⑯・ハーモニー

 道路沿いの雑居ビル。三階の一室。

 薄暗がりの中で、佐原がスーツケースを開いた。

 中から部品を一つ一つ取り出し、慣れた手つきで組み立て始める。狙撃銃は、あっという間に完成した。

 佐原は黒光りする狙撃銃を抱えて窓辺に行く。窓からは、空き地の向こう側に道路が見えた。ローマ教皇の車列が通過する予定の道だ。ローマ教皇の車の直近には、護衛兵のダニエルもいるはずだ。

 佐原の首に、三日月型のペンダントが光っている。

 昔、美佐子と新婚旅行で行ったニューカレドニアのレストランを佐原は思い出していた。

 ―テーブルで向かい合う佐原と美佐子。

 美佐子が佐原に言う。

 「わたし、いつの日かきっと素敵な音色の鐘が鳴ると信じているのよ」

 「鐘?」と佐原が訊き返す。

 「教会の鐘の澄んだ音が……」美佐子はうっとりと夢見るような顔で言う。「この世界に本当の平和や、本当の愛が訪れた時に鳴るって信じてるの」

 「どんな音色だろうね、その鐘の音は」

 「人それぞれに違う音かもしれないわね。人それぞれに世界があるように」

 「一緒に聴きたいな。その鐘の音を……」

 ―他愛もない会話だった

と佐原は思い返す。でも、大切な愛しい時間だった。

 佐原は首を振って感傷を払いのけた。

 雑居ビルの窓から外を見ると、窓の下に空き地がある。その向こうに道路。

 沿道には、ローマ教皇を迎える市民の列が並んでいる。もうすでに、多くの群衆が集まっているようだ。

 遠くから歓声が聞こえてきた。佐原は道路の遠くに目をやる。

 ローマ教皇の車列がゆっくりと進んで来るのが見えた。

 車列の中央付近を進んでいる黒塗りのロールスロイスが、ローマ教皇の専用車だ。

 ―ダニエルだ!

 ローマ教皇の車の脇を歩くダニエルの姿も見える。

 佐原は唇を引き締めた。

 美佐子を殺した男……いよいよ復讐を果たす時がきたと思うと、体中にアドレナリンが駆け巡る。だが、思っていたより冷静な自分に安堵し、佐原は狙撃銃を構えた。

 ずっしりと銃身の重みを手に感じる。

 そのとき。

 再び、美佐子の記憶が佐原の脳裏にフラッシュバックした。

 ―美佐子が佐原を見つめて言う。

 「人を責めちゃ駄目よ。何があっても絶対に人を責めちゃダメ」

 美佐子の懐かしい声がこだまする。

 「人を責めたくなったら、自分の心の弱さを責めるのよ……」

 佐原は激しく首を振った。

 「無理だよ。美佐ちゃん、僕には、無理だよ……」

 佐原は窓から狙撃銃をしっかりと構え直す。

 スコープを覗くと、照準器の中に群衆が見えた。次に、道路に視線を移す。やや離れてローマ教皇の車列が視界に入ってきた。

 佐原はスコープから目を外し、腕時計を見る。午後二時五十分を指していた。

 ―よし。もうすぐだ。

 その時、激しくドアを叩く音がした。

 「マスター! マスター!」

 早乙女の声だった。

 「いるんでしょ⁈ マスター!」

 今度は礼子の声だ。

 佐原は狙撃銃を構えたまま、思いがけない訪問者たちに戸惑う。

 ガチャガチャと、ドアを強引に開けようとする音― 

 ドアが激しく蹴破られた。

 最初に飛び込んできたのは、伊集院だ。

 「もう終わりにしよう、マスター」

 狭い玄関口で伊集院が言った。

 続いて礼子と早乙女も玄関口に現れた。

 佐原は驚いた表情を隠せないが、何も言わず。じっと三人を見ている。

 礼子と早乙女が玄関口から部屋の中に入ろうとするが、伊集院が手で押しとどめた。

 「マスター。俺が刑事だった頃、強すぎる正義感の使い方を間違えて大きな過ちを犯したことを知ってるよな?」伊集院が言う。「三年前、ふらりとこの街に来て牧師と喫茶店のマスターを始めたあんたを俺は変わった奴だと思ったが、あんたは俺の過去を知っても他の皆と同じように……普通に接してくれた。いや、俺はあんたの風変わりで人間臭い説教話に心を癒されたと言ってもいい。俺だけじゃないぜ。みんなも、あんたの言葉に救われてきたんだ」

