死ぬまで踏みにじって

三坂鳴

第1話 歪んだ種子

 じっとりと湿ったリビングの奥から流れてくるのは、テレビのくだらない音だけだった。

沢村修一はソファに沈みこんだ父の背中を見つめ、呼びかけようか迷い続ける。

手には、ぐしゃぐしゃに折れ曲がった学校のプリント。

「……父さん、これ……」

か細い声で言いかけるが、父は返事をしない。

声を荒らげたところで何も起こらないのはわかりきっている。

テレビの映像が彩る背中は、まるで修一の存在を初めから認めないまま時間を浪費しているかのようだった。


 諦めじみた吐息を漏らして、修一はプリントを丸めたまま自室に引きこもる。

雑然とした床には壊れたおもちゃや散乱した本が放り出され、部屋全体が乱雑な思考の映し鏡のようだ。

無関心と放置に満ちた家庭。

その空虚さから逃れられない息苦しさを感じながらも、同時にこの混沌とした空間こそが自分を守っている気もしてしまう。

「……どうして、誰も何も言わないんだよ」

天井を見上げて呟いても、返ってくるのは白い虚無。

親も教師もクラスメイトも、修一の感情には一切干渉してこない。

その「何もしない」という見えない暴力に、子ども心はじわじわと蝕まれていく。


 学校でも同じだった。

机の中にくだらないゴミが押し込まれていたり、わざと椅子を引かれて転ばされそうになったり、くだらない悪ふざけが日常になっている。

教師に訴えても、取り繕うだけの笑顔と「気にしないで」が返ってくるだけだ。

誰も助けてくれない。

その無力感が、修一の心にさらに暗い影を落としていく。


 ところが、ある日の帰り道――公園で鳩の群れを見たとき、修一の中に「なにか」を吐き出したい衝動が突き上げてきた。

誰もが自分を無視する無関心のモヤモヤを晴らすかのように、修一は石を拾って迷いなく鳩へ投げつける。

ばさばさと羽ばたいて逃げる鳩の姿に、胸がじわりと熱くなった。

可哀想とか申し訳ないとか、そんな感情は湧かない。

それどころか、自分が投げた石に反応して飛び散る鳩たちを見て、体が軽く震えるほどの興奮を感じた。

「逃げるんだ……そうだよな、当たり前だ」

逃げ惑う生き物を支配する――その一瞬、自分が「強い側」に立ったような錯覚が心を満たす。

もし怪我をした鳩がいたらどうしただろう。羽を掴んでどこまで苦しめられるのか、ふとそんな危ない想像がよぎる。

けれど同時に、そこまではできなかった自分に少し安堵しているのが笑えてくる。


 さらに遡れば、修一が十歳頃のある出来事が脳裏をかすめる。

庭の物置で飼っていた小さな甲虫――わざと羽をもぎ取るように弄んだあの日。

きっと嫌悪感を抱くのが普通なのだろう。

それなのに、潰れて体液がにじむ甲虫を見下ろすときのあの背徳感と、身体がじわりと熱くなる奇怪な昂揚。

それが、まだ幼い修一の胸に「怖いけど、やめられない」甘美な震えを刻み込んだ。

「これが……痛み、なのか」

誰かを、何かを、自分の掌で握り潰せるかもしれないという絶対感。

小さな子どもにとっては凶暴な力の表れに他ならないが、それが当時の修一には痺れるほど刺激的な体験だった。

誰にも知られたくない、しかし自分だけが知っている秘密の悦び。


この悦びは、単なるいじめや復讐心とも違う。

あの吐き出されない鬱屈を、弱い生き物を踏みにじることで一瞬だけ解放できる――その感覚が修一の中で、じわじわと根を張り始めていた。なにかが胸の奥で蠢き、煮え立つように叫んでいる。

