が震えている。
真の獲物はどちらだろう。
捕食者と呼ぶべきか、それとも自ら進んで喰われたい生き物なのか。
いや、お互いが同時に捕食者であり、同時に捕食される側なのか――それが危険なほどに甘美だ。
夜の町を歩く修一の足取りは、いつになく軽い。
不安や恐怖よりも、あの倒錯的な興奮が身体中を支配していた。
脳裏には、彼女の瞳とその底に潜んでいそうな狂おしいマゾヒズムがチラつく。
こちらのサディズムを見透かして笑う彼女の姿が、思考を焼き尽くすほど鮮烈に残っている。
「もし次に会ったら……どこまで踏み込んでしまうんだろう」
どちらが主導権を握るのかさえ分からない。
獲物を喰らいたい捕食者と、喰われに来る獲物が、同時に互いの血の匂いに惹かれている。
そんな矛盾が、いっそう倒錯の炎を煽る。
修一はすでに、完全に彼女という存在に取り憑かれていた。
自分の内側でうごめいているのは、突き刺すようなサディズム。
それを受け止めたいのか、吸収したいのか、
彼女もまた異様な欲望を抱え込んでいるに違いない。
二人が出会ったのは、偶然ではなく必然――修一はそう確信し始めていた。
「……いいだろう。どんな形でも、あの女を手に入れてみるか」
闇夜に呟いた声に、自分自身でゾクリとする。
危険な香りしか感じられないのに、どうしてこんなにも嬉しいのか。
まるで地獄の底で繰り広げられる饗宴に招かれたような、高揚が体を包んでいるのだ。
捕食者と自ら喰われにいく女――互いの傷や闇を嗅ぎ分けた同類同士の邂逅。
それがどれほど淫らで破滅的なのか、今の修一には考える余力すらない。
どこまでも異常なほど甘く、湿った快楽の誘いを拒めなくなっていた。
こうして、まるで運命を嘲笑うかのように、修一は自分の歪んだサディズムを満たす相手をついに見つけた。
そして、彼女もまた、抑圧されたマゾヒズムを抱えたまま、喰われること自体を望む獣のような危険な匂いを放っている。
もし再び二人が顔を合わせたとき、何が起こるのか――社会の常識など通じない、危険で淫靡な香りが周囲を毒していく。
後戻りなどできない悪夢の入口が、すでに開かれていた。
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