 佐原は寂しそうに微笑んだ。

 「私は、あなた方が思っているような人間ではありません。どうか帰って下さい」

 礼子は首を振る。

 「いいえマスター。あなたは私たちが思っているような人よ。お願い、戻って!」

 「こんなこと、やめようよ~」早乙女が情けない声を出した。

 佐原は寂しそうに彼らに告げる。

 「そこから先には入らないで下さい。ピアノ線を張り巡らせています。触れると、ビルごと吹き飛びます。あなた方が来るとは思わなかったので……すみません」

 佐原の声は、本当にすまないと思っているようだった。

 伊集院が佐原に言う。

 「マスター。外を見てみろよ。窓のすぐ下を」

 伊集院が窓のほうに視線を向けて佐原を促した。

 佐原は、警戒しつつ窓の下を見る。

 空き地に合唱団の人々が佇んでいた。全員が佐原を見上げている。

 「……?」

 佐原は問いかけるように伊集院たちに振り向いた。

 礼子が説得するように佐原に言う。

 「みんな、マスターの言葉に救われた人たちよ。みんな、マスターの帰りを待っているのよ。早く戻って、一緒にクリスマスを過ごそうよ」

 じっと黙っていた佐原が、ぽつりと口を開く。

 「私の言葉じゃないんですよ……私が皆さんに言ってきた言葉は全部、美佐ちゃん……私の妻が言っていた言葉なんです。本当は私の言葉なんかじゃないんだ……」

 「それでも、みんなの心の届いたわ。胸に響いたのよ。マスターの中で奥さんの言葉が生きてるからでしょ。だからもう、マスターの言葉なのよ」

 叫ぶように悲痛な礼子の声を佐原は黙って聞いている。

 伊集院が佐原に言う。

 「マスターが復讐しようとしてるダニエルという男のことも調べたよ。奴は引退した後、傭兵時代に稼いだ金を全て戦争孤児の支援団体に寄付したそうだ。そして、神に仕える道を選んだ。奴が選んだのはマスターのような牧師や神父じゃなくて、ローマ教皇の護衛という仕事だった。よく分からないが、奴にも色々あったんじゃないかな? 奥さんと子供二人……家族もいるらしい」