「このまま……誰にも理解されないまま、消えるわけにはいかない」

無関心の海に沈められるなら、いっそ誰かを踏みにじってでも「俺はここにいる」と叫びたい。

両親や教師、クラスメイトに突き放されるたびに、その思いはさらに強くなっていた。


 思春期に差し掛かるにつれ、修一の心の乾きは一層激しくなる。

人間なんて誰も信用できやしない。

けれど、その虚無と屈辱に埋もれていたくないなら、自分が誰かを押さえつけて上下関係をハッキリと描けばいい――そのひどく乱暴な結論が、少年の内側で密やかに育っていく。

他の連中を見て、「こいつらだって弱いくせに、俺を笑ってる」と思うたび、どうしようもない憎悪か、または欲望に近い興奮が込み上げるのだ。


 夜の自室で、散らかった床に身を投げ出しながら、修一は自問する。

「……本当は、誰かを思いきり痛めつけたい。潰したい。そしたら、俺はスッキリできるのか」

そう考えるたび、小さな虫を弄んだあの感覚がフラッシュバックする。

じわりと体温が上昇していくのを感じつつ、それと同時に「他人がこんな俺を知ったらどうなる?」という妙な興奮も胸をかき乱す。


 家庭の無関心、学校のからかい、教師の冷淡な笑み。

それらが修一を追い詰める度に、彼の中の淫靡なサディズムの芽は少しずつ育っていく。

モノクロームだった世界に、まるで血のような赤い色がじわじわと滲むように――踏みにじる快感こそが、自分の存在を証明する唯一の方法かもしれないと思い始めているのだ。

「もっと強くなりたい……誰も俺を笑えないくらい、支配してやりたい」

それは復讐でもあるし、快楽への渇望でもある。

両方が混ざり合い、言葉にならない熱を修一の胸に生み出す。


 そして、そんな自分に気づきながらも、まだ断ち切ることができない。

いっそ暴れて周囲をぶっ壊すことは可能かもしれないが、どこかでブレーキをかける理性がある。

じわじわと形を成すサディズムは、甘く淫靡な炎となって修一を蝕んでいる。

「このままなら、きっと……」

夕日の赤が差し込む部屋に、陰鬱な影が伸びる。

散らかったプリントや雑誌を照らすその光景は、修一の心中にある黒い欲望をさらに鮮明に浮かび上がらせる。

まるで現実全体が薄赤いフィルターをかけられたように見えるのは、彼が瞳に宿した歪んだ種子のせいなのかもしれない。


 弱い命を弄んだときに感じた背徳的な熱さ――あれさえも、自分を“生かしてくれる”要素なのではないかと、薄々分かり始めている。

もう、普通に人を信じて笑い合う世界とは縁がない。

だったら、自分が「踏みつける側」でいられたら、少なくとも惨めにはならないだろう。

「……やめられるわけがない」

小さく呟いて、修一は窓の外を眺める。

どこかで誰かが楽しそうに笑っているかもしれない。

それを想像するだけで、嫌悪と羨望が入り混じったドロリとした塊が胸を締めつける。

ならば、いずれ誰かを支配しなければ、この感情は晴れないのだ。


 こうして、誰も気づかぬうちに芽生えたサディズムの種は、密やかな水を吸うように修一の心の奥で根を広げていく。

身体を焼くような興奮と、周囲への絶望を糧に、歪んだ幼芽は静かに育ち始めていた。

愛や優しさに裏切られた子どもは、誰かを傷つけることで自分を確かめるしかない――そんな危うい衝動を、彼はまだ幼さゆえの曖昧さで包み隠しているだけ。


 けれど、その曖昧さすらも時間とともに剥がれていくだろう。

モノクロに見えていた世界の中に、血の赤がにじみ出してくるのは間違いない。

踏みにじられるだけの日々から脱するためには、踏みにじる側に回るしかないと、修一は理解している。

そしてその歪んだ種子が、やがてはどんな花を咲かせるのか――まだ幼い瞳に宿った淫靡な光が、その未来を暗示しているようだった。

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