 佐原は微動だにしなかった。表情もまったく変わらない。

 伊集院は諦めず佐原に語り続ける。

 「マスター、よく考えてくれ。本当に、これでいいのか?」

 依然として佐原は沈黙している。窓の外をちらちらと見ながら、手は狙撃銃を握ったままだ。

 伊集院は深く溜め息をついて、礼子と早乙女に言う。

 「行こう」

 「でも……」

 礼子はためらったが、伊集院が目くばせをして促す。

 「いいから」

 礼子、早乙女、伊集院は、部屋を出ていく。

 礼子が後ろ手にドアを閉めながら言った。

 「マスター、しっかり聴いててね」

 三人が部屋を出た後、佐原はじっとドアを見つめていた。

 が、気を取り直して再び窓辺で狙撃銃を構えた。


 そのころ。

 喫茶クルスの店内にひとりで残った奈緒は、柱時計を見ている。

 午後二時五十九分だ。

 奈緒は不意に立ち上がった。そして、走り出した。

 店を出た奈緒は、隣の教会へ駆け込む。

 礼拝堂の奥に内階段がある。内階段は、教会の鐘がある鐘楼へと続いている。

 奈緒は、一気に階段を駆け上がった。


 雑居ビルの一室で、佐原は狙撃銃を構えた。

 沿道の群衆の歓声が高まっている。いよいよローマ教皇の車列が近づいているのだ。

 佐原が覗く照準器の中に、ローマ教皇が乗った黒いロールスロイスがゆっくりと入ってきた。かなりゆっくりだ。歩く人々と変わらないほどのスピードで車列は進んでいる。

 照準器の中に、黒塗りのロールスロイスのボンネットの先が入ってきた。ローマ教皇の車だ。

 ロールスロイスのすぐ隣を歩く男は……ダニエルだ。間違いない。

 佐原は銃身を動かさない。このままのスピードで動いてくれれば、ダニエルは照準器の真ん中に自然と収まってくるはずだ。無駄に力まず時を待つ。佐原は引き金に人差し指をそっと置くように触れた。

 その時―

 どこからか合唱団のコーラスが聞こえてきた。

 〈アメイジング・グレイス〉だ。

 佐原は迷った。が、いったん照準器から目を離して窓の下を見る。

 空き地で人々が歌っていた。その中に、礼子、早乙女、伊集院、聖月の姿もある。

 みんなが真剣に歌っている。

 あんなに下手だった早乙女と伊集院も、かなり上達しているのが分かる。見事なハーモニーを奏でていた。

 早乙女が歌いながら必死で佐原を見つめている。佐原は、早乙女が語りかけているような気がした。

 ―マスター、聴いてる? 俺たち、猛特訓したんだぜ。こんなに上達したんだよ。聴いてるか?

 真っ赤に目を腫らした礼子もまっすぐに佐原を見つめて歌っている。礼子も歌いながら心の中で佐原に語りかけているようだった。

 ―マスター、しっかり聴いて! 見て! マスターに幸せをもらった人たちの歌声よ。みんな、あなたのおかげで、こんなに幸せなクリスマスを迎えているのよ!

 礼子の隣には、母親の真理もいた。二人は仲良く並んで歌っている。

 聖月も歌っていた。聖月の両脇では、山村夫妻も歌っている。

 早乙女は里香と手をつないで歌っていた。

 島村も一生懸命に歌い、少し離れた場所でボディーガード二人も歌っている。

 他のメンバーも一人ひとりが真剣な表情で窓を見上げて〈アメイジング・グレイス〉を歌っている。

 佐原は窓から眼を逸らした。

 狙撃銃を構え直し、照準器に目を戻す。

 照準器の中には今、ローマ教皇の車とダニエルの姿が完全に入っていた。

 引き金にかけた佐原の指が、微かに震える。

 と、その時―

 突如、鐘の音が鳴り響いた。


 丘の上の教会。

 ずっと鳴ったことのない教会の鐘が、大きく大きく揺れている。

 明るく澄んだ音が、響き渡る―長崎の港に、石畳の坂道に、ふもとの街に―はるか遠い異国の地から届けられた贈り物のように、響き渡る。


 沿道に集まっていたの人々が鐘の音に気づいて、不思議そうにあたりを見渡した。

 〈アメイジング・グレイス〉の歌声に、鐘の心地よい音色が混じり合っている。


 丘の上の教会。

 鐘楼の中に立った奈緒は、両手で懸命に鐘を揺らして鳴らし続ける。

 奈緒は泣きながら叫ぶ。

 「もう愛はあるよ! マスター! この世界に愛はあるよ! マスターが教えてくれたんじゃないの! 愛はあるよぉーーーっ!」


 鐘の音と合唱が大気を震わせる中、沿道の人々の歓声に包まれて車列が進んでいく。

 ローマ教皇の車の窓がゆっくりと下がる。

 傍を歩くダニエルが、車の窓に近づいた。

 ローマ教皇がダニエルに言う。

 「Bellissimo suono di campana!(美しい鐘の音ですね!)」

 ダニエルは鐘が鳴る方角を見上げた。

 無骨な顔に似合わない優しい表情を見せて、ダニエルが言う。

 「Ha ragione(そうですね)」


 ―ローマ教皇の車列が遠ざかっていく。


 雑居ビルの一室。

 佐原は窓辺でライフルを構えたまま静止している。

 微動だにしない佐原の背中。

 鐘の音が薄暗い部屋の中に響いている。

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